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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

名もなき怪物

作者: ノイジョン

 書き終えてから気づきましたが、ホラーになってないかも。

 作中に人が食べられるシーンがあったりします。リアルな表現は極力避けていますが、苦手な方はご注意ください。

 伊田が訪ねてきた時、すでに時刻は八時を回り、身を焼くような真夏の太陽も地平の向こうに沈んでいた。

 切れかけの蛍光灯に照らされた部屋の中は薄暗く、時折、羽虫が耳元を掠める。

 伊田が部屋に上がってから口論に至るまでに大して時間は掛からなかった。原因は――有体に言えば痴情の縺れというやつだ。

 伊田という男は、世間一般にいう、所謂二枚目だ。男の目から見ても頷ける。ただ、目、口の端々に厭らしさが滲み出ていると感じるのは、俺が彼の品行をよく知っているからこそなのかもしれない。

 つまり、逆を言えば、彼のことをよく知らない大半の女性はそれに気づかず、その容姿にコロリと騙されてしまう。

 ――俺の妹もその一人だった。


 しかし、それは、まあいい。

 あれは妹が馬鹿だったのだ。「あいつだけはやめておけ」と、何度も止めたのに、聞く耳を持たなかったあいつが悪い。

 俺は妹のことがあってからも、伊田との付き合いをやめなかった。

 女のことさえ絡まなければ、伊田はそう悪い人間ではなかった。それどころか、いい友人だとさえ思っていたのだ。


「涼子にだけは手ぇ出すなって、俺言ったよな」

 湧き上がる感情を抑えようともせず、目の前のニヤケ顔に叩きつける。伊田は一見爽やかな、しかし薄らと卑しさの滲んだ笑みを引っ込めようともせず、それどころか、そよ風でも受けるように涼しい顔をしている。

 しばし考えるような仕種を見せると、「ああ」とわざとらしく声を上げた。

「そういえば、そんなこと言ってたなあ」

「何度も何度も念押ししたよな」

「そうだった。そうだった。――しつこいぐらいに、な」

 伊田の口端が吊り上がる。

「でもさあ、あんまりしつこく言われると、やっぱり人間、逆らってみたくなるんだよ」

 悪びれる風もなく言ってのける伊田の小奇麗な横顔を、思い切り殴りつけたい衝動に駆られるが、必死に抑える。

「――なんでだよ。友達だと思っていたのに」

「友達だよ。少なくとも僕はそう思っている。そして、これからも友達でいられるとも思っているんだ。だって、そうだろ? こんなことぐらいで関係が壊れるなんて馬鹿らしいじゃないか」

「こんなこと、だと」

「こんなこと、さ」

 だんだん指先の感覚が薄れていく。拳を強く握り過ぎているせいだということには気がついていた。それでも、俺は拳を開くことができないでいた。

「涼子は、俺の彼女だ」

「そうらしいね。けれども、彼女、僕を受け入れたよ。というか、そもそも誘ってきたのは彼女の方だし――」

「嘘を言うな」

 我知らず怒鳴り散らしていた。感情も身体も、徐々にコントロールが効かなくなっていく。まるで、自分が自分でなくなっていくような――そんな感覚。

「大きな声を出すなよ。本当だよ。嘘なんか吐くもんか。まあ、信じる信じないは勝手だけど」

 伊田が徐に背を向ける。ウェストバッグを手に、そのまま玄関の方へ。蛍光灯が瞬いた。

「どうやら酒を呑むって雰囲気でもなくなったね。僕は帰らせてもらうよ。――ああ、そうだ。一つだけ、はっきりさせておきたいんだけど……。

 やっぱり僕は悪くないよね。だってさ、彼女からにせよ、そうでないにせよ、結局僕に靡いたってことはさ、とどのつまり、お前にそこまでの魅力がなかったってことだろ」

 背中越しにそう言って笑った伊田の後頭部が、気がつくと足元に転がっていた。




「――どうしよう。どうしよう」

 情けない声が口から漏れ出る。

 やってしまった。頭に血が上って、頭の中が真っ白になって――そこから先は、よく覚えていない。気がついたら、あいつの身体が床に転がっていた。手には血のついた灰皿。定番過ぎて笑えもしない。

 我に返って、伊田の肩を揺すりながら声を掛けてはみたが、全く反応がなかった。

「どうしよう。どうすれば――」

 とにかくどこかに隠そう。でも一体どこに。

 灰皿についた血を拭いながら考えるも、一つもいい案は浮かんでこない。それもそのはず。死体の隠し場所なんて生まれてからこれまで一度だって考えたこともないのだ。咄嗟に、そんな都合よく思いつくはずがない。

 呆然とする俺の頭の中に、なにやら嘲笑うような、どこか誘うような、不気味な声が割り込んでくる。


――俺がなんとかしてやろうか――


 囁くような声はベッドの下から発せられている。そんな気がした。

 見慣れたはずの自分のベッドが、突然、異様な物へと変貌する。確かめるのが怖い。頭の中の声は次第に大きくなっていく。俺はゆっくりと膝を折り、身を屈めた。恐ろしさに一度は閉じた瞼を無理矢理こじ開ける。

 ――ベッドの下はいつもと変わらず、暗闇がこごっていた。

 なんだ。何もないじゃないか。

 息をいて、視線を戻そうとしたその時、いつもと変わらないはずの暗闇の中に小さな異常を見つけた。輪郭もはっきりとしないそれは、暗闇の中で小さく蠢いたかと思うと、一気に膨れ上がった。

 ただの白い靄のようだが、ぼんやりと人の形を象っているようにも見える。仰け反り、バランスを崩した俺は、無様に尻餅をついたまま、ぼんやりとそいつを眺めていた。

――俺がなんとかしてやろうか――

 同じ言葉を繰り返し繰り返し述べる声は尚も頭に響き、脳を震わす。何か答えないと、この得体の知れない白いものに殺されるのではないかと思った。

「な、なんとかって」

――その死体だよ。俺がなんとかしてやるって言っているんだ――

 ちらりと伊田の身体を一瞥する。ピクリとも動く気配はない。

「ど、どうするっていうんだよ。絶対に見つからない隠し場所でも教えてくれるってのか」

 馬鹿馬鹿しいとはわかりながらも、白い靄と会話せずにはいられなかった。どんな手段でも構わないから、早くこの状況から抜け出したかった。解放されたかった。

――簡単なことさ。見つかって困るものなら、消し去ってしまえばいい――

 白い靄は、伊田の死体をベッドの近くに運べと命令した。俺は大人しくその指示に従った。

 伊田の身体は見る間に、喰われていった。




「細田くーん」

 名前を呼ばれて、ふと我に返る。発注業務をしていたはずの手がいつの間にか止まっていたらしい。再度、かけられた声に振り向くと、柚木さんがレジの前に出来た行列を丁寧に捌きながらこちらを睨んでいた。

「今日はどうしたの、ぼーっとして」

 お客が減った頃合いを見計らって、声をかけられた。柚木さんは同学年だが、バイト先では三ヶ月だけ先輩だった。大学も同じだったが、そちらでは特に接点はない。

「はあ、ちょっと気分が悪くて」

 言い訳ではなく、実際かなり体調は悪かった。「大丈夫?」と心配してくれることをありがたいと感じながらも、極力触れて欲しくない俺は、「ただの食い過ぎなので」と誤魔化した。

 あれから――伊田を殺した日から数日が経過していた。

 どうやら失踪者として届け出は出されたようだが、事件になっている様子はなかった。警察が事情を聴きには来たが、なんとか怪しまれずに済んだらしい。特に追求されることもなく、部屋の中を調べられることもなかった。

 白い靄は伊田の身体を毎晩喰らい、今朝見た時には足先の骨と肉を残すのみとなっていた。不思議と出血は少なかった。

 最初の晩、白い靄に、骨はどうするのだ、と聞くと、細かく削ってベッドの奥にでも撒いておけばいい、と無責任なことを言ってのけたのを思い出す。仕方なく俺は毎日、家にいる間中、伊田の骨をヤスリで削った。その作業も、残りの量から推測すると今晩中には片が付く。

 迫りくる吐き気になんとか耐えて、交代の時間を迎えた。引継ぎを済ませて帰路に就く。人気のない路地に入ると、途端に我慢が効かなくなり、側溝に縋りついた。


 ――吐瀉物に汚れた口元をハンカチで拭っていると、ケータイの着信音が響いた。メールだ。

 涼子からだった。

 明日会えないか、という内容だった。今更、何を、と思う気持ちもあるにはあったが、日が経つにつれ、伊田があの晩言ったこと――あれは、すべて嘘だったのではないか、と思うようになっていた俺は、しばし悩んだ末に、了承する旨のメールを返していた。


「ごめん、待った?」

 彼女の第一声は、そんな言葉だった。珍しくほぼ時間通りに彼女が現れたことに心底驚いた。大学以外で彼女と会う場合、いつも三十分や一時間は待たされるのが当たり前のようになっていた。

 カフェに入ったり、映画を見たり、食事をしたり。彼女は終始楽しそうな表情を浮かべていた。けれど、やはりそれは嘘なのではないか、と考えてしまう。頭の中を伊田の放った言葉がぐるぐると回り続ける。一度、疑念を抱くと、彼女のすべてが嘘かのように見えてしまう。笑いかける顔も、楽しそうにはしゃぐ声も、つないだ手の感触も――。

 太陽が沈むにつれ、辺りが徐々に薄暗くなっていく。俺は彼女を、当然のように自室に誘った。




 彼女は遠慮のない足取りで部屋へと入っていく。何度、家に上げたかなんて、もう覚えていない。

「カズキの家に来るの、けっこう久しぶりかも」

 そう言って笑いながら、目が何かを懸命に探しているように見えた。

「どうしたの」

 彼女は何事もない風を装って、首を振る。

「ううん、なんでもない。そんなとこに立っていないでさ、カズキも座りなよ」

 ベッドに腰掛けて、隣に座れと言わんばかりにベッドを叩く。

 言われるがまま、ベッドに腰掛けると、間髪入れずに涼子の口唇に吸い付いた。ほんの一瞬、彼女の身体が強張る。が、拒むことなく素直に応じた。

 ゆっくりと口唇を離すと、唾液が細く糸を引く。

「カズキはさ、伊田くんと仲良かったよね?」

 その口で、彼女はそう囁いた。

 ベッドの下で、白い靄が笑っている。その光景が目に見えるようだった。頭の中にどんどん白い靄が広がっていく――。

 気づけば、俺は彼女の首を絞めていた。馬乗りになって、必死に抵抗する彼女の身体を押さえ付けながら、体重をかけて彼女の首を絞め続けた。苦痛に喘ぐ女の顔はみるみる変色し、涎、洟に塗れていく。

 醜い。こんな醜い女に執着して人まで殺したのかと思うと、涙と吐き気が同時に込み上げてきた。この女は伊田を探しにきたのだ。行方の知れないあの男がどこかに残しているかもしれない足跡や痕跡をなんとか見つけ出そうとして、その為だけに俺に会いにきたのだ。

 どれ程そうしていたかわからない。数時間かもしれないし、ほんの数分だったようにも感じる。抵抗は徐々に弱々しくなり、やがて、彼女は俺の身体の下で動かなくなっていた。

 白い靄が声を上げて笑った。




 直前のデートを不特定多数に目撃されていた為に、俺は警察から大いに疑われた。涼子はいつでも明るく、よく笑う女だった。家出や自殺とは縁遠い、誰もがそう思う。そんな女が忽然と姿を消したのだ。事故や事件に巻き込まれたとみるのは当然のことだと思われた。

 涼子は実家暮らしで、両親共に健在だった。しかし、彼らが捜索願を出したのは、彼女が死んでから数日が経った頃だった。

 涼子は時折、大学へ行ったまま、或いは、ふらりと出かけて、二、三日家を空けることがあったという。俺の家に泊めたことは何度もあったが、それにしては頻繁に外泊を繰り返していたようだ。やはり……いや、考えるのはよそう。もう、終わったことだ。

 白い靄は腹が減っていたのか、伊田を食べた時に倍するスピードで涼子の身体を平らげた。なんの工夫もせず、そのままの肉を貪り喰う姿はまるで獣のそれだった。一瞬、怒りや憎しみをぶつけているようにも見えたが、これは俺の勘違いだろう。なぜなら人を喰らう靄の口元から笑みが消えることはなかったのだから。


「そういえば、お前のこと、なんて呼ぼうか」

 涼子の頭蓋を削りながらベッドの下に質問を投げかける。

「名前とか、ないのか」

――名前なんてないさ。名前ってのは、誰かが誰かを別の誰かと間違えない為の記号みたいなもんだろ。そんなもの俺には必要ない。俺は誰にも認識されない――

「俺にはお前が見えるし、声も聞こえる」

――裏を返せば、他の奴には見えないし、聞こえない。それに、カズキが俺を呼ぶとき、カズキは必ずひとりだ。だから、必要ない。俺は俺だ――


 靄が涼子を食べ切ってから数日が経過した。最悪だった体調は徐々に回復してきているが、それとは別に悩みの種があった。

 白い靄が頻りに食べ物を要求するようになったのだ。

 どんなに宥めても聞く耳を持たず、次第に苛立ちを見せ始め、終いには暴れ出すようになった。靄は部屋中の物という物を壊して回った。そういう時の靄は俺の手には負えず、俺は靄が落ち着くまでの間、部屋の隅にうずくまってこらえた。


「大丈夫?」

 バイト中、トイレから戻った俺の顔を見て、柚木さんは眉を曇らせた。

「顔色、真っ青だよ」

 そんなに酷い顔をしているのか、鏡見てくればよかったな、などとぼんやり考えていた。

「店長には私から連絡しておくから、今日はもう帰りなよ」

 ありがたかったが、これから客が増えてくるという時間に早退するのは気が引けるし、それに柚木さん一人に押し付けることに後ろめたさを感じた。

 結局、客が少ない間だけ裏で休憩させてもらうことにした。それでも柚木さんはあまり納得していないようだったが、言っても無駄だと思ったのか、それ以上は無理に帰らせようとはしなかった。

 少し休憩すると、随分気分は良くなったのだが、相変わらず顔色は悪いらしく、ちらちらとこちらを窺う柚木さんの視線が気になって仕方がなかった。


 なんとか忙しい時間帯を切り抜け次の人への引継ぎも済ませた後、店を出る。先に帰ったはずの柚木さんが店の外で待っていてくれたことに驚いた。シフトがよく被るから話す機会も多いし、仲は良いほうだと思っていたが、まさかここまで心配してくれるとは思っておらず、涙が出そうになった。

「なんかふらふらしてるし、今にも倒れそうだったからさ。送ってってあげる。家どこ?」

 視線を逸らしながらそう言った顔は、風に煽られた髪に隠れてよく見えなかった。

「バイク通勤だったとは知らなかった。しかも、スクーターじゃなくてオートバイ。かっこいい」

 そう言ったら、軽く蹴られた。「いいから、さっさと乗れ」と、ヘルメットを渡される。投げない辺りに優しさを感じた。

 家までの道を簡潔に教えると、バイクの大きな車体は迷いなく加速していった。




 家にはあっという間に着いた。もともと歩いて通っていたのだ。そんなに距離はない。ただ、正直なところ、その大したことのない距離でさえ、歩いて帰れるかどうかわからなかった。

 柚木さんは、「さ、着いたよ」と言ったきりで、バイクから降りる気配はない。俺はゆっくりと地に足を着けると、柚木さんにヘルメットを返し、おぼつかない足取りで自室の玄関ドアへと近づいていく。

 ふと後ろを振り返ると、そこにはまだ柚木さんがいて――フルフェイスの為、表情はわからないが――軽く手を上げてくれた。こちらは手を上げるのも億劫な為、申し訳なく思いながらも会釈で返す。少し、ほんの少しだけ、心が温かくなったような気がした。

 部屋に入った途端、白い靄が金切り声を上げた。かと思えば、部屋中を動き回りながらうわ言のようになにか呟き続けている。それらは耳を塞いでも、直接頭の中へ流れ込んできた。

――喰わせろ。殺せ。喰わせろ。殺せ。喰わせろ。殺せ。喰わせろ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ――

 最初の日、あの伊田を殺した夜と同じだった。声は次第に大きくなり、頭の中を回り続ける。

――あの女だ。あの女を殺せ。殺して喰わせろ――

 すぐに、柚木さんのことを言っているのだとわかった。そんなこと決してするものかと思った。しかし、少し油断すると、この苦しみから逃れられるなら、それでもいいか、と考えてしまう自分に気がついた。

 頭が痛い。ひどく頭が――。

 白い靄は物凄い勢いで部屋の中を飛び交う。その度に部屋の中に放置されていた時計の残骸やグラスの破片が飛び散る。いくつかは俺の肌を切り裂いた。

 このままだと、自分はこいつの言葉に従って、柚木さんを殺してしまう。それだけは嫌だ。なぜだかそう思えた。他の誰を殺しても彼女だけは殺したくない。そう思った。

 彼女に惚れたとか、好きだとか、そういうことではないのだと思う。ただ、バイト先から送ってもらって玄関ドアを開けるまでの短い間、俺は人間に戻れた気がしたのだ。人を殺して、それを隠すためにせっせと骨を削っていた時、俺はきっと人間ではなくなっていた。それに気づかせてくれた。人間に戻らせてくれた。その時間を作ってくれた彼女だけは殺したくない。

 力一杯叫んだ。頭の中の声が消えるように、喉が潰れるほど喚き散らした。白い靄は再び金切り声を上げた。苦しがっているように見えたのも束の間、大きく口を開いて飛びかかってきた。慌てて避けると、俺は台所へと走った。ほんの数歩の距離がとてつもなく長く感じられた。包丁に手が届いた瞬間、左腕に激痛が走った。俺は構わず、包丁を振り抜いた。

 包丁の刃先は正確に喉元を食い破った。


 ◆ ◆ ◆


 亡くなった青年は一人暮らしだった為、発見が遅れ、通報があったのは死後三日が経ってからだった。通報したのはバイト先の同僚の女性で、無断欠勤が続いたのと、最後に会った日、具合が悪そうに見えた為に、気になって様子を見に来たのだという。

 アパートの住人によると真面目な好青年だったらしいが、数週間前から、夜になると、時折、大きな物音や声が部屋の中から聞こえることがあり、亡くなる数日前からは特に酷かったようだ。

「うわ、ひでえなこりゃ」

 現場に入ってすぐ、半ば無意識に呻いた。家具・家電から小物まで無差別に破壊され、まるで廃墟のような様相を呈している。その上、血痕がそこら中に飛び散っているのだから、呻きたくもなる。ちらりと覗いた風呂場にも血の痕が見て取れたが、こちらはもっと以前のもののように見えた。

 遅れて入ってきた若い刑事が、吐き気を催したのか、慌てて来た道を引き返すのを尻目に、ずかずかと部屋の中へと上がり込んで行く。現場の状況を確かめてから、遺体のほうを見る。身体中に小さな傷があるが、これはそこら中に散らばっているガラスやら何やらの破片で切ったものだろう。

「自殺……だよな」

 見ればわかることだったが、口に出して確認せずにはいられなかった。

 右手には包丁を握りしめたままだ。致命傷は喉元の切創。かなり強い力で切られたらしく、包丁の刃先が骨まで達している。自殺するにしても、こんな乱暴に自分の身体をぶった切る人間を刑事は見たことがなかった。

「それに……」

 遺体を見た瞬間に目に入っていた異常のほうへと視線を移す。

 男の左腕は至る所を削り取られ、最早人間の腕の形を保ってはいなかった。削り取られた箇所はすべてぼんやりと半円の形状をしており、男の口から血液や肉片も見つかっている。

「食ったのか……自分の腕を」

 吐き気まではいかなかったが、眉間に皺が寄るのを感じた。クスリでもキメていたのか、と辺りを見回す。

「ん? あの白いのはなんだ。ベッドの下」

 いつの間にか戻ってきていた若い刑事が「どこですか」といいながらベッドの下に半ば潜り込むようにして顔を突っこむ。

「馬鹿。そこら一体だよ。粉みたいなの」

 言い終わる頃には、若い刑事のスーツは粉塗れになっていた。「もう少し早く教えてくださいよ」などとぼやきながらベッドの下から這い出た馬鹿のせいで巻き上げられた白い粉は、ベッドの下の暗がりの中を白い靄のようになって浮遊している。それが、ほんの一瞬、人の形を象ったように見えた。




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― 新着の感想 ―
[一言] 明確には描かれていませんが、ラストの自分を食べようとしていたところや主人公の体調の悪さなどからも『名もなき怪物』は主人公自身なのでは、と思いました。 面白かったです!
[一言] 冒頭の、友人への嫌悪感が爆発的な殺意に変わってゆく過程に惹きこまれて、一息に読了しました。ツカミがお上手です! 正体も目的も曖昧な『怪物』がベッドの下に棲んでいるという設定が不気味ですね。…
[一言] 拙作をお読みいただき、ありがとうございました。 活報を見ましたが、夏ホラーの締め切りに焦っておられたようですね。思わずわたしと同じだ! と勝手に親近感を持ちました。いつのまにか始まってるん…
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