俺と始まりの朝
朝起きたら、ドラゴンが空を飛んでいた。なんて言ったら、十中八九頭のおかしいヤツだと思われる。残りの一か二は、「……やはり、お前にも見えるのだな」と変なヤツらがすりよってくる事間違いなし。そんな変な連中の同志には正直なりたくないというのが本音だし、現実的に考えればドラゴンがいるわけがない。つまり、ドラゴンが飛んでいるのが見えたとしたら、眼科に行くのを勧めるべきだ。あるいは脳外科にでも行ったほうがいいかもしれない。結論から言うと、俺は保険証を探さなくちゃいけないようだ。
目を念入りに強く擦り、次は何度も深呼吸。変な物が見えるのは、まだ寝ぼけているせいかもしれない。そう思いながら、何度も何度も気持ちを落ち着けようとあらゆる事を試みる。
「……よし」
意を決して、空を見上げた。些か不安ではあったが、空にドラゴンなんていう馬鹿げた物は存在しなかった。緑色の巨体を持ち上げようと、ばっさばっさと風を巻き起こす羽根付き巨大トカゲは、俺の脳みそから消え去ってくれた。ということは俺の脳みそは正常に戻ったという事で、保険証を探す必要も無くなった。
よかった……。
今月は金欠だったから、病院にいかなくてすむのはラッキーだ。
「あら? そこにいるのは瑞樹かしら?」
ふと、背後から声がした。長年聞き続けてきた声なのですぐに分かる。声の主は母、つまりカーチャンだ。若干――というよりは、だいぶ上の方から声がしたが、なんてことはない。たぶん俺の耳が耳垢でつまりに詰まっているせいだろう。昨日耳掃除をしたが、そうに違いない。
「カーチャン、おは――」
カーチャンに朝の挨拶をしながら振り向くと、そこには壁があった。色はベージュで、一定間隔で横線が入っている謎の壁。その壁の両端は緑色をしており、どうやら鱗の様な物で覆われている。
「……なんだ、これ」
壁を手で触ってみると、何やら生暖かく、おまけにとてつもなく硬いのが判る。ついでに言えば、壁は微かな風に包まれているようで、触れるか触れないか程度まで手を近づけると、そよ風程度の風が手に当たった。
触るのは、やめて今度は叩いてみた。
ぺちん、ぺちん。
「ちょっと瑞樹、カーチャンのオナカ叩かないでよね」
頭上から、カーチャンによく似た声が降ってくる。意を決して頭上を見上げる。
「……あの、どちら様でしょうか」
見えたのは、緑色をしたドラゴンだった。だからか、俺の口は訳のわからない事を言っていた。だってそうだろう、カーチャンボイスのドラゴンとか誰が得をするんだ。
「やーねぇ、カーチャンよカーチャン。朝起きたらね、ウィンドドラゴンとかいうのになってたの。どうせなら妖精とか、そういうのが良かったわぁ……」
やっぱカーチャンだった。そんな母が、はぁ……とため息をつくたびに鼻息で吹き飛ばされそうになるのをなんとか踏ん張って耐える。
「これは夢だこれは夢だこれは夢だこれは夢だ――」
どうか夢であってほしかった。
「み、瑞樹? 大丈夫?」
うつろな目をしながら現実逃避をする俺を心配するかのように、母は顔を近づけ声をかけてくる。中身は母親なわけだから何かが起こるわけではないのだが、リアルドラゴンの顔が目の前にあると怖い。食われそうだ。
「これは夢だこれはユメダコレハユメダ――」
「瑞樹っ! しっかりしなさいっ!」
おそらくは、母からすればほんの軽く……そう、ちょんっと触った程度だったに違いない。だが、彼女は自分がドラゴンなことにまだ慣れていないわけで――。
「おぶふッ!」
巨大な指先で頬をぶん殴られた俺は、その衝撃で向かいの家の塀まで軽くぶっ飛ばされた。首がねじ切れなかったのが不思議でならない。
「あらやだ」
「あらやだじゃねえ!」
このままカーチャンの相手をしていたら、そのうち殺されてしまいそうだ。そう思った俺は、ひとまず家の中へと退避する事にした。
親父に声をかけ、でっかくなったカーチャンの事を任せた俺は、のんびりと朝食の時間。母はドラゴンになってしまったわけなので、自分で適当に用意した。フライパンに卵を割って落とし焼いただけなお手軽料理“目玉焼き様”と、ご飯。米は朝に炊けるように予約してあったので問題無し。
「朝のニュースをお伝えします」
とのテレビではいつもの女子アナが原稿を読んでいた。このアナウンサーは巨乳な事で有名で、世の男になかなかの人気を誇る看板アナだ。その女子アナはといえば、カーチャンがなりたいと言っていた妖精になっていた。ご自慢の巨乳は見る影もなく、つるんでぺたん。流石に裸はまずいと思ったのか、人形用の服を着ていた。大人の女性の顔にロリーな妖精の体型。正直微妙としか言いようが無い。が、こんなになっても仕事に行く辺り、プロ根性っていうのは凄い。というか、それで良いのか疑問ではある。
朝のニュースでは、突如として多くの人々が、物語に出てくるような生物と混ざったような状態になってしまった。と言っている。確かにアナウンサー自体がソレなのだから説得力がある。まぁ、カーチャンを見た後なのでそれほど驚きはしなかった。
しかし、こんな事になっているというのに、この国はまだまだ平和だ。これが海外だったら、外に一歩出たら辺り一面廃墟になっていてもおかしくないだろう。もちろん至るところで混乱は見られるらしいが、それだって他国と比べればマシ。とりあえず、ライフラインさえ停止しなければそれで良し。
どうせ今日は学校無しだろ。なんて考え、居間でくつろいでいたら電話が鳴った。なんでも、生徒の状況を確認するために学校に集合。という事らしく、折角考えた今日の予定がすっかりパーになってしまった。というか、そんな事よりも巨大なうちの母をどうしようか早めに決めないとまずいと思う。親父があの巨体に潰されてなかっただけでも御の字ではあるが、これからの飯の用意を考えると憂鬱になってしまうのは仕方が無い。
ちなみに、親父はゴブリンと混ざっているらしい。見た目は親父のままだが、ちっちゃくなっていた。俺を含めて、自分が何と混ざったのか、というのは漠然と理解できる。もう少し強いのとか、かっこいいのがよかったなぁ……と親父はぼやいていたが、ちっちゃくなっただけならまだマシだろう。あんたの妻を見てみろよ、あんなにでっかくなっちゃってどうするのさ? と言っておいたので、きっと何とかしてくれるはずだ。というか俺にはどうしようもない。兎にも角にも、俺は学校にいかねばならないのだ。自分なりに何か考えておくからどうか許してほしい。
電話がかかってくるのがなかなかにギリギリだったせいで、慌しい朝になってしまったが、ぱぱっと歯を磨き、ささっと制服に着替えすぐに登校。背後から聞きなれた声で「いってらっしゃーい」と巨大な声が聞こえるが、ご近所さんに迷惑なので自重してほしい。それ以外はこれといった異常もなく、いつも通り平和。時折猛獣の鳴き声のようなものも聞こえるが、実害が今の所無いので聞かなかったフリをする。
「瑞樹、おはよう」
後ろからの声。俺の友人である長谷川涼太の声に間違いない。
「おは――」
声の主を確認しようと振り返りつつ、軽く挨拶を返そうとするも、つい先ほどと全く同じく、途中で言葉につまった。
正直言葉として出すのを戸惑わせる。涼太は、下半身がちょっとありえない事になっていた。
「なんだそれ……」
「……朝起きたら、こんなことに」
涼太は、下半身が触手の集合体になっていた。流石にリアルで見ると気持ち悪いので、直視するのを躊躇ってしまう。しかも歩く……と言って良いのかわからないが、前に進む度にうにょうにょと蠢いている。我が友人のために良かった探しをするのであれば、頭が触手にならなくてよかったね。といった所だろうか。
「大変、だったんだな」
「ああ……男の下半身は別の生き物っていうが、まさか本当に別の生物になるとは思わなかったぜ……」
誰がうまい事を言えと言った。とツッコミをいれようとも思ったが、あまりにも可愛そうなので、ただ肩に軽く手を乗せるだけに留めておく事にした。
この長谷川涼太という男はなかなかにイケメンではあるが、二次元大好きな少々残念なイケメンでもあり、ぶっちゃけあまりモテない。おまけに二次ロリが最も好きだと言う辺り色々とヤバい。
「ところで涼太……お前の触手が俺の足に絡み付いてるんだが、どうにかしてくれ……」
何か太ももの辺りがぬるぬるしてくすぐったいと思ったら、ヤツのアレがゆるゆると俺の足に巻きついていた。上は二次スキーで下はオトコスキーなのだろうか。だとしたら、コイツとの付き合いを少し考えなきゃいけないかもしれない。いかに仲の良い友達だとはいえ、一緒に遊びに良くたびに触手で陵辱されるのは勘弁だ。
「ああ、きっとお前が男か女か分からないんで、味見してるんだな。男と分かればすぐに離れるさ」
確かに俺は自他共に認める女顔ではあるが、それにしたって迷惑な話だ。どうせなら上半身と知識を共有してくれれば良かった。漠然と自分と混ざったのが何なのかは分かるのだが、それが持っている知識などまでは共有化されていない。例えば、魔法使いと混ざったとしても、漠然と俺は魔法使いだー! というのは分かるのだが、呪文までは分からない。というような中途半端さなわけだ。というか――。
「……やけに詳しいな」
「ああ、来る途中に色々と……な」
どうやら実体験からくる状況分析だったらしい。と納得していると、俺が男と分かったのか、触手は俺の足からにゅるんっと離れていった。ふと思うのだが、これで俺が女だったらどうなっていたのだろうか。考えただけで恐ろしい。
がっくりと落ち込む触手男を慰めつつ、学校へと続くゆるやかな坂道を上っていく。
私立半海学園。というのが俺の通う母校だ。“はんかい”ではなく、“はしうみ”と読む。近い将来、本当に半壊学園になるかもしれないが、そうなったらそうなったで休校になるので良し。
この半海学園というのは、最近の例に漏れなく生徒数はさほど多くない。多かろうが少なかろうが、生徒にはあまり関係無いので割りとどうでも良い話だが、今はちょっと事情が違ってくる。生徒数が少ないとは言え、流石に全学年で二桁というのはよほどの田舎でもない限りありえない話なわけで、それだけの人数が今集まるというのは少々恐ろしい話だ。どうして一時休校にしなかったのか、教師陣の頭の中身を見てみたい物だ。意外とスライムになっているかもしれない。じゃあ、なんで俺は行くのかと言えば、そりゃあ好きな子の現状を確認したいからに決まってる。俺の大好きなあの子が、目を覆いたくなるほどのモンスターになってたら俺は生きていられない。どんなに内面が可愛くても外見がクリーチャーは嫌だ。何かになっているとしたら、エルフ辺りでお願いしたい。エルフ耳を指でぴこぴこっと弄り回してみたい。
涼太とどうでもいい会話をしていると、そこはもう学園の門。軽く逃げ出したくなるのを我慢しつつ、歩を進める。
校門には当然の如く教師が数人立ち、登校してくる生徒を校庭へと誘導していた。その教師の一人、ツルツルの禿げ頭が有名な国語の教師は、頭にアンテナのような葉っぱを生やしていた。おめでとう先生! 立派なのが生えましたね。と祝福したら怒られそうなので、やはりここは素直に、「おはようございます」と言って門をくぐった。笑いをこらえるというのもなかなかに大変だった。
校庭への道すがら、様々な生徒が周囲を同じように歩いている。どうにもでかいのはいないらしく、見た目は結構平和的。うちのカーチャンのような規格外っぽいのはかなりレアなんだろう。
みんな割りと普通ではあるが、数人目を引くのがいた。馬並みというナニの表現方法があるが、下半身全部馬になっちゃってるなんちゃってケンタウルスや、顔がトラになっちゃってる顔だけタイガー。上半身だけ美味しそうなマグロになっているリアル志向の半魚人。リアル志向なので、上半身は完全に魚で下半身が完全に人だ。もちろん手なんていう中途半端な物はない。が、陸上にいても平気そうな所を見ると、肺はあるらしい。なんとも中途半端なリアル志向だが、超完全なリアル半魚人になってたら今頃死んでいそうなので中途半端でよかった。
「おっはよー!」
「んぐぅッ!!」
ドゴンッ、と音がしそうなほどに強烈な衝撃。変な叫び声を口から漏らし、俺の身体が宙を舞った。俺が空へ飛び出す前に聞こえた声からすると、俺の想い人――御堂春生かもしれない。聞こえたのはほんの一瞬なので確信はないが、俺の耳は彼女の声に関してはハイスペックを誇るので多分間違いない。そんな事を考えながら、俺は空を飛び続けた。
ドンッ、という強い衝撃が背中に走り、土煙が舞い上がった。俺のいた場所からはまだ数十メートルは距離があるであろう校庭にまで吹き飛び、舞い上がる土煙で地面に落ちた事を悟った。既に強い衝撃で麻痺した肺は、更なる衝撃で完璧に悲鳴をあげていて、呼吸をする事を拒絶していた。
うっすらと消えていく意識に、ふと春生さんの姿が見えた。
ああ、変わってなくてよかった……。
俺は思わず安堵していた。巨大になっているわけでも、身体の色がおかしくなっているわけでもない。もちろん魚っぽくなっているわけでもない。そんないつも通りに見える春生さんの姿に、心底安堵していたのだ。
「だ、だいじょーぶ!? ごめんね、あんなに力が強くなってるなんて思わなかったんだよぉっ!」
吹き飛ばした俺まで駆け寄ってきた春生さんは、うっすらと涙を浮かべながら俺の顔を覗き込んできた。今まで体験した事のないほど近距離への接近に、俺はちょっと幸せだった。力が強いのなんて愛情の裏返しと妄想すれば問題無し。肩までの少し癖のあるふわふわな髪が、背中まで届くほどの豊かな髪に変わってるけど、つぶらな瞳と、甘くてふわっとした声だって変わっていない。なら、俺の恋はまだまだ終わっていないっていう事だ。
この一件から、俺と彼女との急接近が始まる……かもしれない。なんて夢見がちな事を考えつつも、触れてしまいそうなほどに近い彼女の顔を眺めながら、意識がプツリと落ちた。
5/4 23:47 修正。
オーガではなくて鬼に変更。字が変わっただけで、特に設定的な変更は無し。
それとあわせて、微妙に違和感がある所を指摘されたので修正しました。
5/5 14:19 また修正
鬼からオーガに戻す。ふらふらしてどうもスイマセン。