雨は想いを抱えて
腕を掴まれ後ろから抱き込まれて、マルティナはパニックに陥っていた。悲鳴を上げようにも口は大きな手で押さえられてしまっている。
「静かに」
しかし聞こえてきたのは聞きなれた声でマルティナは抵抗を止めた。すると相手もそれを感じ取ったのか、口をふさいでいた手を外す。そしてマルティナはくるりと体の向きを変えて声の主をきちんと確かめようと顔を上げる。
その瞬間、ラーシュの深緑の瞳に自分の顔が写っているのが見えた。そして自分の顔の映ったその瞳はあっという間に近づいてきて、マルティナが動けないでいる間に、ラーシュに口づけられていた。
マルティナは抵抗できなかった。ラーシュがしっかりと腰と後頭部を抑え込んでいるという物理的要因もあったが、それ以上にマルティナの頭は今の状況を全く理解できていなかった。
口づけはどんどん深くなっていく。ラーシュはまるでマルティナを求めているかのようだった。まるで愛しい恋人を一瞬たりとも離したくないとでも言うかのように、ラーシュは深い口づけをする。
「ここに誰か来ませ……あ――」
おそらくマルティナを追っていた人物だ。しかし今マルティナはラーシュの影に完全に隠れていて、向こう側からはラーシュの背中しか見えないはずである。
去ってくれと祈っていたら、ラーシュが口づけを止め、マルティナの顔を隠すためなのか、マルティナの頭を自らの胸に押し付けた。
「誰も来てないと思うけど? 邪魔しないでくれる?」
「す、すみません……」
いかにも恋人との逢瀬を邪魔されて不機嫌だという雰囲気を出したラーシュに、相手は焦ったように謝った。そして足音が遠ざかっていく。
どうやらばれずに済んだようだ。
ラーシュがきつく抱きしめていた腕を緩めて、そして何故かふと動きを止めた。そして何故かひどく苦しげな表情を浮かべる。
「どうしたの……?」
「それはこっちの台詞」
すっとラーシュの親指が頬をすべる。それと同時に自らの頬が涙にぬれていることに遅まきながらも気づいた。
「そんなに嫌だったのかよ。確かに契約違反だけど……」
傷ついたという表情のラーシュに、マルティナは反射的に首を横に振っていた。不思議なことに、ラーシュにそんな顔はさせたくなかったのだ。
「そんなことない。助けてくれてありがとう」
マルティナはあえてキスのことは明言を避けた。嫌だったと言えば嘘になる。しかし嫌でなかったとはっきり言ってしまうことは、マルティナとラーシュの間にある契約を崩してしまうものだとなんとなく悟っていた。
「そうか……」
ラーシュはためらいながらも、マルティナに手を延ばしてあやすように背中をぽんぽんとたたく。
「これも……」
「ん?」
「なんでもない」
ラーシュの行動はあくまでも契約の範疇だ。マルティナはそう思いたかった。
しかし本人も契約違反だと言わなかっただろうか。そこまでしてしたキスには、マルティナを助けた以上の意味があるのか。いや、ないだろう。
あると信じたくなかった。信じて裏切られるのは怖かった。
マルティナは男を信じようとしたこともあった。けれどもそれは全て、自らの地位と見た目を前に崩れ去った。見た目を好いてくれることはよい。地位に多少目がくらむのも良い。だからといって、肉欲と野心だけを抱いている者は許せない。それはマルティナでなくてもいいと言っているようなものだからだ。
今目の前にいる男は、いったい何を求めているのだろうか。彼が求めている物は、もしかするとマルティナが常々信じたいと思っていたものなのではないだろうか。
彼は歌を聴いてくれた。
マルティナを信じると言ってくれた。
「そういえば顔はみた?」
「見たけど知らない奴だった」
思考に没頭していたため、一番大切なことを思い出して問いかけるが、彼は首を振る。見たことがないと言うことは学校の生徒の振りをしている誰かか、普段目立つことのない生徒かのどちらかだ。ただどちらにせよ、学校内に怪しげなものを引き入れる誰かがいるはずだ。
しかしこれは今考えても結論はでないだろう。
「ところで、どうして私が追われているって気づいたの?」
おそるおそるといった様子でマルティナに触れるラーシュをしっかりと見据えて問えば、ラーシュは視線を泳がせた。
「風が気まぐれに教えてくれたからだ」
「そう。ありがとう。もう大丈夫」
これ以上彼の腕の中にいると、マルティナは問いたくない問いかけをしてしまいそうだった。
「お前、次にこういうことがあったら、俺を呼べよ。一人で首を突っ込むな」
これ以上、期待させないで。そう叫びたかった。
どうしてこの男はそういうことを言うのだろう。契約を持ち出したのはラーシュの方だと言うのに、どうして契約以上を期待させるような台詞を吐くのだろう。
「わかった」
マルティナはどうにか平穏を装ってそう言って見せた。
それからというもの、マルティナはラーシュと二人きりにならないことに全神経を使っていた。
不仲説が流れると契約の意味がなくなるため、ラーシュとは二人で過ごす。しかし必ず人目があるところを選び、恋人同士を演じて見せた。
そして人目のつかないところに入りそうになると、何かと理由をつけてラーシュから離れた。周囲のほとんど人間はラーシュとマルティナが順調だと信じて疑わなかったが、ラーシュ本人とアデラは騙されてはくれなかった。
ラーシュはキスが原因だと思っているらしく、手は出さないからと言うのだが、マルティナは契約は果たしているといってそれをいなした。
「マルティナ。あなたおかしいわ」
しかしアデラの方はそう簡単には騙されてくれなかった。できることのならアデラにも隠し通していたかったのだが、それは無理なようだ。
二人でどこにいくでもなく学校の敷地内をぶらぶらと歩き回りながら、マルティナはしぶしぶことの流れを説明した。
石の話になると、また首をつっこんでとアデラに呆れたような顔をされ、その後のキスの話はそれとなく濁そうとしたがアデラにはあっさりと指摘された。
そして全てを離し終えたあと、アデラはしばし考えているようだった。
「自分の気持ちには気づいているのね?」
「気づきたくないけど」
そう言ってみれば、アデラはその答えに満足したようだった。そして茶化すこともなく真剣なまなざしで彼女は告げる。
「あなたには時間が必要ね」
「時間?」
「ええ。そしてきっと、ラーシュは待ってくれるわ」
「あの男が待つかどうかが問題なんだけどね。でもまあ、考えてみる。ちょっと一人で歩いてくるわ」
「それがいいかもしれないわね。じゃあまた」
マルティナはアデラのこういうところが好きだった。マルティナの心をきちんと汲んで、一人になりたいときにはひとりにしてくれる。
彼女は時間が必要だといったが、それはすなわちマルティナが考えなければいけないということだ。
まず話をややこしくしているのは、契約の二文字だ。
この前提があるかぎり、マルティナはラーシュを信じることが出来ない。しかしだからといって契約を止めようと言い出せるだろうか。今の関係を案外気に入っているのだ。マルティナは今のところこれ以上のなにかをラーシュに求める気はない。
それならば、このままの関係でもいいのではないだろうか。
「あ」
ぽつりと垂れた一粒の雫がマルティナを現実に引き戻した。いつのまに雨雲はそこにいたのだろう。空は灰色に染まり、ぽつりぽつりと大粒の雨を降らし始める。
これは大雨になる予兆。
水使いのマルティナにとっては、多少濡れるくらいは不快ではないのだが、濡れた服を乾かすのはマルティナには難しい。
だからこそわざわざ雨に打たれることはない。さっと視線をめぐらせて大きな木を見つける。
「きゃあぁぁっ!」
校内という場に似つかわしくない悲鳴。それとともに激しくなる雨足。みなマルティナが面倒事に首をつっこみたがるというのだが、マルティナからすれば面倒事がマルティナの手の届く範囲に次から次へと振ってくるのだ。
マルティナは闇雲に走りかけて、ふと足をとめて空を仰いだ。
「ラーシュ」
その一言で、おそらく十分だろう。水呼びは水を呼ぶには歌が必要だが、自らの想いをその場にある水に託すことに歌は要らない。
特に雨はどこかでつながっている者らしい。同じ空から降るからだろうか。古来から水呼びたちは雨を伝令に使っている。
マルティナは再び悲鳴の上がった方へと走った。
学校の敷地内でも、特段人の少ない場所に一人の少女が倒れているのを見つけた。あわててかけより、脈を取る。
どうやら気を失っているだけの様だ。
マルティナがほっと息を付いた次の瞬間、雨の警告が聞こえた。
それと同時に反射的に体を横に反らす。何かが空を切り、しかしその直後頭部に激しい衝撃を感じた。
世界が回る。雨がざわめく。
「たす、けて……」
気を失う寸前のマルティナの最後の一言は、振り続ける雨に託された。




