震える身体は
男の指がマルティナの服に掛けられた。その時だった。
マルティナの良く知る風がマルティナの長い髪を浚った。それと同時に男の体が横に吹っ飛び、派手な音をたてて壁に激突する。その直後に液体の入った瓶が男の体の側で砕け散った。
「んん!」
声にならない声を上げると、室内で起こりえない風が、マルティナを拘束していた鎖さえも断ち切った。がしゃりと重い音ともに、自分の腕が重力に従って落ちる。
「マルティナ!」
それは、求めていた声だった。ラーシュはマルティナに近づくと、マルティナの口をふさいでいたものを取り払った。
「ラーシュ……」
ラーシュが力強くマルティナを抱き寄せた。その肩越しにあの男が数名の騎士に取り押さえられているのが見える。
おそらくラーシュはマルティナが雨に乗せたあの声をしっかりと聞いてくれたのだろう。
暖かな腕がマルティナを落ち着かせた。肌に触れているという行為は同じものであるのに、どうしてこんなにも感じ方が違うのだろうか。
「悪い……遅くなって」
ラーシュの声には後悔がにじみ出ていた。まるでマルティナがこんな目にあったのは自分のせいだとでも言いたげな様子である。むしろラーシュのおかげでマルティナは狂わずにいられたと言うのにだ。
「だい、じょうぶ……」
「無理するな。ゆっくり呼吸して……」
震えているマルティナの体をゆっくりとした動作でラーシュはさすった。
「あの婆も騎士に捕まってる。学校は多少騒ぎになってるけど、大丈夫だ」
「ここまでは、どうやって……?」
「水だよ。空から降る水が教えてくれた」
ラーシュはすっとマルティナの頬にとめどなく流れる涙をすくった。既視感のある行動だったが、それを思い返すよりも先にラーシュの顔が近づいてきていることに気づいた。
それを受け入れようと目を閉じかけて、そして、はたと気づく。
「だめ……!」
大きな声ではなかったが、はっきりとした拒絶はラーシュの動きを止めた。
「悪い……これじゃあいつと同じ――」
「――そうじゃなくて、猿ぐつわに薬がしみ込んでて、私の口にはまだ残ってると思うから」
マルティナが口早にそう言うと、ラーシュは一度マルティナから離れた。そして男の側に落ちていた瓶の欠片に目を止める。
「あれか」
一言つぶやくとおもむろに立ち上がり、男を取り押さえている騎士に近づいた。どうやら説明しているようだ。そしてしばし何かの会話をしたあと、ラーシュは騎士から何かを受け取って戻ってきた。
「水。これで口をゆすいで」
ラーシュは水筒と大き目の布をマルティナに渡した。それを受け取り、マルティナは軽く水を含んで口をゆすぎ、布にそれを吐き出した。
視界がぐらりと揺れた。
「これで大丈夫だろう。……マルティナ? マルティナ!」
もう大丈夫だ。ラーシュが傍にいる。そう思って安心したマルティナは、自分でも気づかぬうちに意識を手放したのだった。
誰かに呼ばれた気がした。
「マルティナ」
いつも聞いている声。その声の主はそっとマルティナの額に手を当てた。
「マルティナ! 大丈夫?」
「アデラ」
頭がキンと痛む。身体をゆっくりと起こして部屋を見回すと、どうやらここは校内にある医療棟のようだった。
「大丈夫……。ちょっと頭痛いけど」
「もう! 心配をかけさせないでちょうだい! いつもいつも一人で危ないことに首をつっこんで!」
アデラにぎゅっと抱き着かれると同時に、ふわりと甘い香りがする。マルティナと違ってきちんと貴族の令嬢らしい彼女は、こんなふうに怒って見せることは少ない。その怒りがマルティナを心配してのことだと理解しているので、マルティナは行動を改めようと心に決める。
助けてもらった直後もラーシュにあんな苦しげな表情をさせてしまったのだ。
「あ……! あの人たちどうなったの? ラーシュは?」
「順を追って話すわ」
アデラは抱きしめていた腕を緩めて、ベッドの傍に会った椅子に座り直す。
「ラーシュが雨に、おそらくマルティナの”声”に呼ばれて騎士とともにあなたを見つけたの。そこは覚えているのかしら?」
「覚えてる。それで?」
「そしてその場で騎士たちは主犯の老婆を捕まえ、貴女を、その、手を出そうとしたあの男子生徒も捕まえたわ。老婆は他にも罪状があって裁判待ち。男子生徒は退学させられて、彼もまた牢屋行き」
あのしつこい男が牢にいると聞いて、マルティナは少し安心した。牢に入れられているのならば、あの狂気に再びさらされることもないはずだ。
「当然の報いだわ。それでも足りないくらい。学校も騒ぎになったのだから」
「学校も?」
「雨で学校にあった石が濡れて、それなりの数のカップルが場所を選ばずに事に及んだのよ」
「そんな! 大丈夫だったの?」
「幸いにも全員が恋人同士だったから。本人たちは恥をかいたけれど、そもそも学校からの注意喚起をろくに聞きもせずに石を持ってたのが悪いんだから……まあ、学校は混乱しただけで済んだわ。当事者たちが多すぎて、特定の誰かが噂になるようなこともないの」
「それならほとんどは上手く収まったのね?」
「……そうね。それに、彼らは噂の的になることがないのにはもう一つ理由があるの」
ふとアデラは言葉を詰まらせた。そして言いにくそうに切り出す。
「学校中はあなたとラーシュの婚約の話題で持ちきりよ」
「二人の……何の話題って!?」
「事件のあったあの日からすでに五日経ってるの」
「五日!」
そんなに寝ていたのかと驚くマルティナに、アデラは気の毒そうな目を向けながらも続きを話す。
「その間に、マルティナの家族が事情を聞いてラーシュに礼をしたいと申し出たの。それならば、ラーシュが気に入っているようだからマルティナを嫁にとラーシュの父が申し出たらしいわ。マルティナの家族もまんざらではなくて……」
「それはそうよね。うちは伯爵家。相手は侯爵家だから!」
マルティナに怒る権利はない。比較的自由な恋愛が多いといえど、マルティナは伯爵家の出身だ。政略結婚の可能性があることも理解していたし、覚悟もしていたつもりだった。しかしこんな形で、しかも恩も一方的かもしれない想いもある相手と縁談がまとまってしまうのは不本意だ。
「一応、マルティナのご家族は本人が目を覚ましてからと言ったようだったのだけれど、あっというまに学校中にその噂が広まってしまって……マルティナをラーシュが助けにいった話はもちろんみんな知っているし……」
つまりマルティナが非常に断りにくい状況であると言うことだろう。そもそもマルティナとラーシュは契約のことがあったため、仲の良い恋人同士を演じていた。そんな噂もきっと両親たちの耳に入ったに違いない。
「それで、ラーシュは?」
「あ……そうね、どうなのかしら? 私はずっとマルティナについていて、彼は事件のことでいろいろと動き回っていて話していないのよ」
一瞬何かを言葉につまったようだったが、アデラは知らないと首を横に振る。
マルティナにとっては、ラーシュがどう思っているかが一番大切なことだった。
「これは契約なのに……」
「私は、マルティナ次第だと思うわ」
「私次第?」
「あなたが何を望むか。それが全てよ」
それは違う。そう言いたかったが、アデラはそれを許さなかった。あなたが選びなさいと彼女の目が言っている。
選べるのはマルティナなのだろうか。
アデラがおとなしくしてなさいよと釘を刺して部屋から出て行った後も、マルティナはずっと考えていた。
契約の後、彼はいつでも助けてくれた。マルティナは彼の風を感じるたびに、言い表すことのできない安心感を得ていたのだ。たとえ彼が純粋に契約のために動いていたのだとしても、あるいはただのお人よしだったにしても、恩があることには違いない。
一つの可能性。
彼がマルティナに惚れている――そんな可能性は今は考えたくなかった。
それは最もマルティナにとって都合がいいもの。甘い現実だ。しかしその期待が裏切られたとき、マルティナは立ち直れるだろうか。
そんなことを考えていたら、夜が更けてもまったく眠れなかった。
窓の外の空を見つめれば、今夜は月が明るく輝いている。
おとなしくしてなさいよ。
そんなアデラの言葉が一瞬頭をよぎるが、事件の後だ。学校の警備だって強化されているに違いない。
眠れない夜は外で気持ちよく歌うのが一番である。
迷いは一瞬だった。
マルティナは上着を羽織り靴をはいてそっと窓を開けた。呼ばれた風でない、自由な風がマルティナの肌を撫でた。
そっと窓枠に足をかけて、地面に降り立った。部屋が一階にあったことに感謝すべきだろう。そうでなければこう簡単に外に抜け出したりはできなかった。
窓を外側からそっとしめて、マルティナは歩き出した。
医療棟の近くには、円状の花壇があり、その真ん中には三人掛けほどの椅子がある。おそらくここは長期療養する生徒の気晴らしの場所なのだろう。
何の歌を歌おうか。ここは花壇だから、水はむしろ歓迎されるはずだ。今のマルティナなら何の曲を歌ってもいい。
息をたっぷり吸って、マルティナは歌い始めた。
それは花をたたえる歌。情景を歌った曲のようで、ところどころに男の燃えるような愛情が見え隠れする歌は女子生徒たちの間で人気だった。
そんな燃えるような恋の歌を、軽快に気持ちよくのびのびと歌う。自由な風に揺れる花が美しく、ふと彼らに水をあげたくなった。
そこでマルティナは歌に自らのラーシュへの想いを載せる。そして望む水を頭に思い描いて、右手を空に向かって突き出した。
するとマルティナの歌に乗って、呼ばれてきた水が手から生まれて、まるでクジラが潮を吹くかのように勢いよく空へと吹き上がってから、円状の花壇へと均等に降り注ぐ。月光を背に水を透かして見れば、そこには夜の虹が踊っていた。
夢中で一曲を歌い切り、ほどよく濡れた花壇の土を見ながらマルティナは次の曲は何がいいかと考え始める。
しかしマルティナが次の曲を思いつくよりも先に、それは何者かの声によって遮られた。
「まったく凝りませんね。あなたは」




