プロローグ
「――ひゅぅー――ひゅぅぅっ――」
それが、死にかけているぼくの口から発せられている音だと気付いたのはついさっき。
昼下がり、木々の隙間から漏れ出す初夏の日の光が、仰向けに倒れている僕の顔を焼くように照らす。
まぶしい。しかし、それを遮る力も、方法も、気力も、根性も、もはやぼくには残されていなかった。
ピクリとも動かない体が、どうなっているのか確かめようとして、視線だけを顎の方に向ける――よく見えない。
だが、それでよかったのかもしれない。
特撮ヒーローよろしく、大爆発を背後に建物一階ほどの高さをダイブしたり、脇腹に手榴弾でも食らったかのような衝撃で、丘一つ分ローリングしたり、正面から撃たれた拳銃を、ジグザグに避ける気分で全力疾走して、余裕で被弾したり。
――思い返してみて、よくまだ生きているなと感心した。さっきまでピンピンしていた気もする。ハイだったのだろうか。そういえば、くっさいセリフを惜しげもなくのたまっていた記憶がある。
「…………」
恥ずかしくなってきた。いたたまれなさを紛らわすように、横に転がっている物体に目を向ける。
男。うつ伏せに、なにやら腹のあたりを不自然に浮かしている――ナイフの柄だった。ぼくが刺した。ぼくが殺した。
――いや、死んでいないのかもしれない。ぼくだってはたから見れば単なる死体だ。焼死体か、射殺体かは検察にお任せしたい。ちなみにこいつは刺殺体。
(あー……)
暇だ。
暇すぎて、無駄なことばかり考えてしまう。もっと死は刹那的なものだと勝手に考えていた。死んだこともないくせに。本当に勝手だった。
――死んだらどうなるんだろう。
小さいときは、そんなことばかり考えていた気がする。
(……いや、違うな)
いつだって、死にたかった。
朝起きて、今日が始まることに絶望し、夜布団に入り、明日があるかもしれないことに悲観した。
(そう……それが、)
間違いなく、ぼくという人間の原点だった。全てだった。
どうして忘れていたんだろう――なぜ、こんなになってまで、まだ呼吸を続けているのだろう。分からない。思い出さないといけないような気がする。
だけど。
ふいに目に入る光が、ちかちかと点滅しだした。既に感覚がなかったはずの体が、ずん、と冷えていくような悪寒。開いたままのまぶたが、だが徐々に視界が閉じてくる。空気が抜けるような間抜けな呼吸音が、どんどん遠くなっていく――
「――い――き!」
突如、ぼやけていた鮮やかな緑と日光の淡黄色の光景が、染め上げたような純白と肌色の何かに色を変えた。もう大分暗い眼界の中で、その何かは必死に動き、叫んでいた。
「しな――でっ――!」
ごめんね。だけどもう、眠たくて仕方がないんだ――胸中で謝ってみるが、表情一つ動かせそうにない。
所詮、人は三大欲求に勝てないみたい。睡眠欲には制圧されるがまま。食欲には耐えられず、口にしては生きながらてしまうことに後悔し。もう一つはなんだったろうか――まあ関係のない人生だった。
次はもうちょっと、ましな人生になることを祈っておこう。
そんなセンチメンタルなことを最後に考えて。
ぼくは走馬燈を見た。
◇◆◇◆◇◆◇
よく笑う子供だった。
なぜならば。
笑うことが、ぼくの存在価値だったからだ。
「ちっ――」
片頬をやや赤らめながら微笑むぼくに、舌打ち一つを残して、きちっと伸びた背中を向けて離れていく。
四十崎理久。ぼくの腹違いの兄だ。
長い廊下の角に、その姿が見えなくなるまで、その場でにっこりとぼくは笑い続けた。
じんじんと、赤くなった頬に痛みを自覚する。自慢じゃないが、体が脆弱なぼくは、風邪を引けば普通に日単位で寝込むし、軽く肌を引っ掻けば一瞬でミミズ腫れになるし、常にストレスで口の中に出来物があふれているし、頬をはたかれれば、一週間は腫れたままだろう。
それでいい。ぼくに顔に傷を付けたなら、お父様からこっぴどく叱られることだろう。それで口内炎が幾つかましになるのなら、ぼくは努力を惜しまない。
やがて、誰もいなくなった廊下を、ぼくは後を辿るように歩き出した。
四十埼家。
それは生涯、常識という常識に真っ向から対立することを宿命づけられた一族だ。
人が空を飛んだり、瞬間移動したり、まれに爆発したりする、そんなありきたりな超常と。鉛弾と、刃物と、血が飛び交うありきたりな非日常と。
そこに生を受けながら、常識の範疇に留まることしかできない人間が一人。
ぼくこと四十埼維咲は至って常識的な人間だ。
一階から五階に移動するときはエレベーターを使うし、立ち幅跳びで道路を横断することは出来ないし、水上で出した右足が沈む前に左足を出すことは出来ない。
だからぼくは、この家の長女になった
*
「お嬢様――そのお顔、どうなされたんですか!?」
部屋に入るなり、先月ぼくの付き人となった同世代の侍女は、メイド服のスカートをばたばたとはためかせながら駆けつけた。「ちょっと外で遊んでたら、ぶつけちゃいました」と言うと、可哀想なぐらい真っ青になり、「氷を取ってきます!」と、入れ替わりに慌ただしく飛び出していった。
それを見送ってから、室内を見やる。
広々とした屋内、その中央に、大人を五、六人転がしてもまだ余裕があるローベッド。それを中心に、見た目から既にふかふかの絨毯。脇に豪奢な化粧台。バス停の長椅子より長いソファー。
そのどれもが、これまた煌びやかシャンデリアの下、己の値段という価値をこれでもかと主張している――
ずいぶんと無駄なことだ。そう思う。彼らも思っているだろう。金だけは履いて捨てるほどあるのが幸いなのか、だからこその矜持なのか。
これは、家畜部屋だ――つまり、ぼくの部屋だった。
あと三年ほどの教育を経て、然るべき処理を行ったのち、時代遅れな政略結婚道具として出荷されることが既に決まっている。出荷先は知らない。
家畜には、毎日専属の教師があてがわれる。数学の教師、英語の教師、礼儀作法の教師にダンスの教師、音楽の教師、魔法学の教師、エトセトラ、エトセトラ。
どれもこれも、一級と呼ばれる者たちなんだろう。
だがその入れ替わりは、一度しか変わっていない魔法学を除き、とても激しい――唯一の生徒に、多分に問題があるからだ。
ある時は座学中に窓から逃げ出し、またある時は堂々と居眠りし。成果を披露する場ではわざと失敗したり、そもそも授業に出てこないことも少なくない。
一人しかいない生徒に手を焼き、その本懐を果たせないような未熟な先生には、もれなくお父様からのクビ宣告が下る。
そのため彼らは、あの手この手で必死に工夫をした――表向きは国内で有数の大富豪。裏向きはその界隈での生きる伝説そのものだ。ここで勤めたという経歴次第で、今後の人生が比喩抜きでがらりと変わる。
興味が出るような授業を突き詰める者、友達や兄弟のような気安い雰囲気でこちらとの距離を詰めようとする者。金や物で釣って来るような俗な者。あまりに授業出てこないため、こちらの部屋まで迎えに来たり、予定を全て把握して追いかけてくるようなアクティブな行為に励む者。
最終的に、大の大人が二回り以上も年下の子供に、必死の形相でせがむような悲惨も光景もあった。
だがそこまでが出来るライン。線引きだ。身体の拘束や体罰など、物理的な行為は固く禁じられている――だから結局のところ、やろうと思えば、今日のように簡単に逃げ出せてしまう。
「こ、氷です! 早く冷やしてください、痕が残ってしまったら大変です!」
と、急いだのか存外早く戻ってきた彼女は、まだ入り口のところで突っ立っていたぼくの頬に大胆に氷嚢を押し当てる。冷たくて気持ちいい。
そのまま奥へ押されるようにして、ベッド脇まで移動させられたぼくは、膝裏が折れて倒れこむように、勢いよく腰掛けた。隣へ座った彼女は、一心に片手で氷を抑え続け、もう片方の手でぼくの肩を抱いていた。体温が高い彼女の腕が、じんわりと暖かい。
「……もういいよ。自分でやる」
「だめです。お嬢様の手じゃ、霜焼けになってしまいます。それに、こうしてないとまたどこかへふらふらと出て行ってしまうんじゃないですか」
目と鼻の先、ふんわりと長いまつ毛の奥から、意志の強そうな瞳がぼくを縫い付けるように見つめている。そこに見える感情は『心配』だった。
「…………」
されるがまま、ぼくは黙り込んだ。半分ほど開けた窓から春風が吹き込み、カーテンがそよそよと揺れる。
ふと、顔を上げた先に、化粧台に備え付けられた鏡があった。頬にポリエステルの生地を押し当てられた女が映っている。
調度品のように、一片の迷いもなく配置された端然とした面貌。目は儚げと幼さと弱さと強さが入り混じった、吸い込まれるような美しさと混沌の色をたたえる。ほどよく薄い唇に上向いた口角は繊月のよう。きめ細かな絹肌は、だが行き過ぎて人間味まで失った人形のごとく。
――大層美しい、ぼくという道具が映っていた。
道具に傷を付けてはいけない。それが教師達がぼくに手を挙げてはいけない理由だ――人権や常識や良心なんかじゃない。ぼくはここでは、人間じゃない。
血が繋がった家族も、ぼくを教育する彼らも、ぼくに仕える侍女らも、誰も彼も。
その瞳の奥には、無機質な諦観と、無関係な憐憫と。それは養殖場に繋がれた豚に対する感情だ。
隣の彼女も、すぐにそうなるだろう。皆時間が経つごとに気が付くらしい――ぼくを人間扱いする必要はないってことに。
期待はしない。いずれ絶望するだけだ。
いつの間にか鏡の中の女は、いつものように、ぺたりと貼り付けたような機械的な笑みを浮かべていた。
*
最初は、ただの不幸な事件だった。
お母様が死んで、ぼくという人間だったものの将来が決定づけられて、半年ぐらいたった頃。
厳しい叱責に耐えられなくなり、お父様に泣きついてしまった。
とても優秀で秀抜で正しい人だった。同じぐらい厳格で峻烈で激しい人だった。その後紆余曲折あり、結局教師はクビになった。
記念すべき最初の解雇者。彼は激昂して、原因たるぼくを半殺しにした。
――それ以降、ぼくは隙あらば彼らの教育から抜け出すようになった。
「――お前がこの雪を降らしてるんだろ!」
「黙ってないで何とか言えよ! ああ!?」
その日もぼくは、外に抜け出していた。
よく晴れた日。見上げた空には雲一つなく、澄み渡る空気には風一つ吹かず。
だが、しんしんと降る季節外れの雪が、誰もいないアスファルトに無音で着地し、次々と死に絶えている。
そんなありふれた日。
屋敷の裏、子供たち。響く罵声。一人の地べたに座り込んだ女の子。三人の囲むように男の子。
分かりやすい構図だ。ぼくは躊躇せず大股に近づいた。
一番近い男の子が気付く。ひょろりとした男の子。ぼくの目線が、ちょうど彼の胸と同じ高さになるぐらい、背が高い。巨人といってもいい。子供と言っても、ぼくより何歳かは上だろう。
「あ? なんだおまえ――ぶべっ!?」
言い切る間もなく、ぼくの必殺猫パンチが顔面に炸裂する。オーバーリアクション気味に数歩後ろによろめく彼をそのまま見送り、代わりに、脇に立っていた達磨のようにずんぐりした男の子にローキックを食らわす。「うえっ!?」と悲鳴を上げながら、その場に派手にずっこけた。見たまんま運動不足のようだ。
残り一人の、いかにもなヤンキースタイル襟足で、やや小柄な男の子が呆けた棒立ちで。
よろめいたひょろり背の彼が困惑顔で。
のろのろとひっくり返っただるま男が怒りに満ちた真っ赤な顔で。
はたまた、未だ地面に足を投げ出したままの女の子が目を見開いて。
(なんだこいつ――!?)
と全員が全員、そう言わんばかりの顔でぼくを見ていた。確かにそんな顔をされても仕方がない。
何の事情も聴かず、何の前触れもなく突然現れた乱入者たるぼくは、別に女の子を助けようとしているわけでも当然なく。彼女など、我関せずの振る舞いで、達磨を蹴転がしたままの場所で背筋を正し、にっこりと――場に全くそぐわない、もはや無意識に出る美少女スマイルでぼくは笑った。男達はがん首を揃えて、わけが分からないといった風の、ぞっとした表情を浮かべていた。
――実際問題、彼らが間違ったことをしていたのかは微妙だ。
魔法――この雪を本当にそこの女の子が降らしているとすれば、大問題だ。ぼくは魔法が使えないけれど、それに関する知識は教育されている。
こと、この雪は非常にまずい――周囲一帯の魔法の効果が利きにくくなってしまうものだ。こんな時に襲われたりしたらひとたまりもない。いたずらなら性質が悪すぎる。四十崎に対する敵対行為と見なされても仕方がない。男の子たちが息を切らして怒鳴るのも分かる話だ。
だが――その頃の、とっくに狂っているぼくには関係のないことだった。
我に返ったヤンキースタイルの蹴りを半歩下がってよけ、後ろ重心をそのままに、トーキックを彼の顎めがけて蹴り上げる。
「ふごっ――!」
実に痛そうなうなり声を上げながら、ヤンキーはもんどりうった。
――誰でもよかった。
殴りたかった。蹴飛ばしてやりたかった。ぼくが生まれてきてこの方十数年、常に味わい続けているこの理不尽を分からせてやりたかった。
真面目にやってくれとせがむ大人を、笑顔で突き放すのは心地よかった。お父様に呼び出され、ふるふると震えながら青い顔になる女教師は無様だった。怨嗟に満ちた目で屋敷を後にする男の後ろ姿を思い返すたび、高笑いが止まらない――だがそれじゃあ物足りない。
「はは……あははははははは!」
突然笑い出したぼくに、彼らは恐怖からか、はたまた別の何かか――一瞬、凍り付いたように固まった。
だが――ぼくという異常者に、すぐに達磨男は、ぼくを睨め付けながら油断なくファインティングポーズなどを取る。ヤンキーは口を切ったのか、血がにじむ口元を拭い、立ち上がる。ひょろり背男は彼らの後ろで、覚悟を決めたかのように固く手を握りしめていた。
もはや、どちらが悪役なのかは一目瞭然だ。
勇者共を見据えながら、だが笑みは張り付かせたまま、
「ぼくを、殺してよ――」
果たして、囁くようなその言葉は彼らに届いたのだろうか。
*
蹴る。蹴る。殴る。殴られる。防ぐ。蹴る。蹴られる。突き飛ばされる。燃やされる。転がされる。殴られる。投げ飛ばされる。折られる。
格闘術の授業も受けてはいたが、多勢に無勢。
それに、生物学としてはまだ分類オスでも、そもそも脆弱な体力に怪しげな薬物投与まで受けている人口女のぼくには、やんちゃ盛りの男の子三人に勝てるわけもない。
「…………」
戦い、終わって。
誰もいなくなった雑草畑の上に横たわる。屋敷はやや遠く、離れたところに見えた。
体中が痛い。あちこちが擦り傷だらけ痣だらけ。特に痛い手首は骨折でもしたかのように、動かせる気がしない。
それでも、多少口の中を切った程度で、他に顔に痛みがしないところを見ると、手加減されたんだろう。美少女はこういう時まで何かと徳らしい。
しばらく立ち上がれる気はしないが、その程度。ただただ痛いだけで、死にはしない。
死なない。
「…………はぁ」
所詮、子供の喧嘩だ。互いに魔法が使えるかもしれないというところで、多少はデンジャラスでヴァイオレンスな展開になっても、こっちが使えない以上、人死が出るほどにはならない。
結局、ぼくは何がしたかったんだろう。
痛みには慣れているが、マゾというわけではない。全身傷だらけになりたいような、危ない趣味はないつもりだ。妙に胸がすーっとしている――体を動かしたせいか、ストレス発散になったんだろうか。複雑な気持ちになる。
たったった――
と、軽い足音。
駆け寄ってきたのは、最初から眼中になかった、魔法使いの女の子。
黒々とした長い髪を汗ばんだ額に張り付かせ、息も絶え絶えながら、ぼくの脇に膝から崩れるように座り込んだ。
まだあどけなさが残る面立ち――その首には、無骨な革製の首輪が、強烈な違和感を醸し出していた――まるで犬のリードのような。それが自分の所有物だと声高らかに示すような。
その首輪の正面ど真ん中に埋め込まれた、白い真珠のような指先大の石が、瞬くように自ら光り輝いている。
その光に呼び掛けられるように――はたまた彼女が連れてきたように、さっきまで止んでいた雪が、ふと見えげた空で踊るように再びちらつきをみせていた。
「君、は……」
声を掛けると、女の子は困ったような、泣いてしまいそうな、笑っているような、疲れているような、曖昧な表情を浮かべた。
似ていると思った。表情が、というわけでも、見た目がというわけでもない。
だが、この子はぼくの同類だと直感した。
その彼女が、
「ありがとう」
と言った。
「…………え?」
と、間の抜けた返事を返すと、彼女は繰り返し、言った。
――ありがとう。
助けてくれて。
ありがとう。
(…………)
それは、知識としては知っていたものの、ぼくの人生の中ではとうに存在しない言葉だった。
感謝。謝辞。お礼。似たような言葉を並べてみる。やはり、みんな聞き慣れないものばかりだ。
彼女を見やる。首の真珠もどきが光を増すごとに、こめかみにしわがよる。汗は徐々に引いているようだが、代わりに体が小刻みに震えているようだった――まるで、力を吸われているように。
先ほどは気が付かなかったが、着衣は絞った雑巾のようにしわくちゃで、薄汚い。長髪はささくれだっており、ただ伸びたままという感じが明らかだ。足には何も履いていなかった。
家畜。
僕の、同類。
「さっき、屋敷の人を呼んできました。まだ中は慌ただしいけど……すぐに誰か来てくれると思います」
だが、その言葉はもうぼくの耳に入っていなかった。
――ぼくは、とうに狂っていた。人間扱いされないまま、人間じゃなくなっていた。
いつからだったのだろう。アレからだったような気もするし、初めからだったような気もする。
目の前の女の子は、だが人間のまま、そこにいた。
黙り込んでしまったぼくの手を、温めるように両手でぎゅっと握りしめる。つい最近見たような、心配げに揺れる瞳がぼくを見つめていた。
まだ暑い季節。ゆったりと舞い散る雪に包まれながら。
ぼくは――胸の中に怒りを燻ぶらせていた。
どうして、ぼくらはこんなにも不幸なんだろう。どうして、こんなにも絶望に満ちているんだろう。
ぼくは化け物になってしまった。彼女はまだ人間でいられている――人間。
人間。
ぼくの常識を、自由を、性別を奪ったあいつらは。
彼女に首輪をつけて、犬のように道具のように扱うあいつらは。
あれこそ、化け物そのものじゃあないのか――?
「ぼくは……君を助ける」
何の脈絡もないぼくの言葉に、彼女は驚いたように目を見張らせ――ついに浮かばせた涙を頬に伝わせて、くしゃりと顔を綻ばせた。
それは、完璧さも美しさもなく、だが暖かく、安堵と希望に満ちた――とても魅力的な笑顔だった。
二年後、人が変わったように熱心に授業に励んでいたぼくは、ある日忽然とその屋敷から姿を消した。
そして二度と戻ってくることはなかった。