俺と触手と
ふと気がつくと、俺はどこかに横たわっていた。身体はギシギシと悲鳴をあげ、目を開けるのも億劫なほどだ。そんな最低なコンディションにも関わらず、俺の後頭部には何か柔らかい感触が伝わってくる。しっとりとしていて、それでいて柔らかすぎない最高の低反発枕といっても言い過ぎではないと思う。
「……くん……瑞樹くん」
目を開けずに、じっと枕の感触を楽しんでいると、春生さんの声が俺の頭のすぐ上から聞こえてきた。その声は俺を心配しているかのような声で……つまりこれは、彼女の膝枕なのか?
「ん……んー……」
俺は軽く痛みに悶える様な声をあげつつも、寝たフリを続ける。こんな美味しい状況を最大限楽しまなかったら、そいつは男じゃないだろう。
後頭部にあるであろう彼女の太ももに、頬をすりすりと擦りつけ、気付かれないように匂いを嗅いでみる。
「くさっ!」
予想外の臭いに思わず飛び起きた。あのスメルを表現するとすれば、最も的確なものが一つある。白くて、フライにすると俺の好物になる物。ようはイカだ。そう、とてもイカ臭かった。まさか愛しの彼女がこんなにイカ臭いだなんて……と、俺は軽くショックを受けていた。
「臭いとかいうなよ。傷つくだろ」
触手野郎が何故か勝手に傷ついていた。
どうやら彼女のすべすべの太ももだと思っていたのは、すべすべとした触手さんだったらしい。あのしっとりと肌に吸い付くような感触は、ただ触手が湿ってただけだった。いくら何でも触手枕は酷い。いや、男の膝枕よりはマシだったのだろうか……。考えても答えはでそうにないし、出してしまったら色々と終わりな気もする。
「悪い涼太……本気で臭かったから、つい」
慰める所か、より深くえぐってる事に言ってから気がついた。触手についての造詣を無理矢理深めさせられたからつい口が勝手に動いてしまったのだ。
「馬鹿いうなよ、そんな臭いわけないだろ。俺はいつだって清潔にしてるんだぜ?」
涼太は不機嫌そうに触手を持ち上げ、臭いを嗅ぐ。
「…………臭いわ」
だいぶ間を開けて、しょんぼりとした声でヤツが呟いた。心なしか触手までしょんぼりしているかのように見える。
「……ところで、何で春生さんは触手を踏んでるの?」
飛び起きて少ししてから気がついたのだが、何故か春生さんは一本の触手をずっと踏んでいる。もとい、踏み潰している。
「踏んでないと触ろうとしてくるから……だから踏んで大人しくさせたんだけど、どうせならついでに枕にしたら良いんじゃないかなー? って思いついたのっ! でも変な臭いだったんだね……瑞樹くん、ごめんね……」
前半は困った表情、その後一転して眩しいくらいの笑顔。そして最後にしょんぼりと眉をハの字に下げる。コロコロと変わる表情に、ああ……やっぱり可愛いなぁ。なんて思いつつも、予想外の発案者に軽く戸惑う。これじゃあ怒りようがない。俺を思って考えてくれたんだ、多少の臭さは我慢しなきゃいけない。これが涼太の発案だったら、怒りに怒っているところだったが、仕方が無い。
「そんな、春生さんが謝ることじゃないよ、涼太が臭いのが悪いんだから」
ね? と笑顔を彼女に向ける。
「俺が臭いんじゃない! 俺と触手をひとまとめにしないでくれよっ!」
そして怒る触手男。まあ確かに気持ちが分からないわけじゃない。しかしながら……。
「いや、ひとまとめじゃん。物理的に」
「おお、確かに!」
ポン、と右手で左手の平を叩いて関心する涼太。そこは関心するところじゃなくて、ツッコミを入れてほしい所だったんだけど、期待する方が間違いだったらしい。
「ふふっ、二人とも仲良いんだね」
妙な漫才を繰り広げる俺達を見て、春生さんはにこにこと微笑んでいた。
「そりゃ幼馴染だしね。といっても、好きにいじってるだけだけど」
「変に気を使われて距離置かれるよりは、いじってもらった方が気が楽だ」
俺の言葉を聞いてどう思ったのか、涼太は爽やかに笑いながらそう言った。
少し前にも思ったが、男にまで絡み付いてくるような無差別な変態触手だったら話は別だけど、そうじゃないのなら距離を置く必要なんてどこにも無い。だから涼太とはこれまでどおりの付き合い方をする。凄く簡単な話だ。
「あ、あの……ちょっといいかなぁ?」
良い話になってる最中ごめんね、といった感じで、春生さんが話を切り出した。
「あのね、足を離したらどうなるか怖くって、動けないの……」
「……すまん。多分ロクな事にはならないと思う」
申し訳なさそうな表情で謝る触手の飼い主。主の事を思ってか、それとも他の触手は届かないのか、春生さんの方へと伸びているのは一本だけだ。歩いたりは自由に出来るわけだから、触手が女に触ろうとするのはヤツが根っからの痴漢野郎なのか、触手の本能で勝手に動いちゃうのかのどっちか、という所だろう。結局のところ、涼太が悪いということだ。でも、春生さんに伸びている触手が一本だけで良かった。もしも数十本が一度に襲い掛かっていたらどうなっていた事か。
「じゃ、俺が代わりに踏むから、その隙に離れて」
「う、うん」
男には絡みつかないという事は既に分かっているわけで、なら俺が交代すれば春生さんは安全に逃げられる。というわけだ。触手が最初に絡み付いてきたのは、俺が女っぽい顔をしているせいで、男女の区別が出来なかったからだから、もう巻きついてくる事も無いはずだ。
「よ、っと」
念のために両足で触手をのぼり、動かないように押さえる。春生さんが踏んでいても特に何も無かったことからも分かるが、どうやら触手には痛覚が無いようなので遠慮する必要もない。たかだが上に乗っかるだけだし。
「は、離すよ?」
「うん、いつでも良いよ」
す、と彼女は足を触手から離し、そのままゆっくりと後ずさる。目は俺の足の下にある例のブツから離さずに注意深く。
びゅるんっ、と一瞬だけ触手が暴れたが、流石に俺一人分の体重が触手に乗っているために動けなかったようで、すぐに触手は大人しくなった。
「はふ……ありがとぉ、瑞樹くん」
恐怖の卑猥生物から逃れられたからか、彼女は心底ほっとした表情をしている。俺としてもようやく一安心といったところだ。
と、そんな時――。
『みなさんおはようございまーす。えー、学園側から色々と確認事項がありますので、各クラスの担任の先生の所へ集まってくださーい』
と、拡声器越しに体育教師の大きな声が校庭に響いた。
俺達はその声に素直に従い、担任を探す。うちの担任は化学を担当しているだけあってか、白衣を着ている。別に着ている必要も無いとは思うが、本人曰く白衣が気に入っているそうなので、別に文句も無い。そんなちょっと行き遅れ気味な、30代前半の女性教師。長く艶やかな黒髪と、眼鏡。そして目元の泣きボクロがセクシーだと、年上スキー達はよく騒いでいる。今時結婚しないというのも大して珍しく無いとおもうのだけれど、本人は意外と気にしているらしい。でも顔は悪くはないし、比較的若く見えるのでモテるだろ。とよく知らない時期は思うが、生憎と性格がキツすぎるので貰い手がいないというのが現実だ。
流石に遠目からでも白衣というのは目立つもので、すぐに見つかった担任の下へと春生さんと涼太を連れ立って、のんびり歩いていく。
「みんなおはよう。こんな時だっていうのに欠席が無くて私は嬉しいぞ」
いつも通りキリッとした表情で、我らが担任である望月先生が言った。周囲がそれなりに平和であれば、学生としてこんな面白そうなイベントとしては欠かせないのだろう。それを証明するかのように、俺のクラスは全員出席している。家が大変で……と言えば素直に休むのを認めてくれるであろう状況から考えても、うちのクラスはバカが多いんだと思う。
「む……姫川と長谷川、どうした。こっちにこい」
クラスの一団から少し離れるように、俺と涼太。姫川というのは俺の苗字なのだが、俺はこの苗字があまり好きじゃない。この苗字のせいで、俺は小さい頃のあだ名が“姫ちゃん”だったのだ。俺はリボンを使って変身したりはしない。そんなあだ名はやめてほしかったのだが、小さい頃のあだ名というのは一度定着してしまったが最後、当分ソレが使われることになる。認めたくはないものの、やはり女顔だったせいもあると思う。俺は何とか必死に我慢し、今ではちゃん付けで呼ばれることはほとんどない。という経緯があったせいか、俺は自分の苗字と名前が、ついでに顔も好きじゃない。ちょっとしたコンプレックス。
「ったく……二人とも、早くこっちにきなさい」
余計な事を考えていたせいか、いつの間にか先生がこちらへと歩き出していた。というかあの人は、俺の隣にいる男の下半身が見えないのだろうか。
「あ、あの先生! 駄目ですって! それ以上こっちにきたら危ないですよ!?」
と、涼太が先生に危険信号を発信する。
「危険って、何が危険なんだ。足が増えたくらいで何を――」
距離にして数メートルという距離まで女教師が近づいた瞬間、俺の視界の隅っこで、ヤツが蠢いた。
びゅるんっ。と音がしてもおかしくないような俊敏な動きで、恐怖の卑猥生物が獲物を捕らえに出発進行。
すぐさま触手は、三十路を越えてほどよく熟れているであろう女の足へと絡みつき、逃がさないように念入りに何重にも巻きついていた。
「え、ちょ……えっ? 何これ、え? えぇっ?」
突然の不意打ちに女は理解できていないようで、普段の凛とした雰囲気は脆くも崩れかけ、素が出ていた。意外と素に戻ると可愛い系なのかもしれないが、ストライクゾーンイコール春生さんの俺にとっては、デッドボール級の暴投であるのは間違いない。
「きゃっ、やめっ……長谷川っ! や、やめなさい!」
剥がれかけた心の仮面を付け直し、一喝。でも残念な事に、それってオートマチックなのよね。
「すいません先生……無理です……」
ここだけ夜になったのか、と錯覚しそうなほどに暗い表情で、涼太が死刑を宣告した。
「う、うそっ? ほんとに? や、ちょ……きゃああああああああああ!!」
叫び声とは裏腹に、先生はどこか嬉しそうであった。と思う。
触手に絡みつかれて顔を赤らめる30代独身女性という異次元な光景に、クラスの全員が置いてきぼりをくらっていた物の、先生の「お前ら早く助けろおおお!」という叫びで何とか我に返り、男子全員で先生の救出活動を開始。触手の粘液で軽くぬめぬめになった先生の救出と無事を確認してひとまずは一安心。
しかしながら、触手男をそのまま野放しにするのも危険だし、かといって一人だけ遠くにいさせるのも問題ありということで、クラスのヤツの提案で涼太の触手を縛り上げて動かなくした。遠くにいさせるのは問題あるのに、縛り上げるのには問題ないのだろうか。ついでに縛り終わってから思ったが、男なら傍にいても平気なんだから縛り上げなくても良かったかもしれない。とはいっても、先生は顔を真っ赤にして怒っていたので、これ以上は触れないが吉。
「あの、先生……これはいくらなんでも……」
と、触手を器用に折り曲げて体育座り状態の涼太が抗議の声をあげる物の――。
「う、うるさいッ! お前は黙ってろッ!」
「はい、すいません……」
と、やはり加害者側の抗議は受け入れてもらえないらしい。
「涼太、元気出せよ。そのうち触手だって言う事聞くようになるさ」
「ああ……俺、頑張るよ……」
「いつもみたいに、ギャルゲーでもやりながら考えればさ、そうすれば良い案も浮かぶはずだって」
俺にはよく分からないが、この二次スキーという男は、何か考え事がある時は決まってギャルゲーをする。そうすると何故か良い案が降ってくるらしい。そんな男の名言にこんなものがある。「ギャルゲーをやって思い浮かばないのは、二次元の世界に行く方法だけだぜ!」とかなんとか。凄く残念だった。
「ハッ――そうか!」
顔をうつむけて落ち込んでいた顔をガバッと上げた。何か思いついたらしく、顔は清々しさにあふれている。
「何か良い案降ってきた?」
「ああ……触手といえばエロゲー、エロゲーといえば二次元。そう、二次元だ!」
キリッ、とした顔をこちらに向けてきた。キラリと光る歯がとても眩しい。しかし、どうにもロクな発想ではなさそうで、聞くのが怖い。
「つまり……触手に二次元を布教すれば良いんだよ! 三次元なんて見向きもしなくなれば良い! そう、俺のようになッ!」
自慢げに言う台詞じゃないと思うのは俺だけではないはずだ。というかどうやって触手に二次元を布教するのか見てみたい。いや、やっぱり見たくない。友人のそんな痴態見たくない。
「あー、うん。頑張れ……」
「おう、俺はやるぜ! 触手で触手ゲーをやってやるぜ!」
不機嫌そうに担任がこっちを見ているので、他人のフリをする事にした。