これからが始まり
あれから夕方になると、沖田さんは部屋に戻る前に、私の所に顔を出してくれるようになった。必ず何かを手土産にして。
「顔色、良くなってきたな」
「うん。お薬と休養のお陰です。あ、どうぞ中に」
「ありがとう」
夏の制服に切り替わったので、以前に増して爽やかさに拍車がかかっている。半袖から覗く鍛えられた腕に、つい目が行ってしまう。
この間、この腕に抱きしめられた事を思い出す。
ドクンと心臓が大きく跳ねた。
「明日、検査だろ?」
「うん。鹿島先輩が、付き添ってくださるって」
「そう。なら安心だな」
沖田さんは基本的に無駄話をしない。たから、用件が終わると会話が途切れてシンという音がしそうになる。
でも、ここは空自官舎。ゴゴゴーとエンジン音が間を埋める。
「天衣、って呼んでもいい?二人の時だけ」
「ぇ、あ、もちろん!」
そう答えると、沖田さんがふっと笑った。
「ぁ……」
思わず声を漏らすほど、その表情が素敵だった。自分だけに向けられた柔らかな表情に私は釘付けになる。
「口が開いている」
「あっ、失礼しました」
「くくっ。天衣って、面白いやつだな」
(わ、笑った!!沖田さんが、笑ったーー。)
「検査終わったら教えろよ。みんな心配していた」
「あ、すみません。もう直ぐ次の展示飛行がありましたよね」
「ああ。順調だから安心して」
「はい」
遅くなるといけないからと立ち上がり、沖田さんは玄関に向かう。
私は見送る為に後ろについて行く。
靴を履き、彼が振り返った。
「沖田さん。いつもありがとうございます」
「千斗星」
「え」
「俺の名前。沖田さんより、そっちがいい」
「っ、千斗星さん」
「さんも要らない」
「ええ!……千斗星、ありがとう」
余りにも恥ずかしすぎて顔を伏せた。一気に顔に熱が集中して、耳まで滾っているのが分かる。
すると、ポスっと彼が私を腕の中に収めた。
ああ、やっぱり安心する。私は本当に5番機を操る、沖田千斗星が好きなんだ。
「じゃあ、また」
「うん」
パタンとドアが閉まる。トクトクと胸の音が耳に残った。
* * *
翌朝、鹿島先輩が市内にある自衛隊病院に付き添ってくださった。
念のため前回の診断書も持参した。
今は血液検査である程度の事はすぐに結果が出るようで、私達は病院屋上の喫茶スペースで時間を潰していた。
「あれから、体調はどう?」
「はい。処方された薬のお陰か、以前と変わりありません」
「そう。よかった。私たちは女性はみんな貧血気味よ。ストレスも絡んだら厄介だから、この際きちんとしておかないとね?」
「はい。皆さんにはご迷惑をお掛けして」
「あ、そうそう。沖田くんとはどうなの?」
「え!」
鹿島先輩に沖田さんの事を振られて動揺する私。先輩はにこにこ笑いながら「知ってるわよ」と言った。
「聞いたんですか?沖田さんから」
「ううん。見たら分かるわよ。定時に上がって、香川さんの部屋に行くところ見ちゃったから」
「なるほど」
「それに、ね。八神くんが悔しがってたから」
「八神さんが?」
鹿島先輩が言うには、八神さんが沖田さんに私の事を聞いたと。私を助けたのは沖田さんで、その後一晩付き添いをした事も。
「香川さん。すっかりブルーたちの心掴んじゃって」
「そんなつもりはっ」
「褒めてるのよ。彼らは何処か孤立した感じがあったから」
どこに行っても歓迎されるブルーインパルスは、航空自衛隊の花形となっていた。それは時に内部からの妬みのタネともなる。
広報担当者もどこか腫れ物を触るように遠巻きから見ていたと。それを変えようと塚田室長が、新人の私を放り込んだと。
「ならば尚更、恋愛なんて。ましてや現役パイロットと」
「それはそれよ。そういうのはコントロール出来ない。ダメと言っても、諦められるものではないでしょ」
「まあ……」
「それより、いい方に切磋琢磨して欲しい。沖田くんの良さが生かされるように」
「はい」
*
そして、午後。検査結果が出た。
【溶血性貧血の疑い】
何らかの原因で赤血球が壊れてしまうこと。
症状としては、黄疸、脾臓の腫れ、悪寒、発熱、脱力などが現れる。
症状が進むと「溶血クローゼ」と言うショック症状に陥り、命の危険さえも起こりうるのだと。
「まず、香川さんの今の状態ですと、薬での治療からで良いと思います。一度倒れたのは、疲労も重なっていたからだと推測します」
「これ、大変な病気……ですか?」
「まだ詳しく調べてみないと分かりません。ご家族にこういった症状の方はいないですか?」
「特に聞いたことは」
「そうですか」
更なる分析が必要で1週間ほどかかるそうだ。
聞き慣れない言葉に、私はどう気持ちを整えたら良いのか分からなかった。とにかく無理はせず、これまでのように生活を送ってくださいと言われた。
大した事ないのか、重大な事なのかよく分からなくなっていた。
「とにかく、普通に過ごしましょう」
「はい。ありがとうございます」
1週間後に予約を入れて、基地に戻った。
「そうか。取り敢えず、1週間後に詳しい結果が出るんだな」
「はい」
「体調はどうなんだ」
「はい。休ませて頂いたお陰で以前と変わりありません」
「無理はするなよ。体調が優先だ」
「ありがとうございます」
その日は休んだ分の書類の処理に追われた。次の展示飛行のスケジュールと展示内容を確認した。
次は美保基地。そして、輪島基地だ。
季節が進むに連れて天候との戦いとなる。輪島はいつも微妙な天気なのだとか。
「てるてる坊主でも作ろうかな」
天気予報を見ながらそう呟いていた。
「香川、上がっていいぞ」
「え?」
時計を見ると、とうに時間は過ぎていた。まだ、3時間しか働いていないのに。
「5番機が待ってるんじゃないのか」
「ありがとうござ……え!」
先輩方がにやにやしながら私を見ている。
バレてる!! なんで!?
「香川っ……か、帰りますっ」
真っ赤な顔を隠すようにして退室した。なぜ、皆知っているの!
逃げるように基地を出た所で人とぶつかる。
ドンッ
「っあ、ごめんなさい」
なんてそそっかしいのだろう。深く頭を下げた先に男性の靴が目に入る。誰とぶつかったんだろう。
「全く、相変わらずだな」
「あ」
沖田さんだった。
見上げた彼の顔は呆れたような、でも不機嫌な感じはなかった。
「お疲れ様です」
「お疲れ」
私たちは並んで官舎まで帰った。制服を着ている間は先輩と後輩だから、付かず離れずの距離を保って。
やっぱり会話が弾む気配はないけれど、嫌ではなかった。無言でもその空気は私の心を和ませた。不思議な人。
「飯は?」
「まだです。帰ってから適当に」
「じゃあ、俺の部屋に来いよ。検査結果も聞きたいし」
「え、行ってもいいんですか」
そう聞き返すと、ニヤと意地悪そうに笑って「ダメなら誘わない」と当たり前の答えを聞かされた。
本当は距離の取り方が分からないだけ。
異性とお付き合いするという事。それが、同じ職場のしかも優秀なパイロットだという事に戸惑っていた。
もっとちゃんと、恋愛しておくべきだった。
今更ながら過去の自分にボヤいてみる。




