永久の風がふく
「もう契約なんてやめましょう」
マルティナがそう告げると、ラーシュはぴたりと動きを止めた。瞬きすらも忘れてしまったかのようにマルティナをただ見つめている。
そんな視線に耐えきれずマルティナは視線をふいとそらした。
「私、あなたのこと好きみたい」
極力、軽い調子を装って言った。真剣な告白だったが、あまりに重い愛情を乗せたくなかった。勝手に進んでしまっている婚約話もある。彼に選択肢を残しておきたかった。
「だから契約なんてもう無理だわ」
しばらくの間、その場は身動きもとれぬほどの静寂が支配した。自らの心臓の音がうるさい。ついにマルティナは告げてしまったのだ。もう後には引き返せない。
契約なんて都合のいい理由は自ら捨て去ってしまった。その未来にあるのは、別離か幸福か。
もういっそ断り文句でもいい。何か一言でも話してほしい。
長い沈黙に耐え切れずに、しかし視線を上げてラーシュの顔色をうかがうこともできずにマルティナがそんなことを考え始めた時だった。
「馬鹿……。お前、ほんっとに、もう……」
是とも否ともわからない言葉を漏らしたラーシュに、マルティナは思わず顔を上げた。
すると彼の表情を窺うよりも先に、マルティナはラーシュに深く口づけられていた。いつのまにか強く引き寄せられていて、窓枠にあたる手が痛いほどだった。
しかしそんなことも気にならないほどには、マルティナは幸せだった。これは是だととっていいはずだ。マルティナはネガティブ君とはちがって、そこまで卑屈ではないつもりだった。
「心臓が止まるかと思った……」
「え?」
名残惜しむようにキスを終えたラーシュは、深く息を吐いてこちらを見た。その深い緑色の瞳は確かに愛情に満ちていた。マルティナが疑う余地もないほどに。
「契約を止めようなんて言うから、婚約のことで嫌われたのかと……」
「そんなわけないじゃない。あなたはいつだって助けてくれたのに」
「でもお前はいつも契約を持ち出して躱してた。俺の好意は全部スルーだったろ!」
「ちょっと待って、ラーシュはいつから私のこと……?」
「最初から好きだったんだよ」
「最初から?」
「ああ。お前が歌っているのを見て興味を持った。そのあとしばらくお前のことを観察してたら好きになった。好きになったから、お前に契約なんて持ちかけたんだ」
マルティナは初めて言葉を交わしたあの日のことを思い出す。あの日の彼はいたって事務的で、あっさりとしていて、そんな素振りは一ミリたりとも見せなかった。
「それならどうしてそんな回りくどいことを?」
これでは契約に縛られて悩んでいたことがばかばかしいではないか。文句を言いたい気分になってそう言えば、ラーシュは何故か眉を吊り上げた。
「お前が言うのか……? 知りもしない相手の告白は全部断ってたお前が? 自分のことを見てくれないと言う割に、男は全部視界から排除してただろ。友達からなんてことも許しそうにもなかった」
「そ、それは……」
ラーシュの言い分は最もである。おそらくラーシュに契約恋愛ではなく普通に告白されていたら、きっとマルティナは深く考えずに断っていた。
「婚約の話も、俺が真面目に付き合っているって両親に宣言したから、あんなに固まったわけだし」
「外堀埋めたのはラーシュだったの?」
きっとアデラはこのことを知っていたのだ。今になって彼女がラーシュの気持ちについて明言を避けた理由がわかった。
「必死だったんだよ! 分かれよ! 外堀埋めるのに奔走してしばらく見舞いにこれなかったから、顔だけでも見ようと思ったら、お前は外で呑気に歌ってるし!」
話が戻ってきてしまった。どうやらマルティナの行動はラーシュを相当やきもきさせていたらしい。
「そもそも好きじゃなかったら誰が図書館にあんな長時間こもるんだよ! 好きじゃなかったら、もめごとに俺を巻きこめって言うわけがないだろ! 好きじゃなかったら、そんなに何度も都合よくお前と遭遇するわけない!」
照れからか普通には言えないのか、ラーシュはやけになったように叫んだ。それはマルティナに率直に想いを伝える彼なりの方法。その言葉に喜びを感じると同時に、ふとネガティブ君の言葉を思い出す。
「……好きじゃなかったら、あんなに自由に風を操れなかった?」
マルティナがそう問い返すと、ラーシュはぐっと言葉に詰まった。どうやらこの言葉が一番効いたらしい。彼の顔が赤い。
「じゃあ、最初から最後まで嘘だらけだったわけね」
出会ったあの日、彼はマルティナのことは噂でだけ知っていると言っていた。
図書館の日も契約のためだと言っていたし、何度か都合よくあらわれたのも気まぐれな風が教えてくれたと言っていた。
大前提から嘘で塗り固められていた契約は、本当は何の枷でもなかったのだ。
「最初から最後まで嘘じゃないこともあるけどな」
「嘘じゃないこと?」
持ちかけられた契約も理由も嘘だった癖に、今さら何が本当だったと言うつもりだろうか。
しかしそんな疑問をマルティナが抱いていることなどわかりきっているとばかりにラーシュは笑っていた。そしてすっとラーシュの顔がマルティナに近づいてきた。
キスされるかと身構えたマルティナだったが、ラーシュの口はするりとマルティナの顔の横を通り抜けていき、そして彼女の耳元まで来て止まる。
そして彼は耳元で囁いた。
「俺がマルティナのこと好きだってことさ。みんなの前で何度も宣言しただろ」
ラーシュの風が銀色の髪を揺らした。この風はきっと、永久にマルティナの側にある――




