翠玉の獣と森人の娘
黒魔の森に近づいてはいけないよ。
魔物に食べられてしまうから。
黒魔の森に入ってはいけないよ。
森に呑まれてしまうから。
黒魔の森を見続けてはいけないよ。
『碧玉の王』に魅入られてしまうから。
聖域守護の村に伝わる民謡より
* * * * *
狭く、鉄格子の嵌まった窓から降り注ぐ月光を浴びながら彼女は自身の半生を思い返していた。
彼女は世界樹の森の守人、その一族の子であり。そして親への反発で森を飛び出した愚か者だった。
いまだ年若く、しかしすでに一族の中でも有数の実力を持っていた彼女は自身の力に慢心し。 森の外のヒトの力を見誤っていたのだ。
結果彼女は森の外へと飛び出し、あっさりとヒトに捉えられてしまっている。
「大丈夫、大丈夫ですっ、大丈夫だから、大丈夫……。」
「………。」
抱きかかえられたまま身じろぎすれば枷に繋がる鎖がじゃらりと音をたて、自身の現状を思いしらせてくる。
自らを純人と呼ぶ彼らに捕らわれたそれ以外の種族は、彼らから家畜同然の扱いを受ける。 年長者達から教えられたことであり、話半分に聞いていた結果自身の身をもって思いしらされていることでもあった。
すでに両脚の腱は切られ、森を平地のように駆けていた脚は立ち上がることさえできず。 その身に刺青のように刻まれた刻印は自身の一部ともいえる力を封じ、隷属を強制する。
処置を施したヒト達が言うには、自身の行く末は専門の業者のもとで『調整』され、貴族か娼館に売られたあとは比較的大事に使い潰されると聞かされた。
容姿が優れていなければ、捕まった際に『傷物』になってしまっていればどうなっていたのか。 先に捕えられていた『傷物』に世話をされていた彼女には考えることすら恐ろしい。
「だいじょう……ひっ!?」
「(……静かになった。)」
自身のすべてだと自負していたものをことごとく奪われ、未来すら見失った彼女はただ無気力に生きていた。
いよいよ大きな都市に輸送され、業者へと引き渡されることが決まり。 専用らしい鉄格子付きの馬車に世話役の『傷物』と一緒にのせられた。
納期に遅れるからと強行軍で進み、森の傍で野営をして。
騒ぎが起きたのは、深夜を過ぎた頃だろうか。
にわかに聞こえてくる怒号、絶叫、悲鳴。 そして殴打に破砕音。
先ほどまで響いていたそれらは、今はもう聞こえてこない。
それらに興味を持てなかった彼女はぼうっと硬く閉ざされた扉を眺めていたが、ふっと陰る月光に視線を上げる。
そしてそこにある『翠玉』に、自身の運命を悟った。
ーーあぁ、そうか。
彼女が馬鹿にしていた昔話。
黒魔の森の昔話。
ーー私はこのためにあったのか。
誰も帰らぬ森の、碧の王の物語。
翠玉の眼をもつ獣は、贄を喰らい『碧玉の王』となる。
「あぁ、ありがとう……。」
自身はこれから贄となるのだろう。
すんなりとそれを認識した彼女はしかし、それをあっさりと受け入れていた。
もうなにもないと絶望していた自身にも価値があると思えて。
それに少なくともこれ以上その身を汚されることもなく、森に還ることができるのだ。 彼女にはこの状況がこれ以上ない幸運に思えた。
「さぁ、はやく、」
その手をこちらへと向く翠玉の眼へと伸ばし、微笑む。
虚ろに。
誘うように。
媚びるように。
懇願するように。
「私を食べて?」
* * * * *
俺がなにをしたというのだろうか。
極普通の一般人であった俺に降りかかった不幸は、まず交通事故から始まった。
まぁ俺も残業続きで疲れて注意力が落ちていたし、ほとんど痛みもなくあっさりと死んでしまったからそれは良しとする。 記憶を保ったまま転生という悪運もあったことだし。
だが、転生先がいけない。
獣なのである。
それも熊と狼を足して2で割らない感じの、現代地球では見たことも聞いたこともないやつ。
しかも中身が前世人間なのが良かったのか悪かったのか。 一緒に生まれた兄弟達より遥かに早く成長し、大きくなったら群から追い出された。
まぁそれもすでに独り立ちできるだけの力は手に入れていたし、追い出そうとする仲間から母親が最後まで庇ってくれていたしよしとしよう。
前世でも十分できたとも言えない親孝行ができないのは心残りだが、こればかりは仕方ない。
その後は四苦八苦しながら自分の縄張りを手に入れ、その過程でここが異世界だと確信したり人に追いかけまわされたり追い帰したり。 嫌なこともたくさんあったが、いいこともあった。
だけど、これはないだろうと思う今現在。
「z*_/~&ΕЦΜщПш? ΔжΣЁйяэкфбЫ……。」
「グルル……(さっぱりなにいってるのかわっかんねー……。)」
自分のねぐらにしている洞窟にて、ピンと上向きに尖った獣耳を持つ美人さんの相手をしていた。
と言っても、なにやら怯えつつも一方的に話しかけてくる美人さんをぼーっと眺めながら観察しているだけだが。
彼女達を見つけたのは偶然で、縄張りに侵入していた人の集団を追い払うべく襲撃したさいに戦利品でも貰うかーと立派な馬車を覗き。 呆然としている彼女達と目があったのが最初だ。
おもわず衝動任せに担いで連れてきてしまった。 今でも後悔しているし、反省もしている。
でも、どうしても我慢できなかったのだ。
今も必死に我慢しているが、饒舌な彼女(どうみても獣人)が気をそらしてくれていなければ危なかった。 こうして伏せて見ていられるだけでも賞賛されるべきだと思う。
本当に我慢しているのだ。
だってすごいのだ。
今も話しかけてくるボロボロの彼女はともかく、もう一人のどう見ても前世の世界でいう『エルフ』そのものな彼女はおかしいくらいヤバいのだ。
本当に自制心が削れる音が聞こえる気すらする。
あぁ、もう、どうして、なんで、彼女は。
「(あぁ、俺はやっぱりもう人間じゃないんだなぁ……。)」
こんなにも、『美味しそう』なんだろう。