耐えきれないこの心
「まったく凝りませんね。あなたは」
呆れを含んだその声に振り返ると、そこにいたのはネガティブ君だった。いつのまにそこにいたのだろうか。歌に夢中になっていて全く気付いていなかった。
「警戒心がなさすぎです。そもそもあれだけのことがあったんだから、おとなしくしているべきでしょう?」
たとえ啖呵を切った時のことであまりいい感情を持っていない相手だとしても、ネガティブ君はまったくもって正論を述べていて、マルティナはぐうの音も出なかった。
それに今日は彼からネガティブも卑屈も感じられない。マルティナが彼を無視する理由はなかった。
「歌うことで元気になれるのよ。あんなことがあったからこそね」
「貴女の婚約者が知ったら、怒ると思いますが?」
「う……本当に誰でも知ってるのね。それこそ私が歌ってる原因なのに」
婚約話を思い出して、マルティナはためいきをつく。
「納得してないんですか?」
「ラーシュは納得していないと思うわ。私たち本当に付き合っているわけじゃないの。ただ、お互いの虫除けになりましょうっていう契約なのよ」
マルティナが契約のことを口にするとネガティブ君は目を見開いた。マルティナは不思議だった。いつもだったらこういう秘密を軽々しく話したりはしないだろう。
でも今日は誰かに聞いて欲しい気分だった。ネガティブ君には、マルティナが一方的に作った貸しもある。このくらいの話は聞いてもらってもばちは当たらないはずだ。
「その契約を持ちかけたのはどちらからですか?」
「ラーシュよ」
ネガティブ君は何故かそこで大きくため息をついた。
「それであなたは婚約をどう思ってるんですか?」
「私は……別にかまわないの。いいえ。そうなれば嬉しいって言ってもいいぐらい。ラーシュのこと、好きになったから。でもラーシュの気持ちはわからないわ。私と関わってから面倒事に巻き込んでばかりだし……」
言葉にして、本当に面倒事に巻き込んでばかりだと改めて実感する。そもそも女たちをさばくのが面倒だからと契約を申し込んできたラーシュなのに、マルティナが面倒事に引き込んでいては本末転倒だ。
「そんなの素直に伝えるべきでしょう」
「素直に? 嫌がられたくないの。これ以上、負担になりたくない……」
「はあ。どうしてですか? 今のあなたは僕以上にネガティブですよ。伝えて見なければ分からないのに、伝えてみる前に逃げるんですか?」
大きくため息をついたあと、ネガティブ君はそんなことを言った。どうやら本人にもネガティブだという自覚はあったようだ。
「二度目にあの三人組に絡まれていた時、助けてくれたのはあなたでしょう? 僕を助けるようなお人よしは……いえ、これは卑屈かもしれないのでやめましょう。僕を助けてくれるような知人で、水使いなのはあなたくらいしかいないんです」
「気づいてたの?」
一度目は体術でさばいたので、水使いであることは知られていなかったはずだ。しかしネガティブ君はそんなマルティナの疑問はお見通しだったらしい。
「僕はたまたまあなたが歌って水を使っているところを見たので知ってたんですよ」
「あ、なるほど……」
「あなたは一回目に会った時に、啖呵を切りましたよね。僕を二度と助けないと。でもあなたは結局僕を助けた。それは、僕が抵抗して自分で立ち向かおうとしたからじゃないんですか? 自分で立ち向かう姿勢を見せたから、手助けする気になったんじゃないんですか?」
彼のいう通りだ。マルティナは最初、本当に彼を見捨てる気だった。しかし、彼がきちんと自ら抵抗して、すべてを諦めたただのネガティブでなくなっていたから、手助けしようと思ったのだ。
「それならあなたも自分から立ち向かわなくてどうするんですか」
これは本当にあのネガティブ君だろうか。ネガティブで卑屈で誰も信用できなくて、そんな彼に苛立ったのはどうしてだったのか。その中にかすかな自分と同じ匂いを感じていたからではないのか。
マルティナだって同じなのだ。他人を信じきれない。その点では彼と同じくらいネガティブで卑屈なのかもしれない。
「あなたにそんなことを言われるなんて世も末だわ」
前回あれだけの啖呵を切ったこともあり、素直にありがとうとは言い難くて、思わずそんな風に言ってしまう。
しかしネガティブ君は、そんなマルティナの台詞を気にした様子もなく静かに微笑んでいた。そして思いついたように言葉をつむぐ。
「実は僕も風呼びなんです。弱いですけど。だから知ってるんです。風は気まぐれだけど、色恋沙汰は大好きなんです。だから本気の愛には、いつだって全力で応えてくれるんですよ」
確かにいつだった彼に聞いたとき、彼も似たようなことを言っていた。本当に望むことには風はちゃんと応えてくれると。
「でも、風使いなら……」
「風使いじゃないですよ。あの人は。あの人が風を呼ぶのに失敗したのを見たことがあります」
「失敗? いつでもあんなに自由に風を操っているのに?」
マルティナにはあのラーシュが風を操り損ねる姿を想像できなかった。いつだって風を意のままに操って、マルティナを助けてくれる。
「あなたの周りにはいつも彼の風が吹いている。それが答えじゃないですか?」
ネガティブ君はそっと笑っていた。彼の言葉と同時にふっと背中にいつもとは違う風を感じる。
「……ありがとう」
彼なりの後押しだと気づいたマルティナは、今度こそ素直に礼を言ったのだった。
ネガティブ君と話した後、マルティナは当然のようにもう一曲歌おうとして、ネガティブ君に部屋に戻るようにと諭された。
マルティナはもう一曲歌いたかったのだが、彼は何故か必死だった。まるで風が彼に何かのお告げでももたらしたのではないのかと思う位には必死だった。
そんな彼の様子にさすがにいたたまれなくなり、マルティナはしぶしぶといった調子で部屋の前まで戻った。もっと正確に言えばマルティナの部屋の窓の前に戻った。
そして窓ガラスに手をかけようとして、マルティナの良く知る風が窓を開けた。
「マルティナ!」
勝手に空いた窓に驚くよりも先に、叱咤する声が飛んできてマルティナの腕が掴まれた。そして窓枠越しに良く知った風の主に抱きしめられた。
一度マルティナを強く抱きしめた彼は、マルティナの両肩を掴み、ぐいっと顔を近づけてきた。
「お前はどうしておとなしくしてないんだ!」
「ごめんなさい……」
窓ガラスを揺らしそうなほどの剣幕に、マルティナはただ反射的に謝った。
「婚約のことも、本当に申し訳ないと思ってるの」
「そのことはいい! そうじゃなくて、なんで一人で夜に出歩くんだ!? この部屋に誰もいなかった時に、俺がどれだけ心配したか分かってるのか!」
怒りと心配と安堵。その先にある想いを、マルティナは信じたかった。マルティナと共に彼の風があるのは、そこに心があるからだと信じたかった。
深い緑色の瞳が自分を真剣なまなざしで見つめているのは、契約ではないと確かめたかった。
信じることは怖いこと。しかし、ネガティブ君にああいわれては、何もしないわけにはいかない。
「あなたのその優しさは、契約にしては度が過ぎてるわ」
信じられない原因が契約ならば、マルティナは一歩踏み出すべきなのだ。
「まるで私のこと好きみたいね」
そう冗談のように軽い調子で言えば、ラーシュはぴたりと動きを止めた。
「もう契約なんてやめましょう」




