第五話:野営地
夜は、音が増える。
葉擦れ。虫の羽。遠い川。
そして――人の声。
意味が分かるようになってから、森はうるさい。
今まで“背景”だったものが、勝手に会話に割り込んでくる。
ボクは森を移動していた。
目的地はない。狩場の確認と、地形の更新。
多重処理で片方は足場、片方は匂いと音。そういう夜。
そこで、偶然見つけた。
焚き火の匂い。油。乾いたパン。
人間の生活臭。
木々の隙間から覗くと、野営地があった。
粗い柵。見張りの松明。荷車。
そして、白いローブ。
女神教。
……監視か。
美への執着って、仕事が速い。
ボクは草の影に腹ばいになった。
近づくほど危険なのに、目が離せない。
ここで得られる情報は多い。
言語理解を手に入れた意味を、ここで回収できる。
焚き火のそば、兵が笑っていた。
「おい、あの埋葬係な。帰ってこねぇの、当たり前だろ」
「谷だぞ? 穢れ溜まりだ」
「穢れの中で息したら、顔が崩れる」
“穢れ”。
女神教の言葉が、普通に雑談に混ざってる。
神官が静かに咳払いした。
「口を慎みなさい。美は秩序です」
「秩序を汚す言葉もまた、穢れになります」
兵が肩をすくめる。
「へいへい。美、美っと」
笑いが起きた。
軽い。命が軽い。
神官は怒らない。
笑いを咎めない。
ただ、ローブの胸の紋章を撫でて、淡々と言った。
「監視を続けます。討伐はまだ」
「“おかしな動き”をするモンスターがいる。谷の周辺が、妙に整然としている」
整然。
その単語に、ボクは少しだけ笑った。
……ボクのことだ。
兵の一人が、話題を変えるように言った。
「そういや噂、聞きました?」
「この辺、コボルトみたいな“人狼”が出るって」
別の兵が鼻で笑った。
「人狼? コボルトが狼になるってか?」
「違う違う。喋るんだって。人の声で」
「で、近づいたやつを喰う。腹から内臓だけ抜くって」
焚き火がぱち、と鳴った。
神官の顔が少しだけ固くなる。
「……喋る?」
「確度は?」
「野営地の外縁で、骨が見つかってます。喉が裂けてた」
「声を奪うタイプだろ」
「気味悪いですよ。女神の秩序に逆らうみたいで」
神官は短く言った。
「警戒を上げなさい。見張りは二重に」
「ただし、追うな。夜の森は、美しくないものが勝つ」
その判断は正しい。
正しいから腹が立つ。
ボクはそこで、欲しいものを見つけた。
喋る。声を奪う。喉が裂ける。
……つまり、発話器官が“使い物になる”相手がいる。
発話はまだ先でいい。
でも候補は、先に確保しておくべきだ。
この世界で言葉は武器だ。
女神教の前では特に。
ボクは野営地から離れた。
近づきすぎれば、匂いでバレる。
今は観測だけでいい。
拠点を作る。
谷から遠い、岩と倒木の多い場所。
足場が固く、逃げ道が複数ある場所。
見張りの光が届かない場所。
作業は多い。
でも多重処理がある。
片方で罠の配置を決め、
片方で材料を探して運ぶ。
五本指の手で縄を撚り、結び、
足首の強化で岩場を走って戻る。
まずは弓。簡易でいい。
枝を削る。しならせる。
腱の代わりに植物繊維を張る。
次に罠。
狙いは“人狼”だ。
殺すより捕る。喉を潰さず、動きを止める。
落とし穴は浅め。
首じゃなく脚を取るロープ罠。
逃げ道側には、泥を塗って滑らせる。
そして塩。
茸に効いた塩は、獣にも効く。
嗅覚を荒らす。傷に入れば痛い。
追跡を乱す“線”になる。
森の中に、塩を薄く撒いて境界を作った。
ここから先は、ボクの射線が通る場所。
踏み込んだら、撃つ。
準備が整った頃、夜が深くなった。
声が聞こえた。
遠い。
野営地の方角じゃない。もっと近い。
森の闇の奥から。
「……たすけて」
女の声。
弱い。掠れている。
生脳茸と似ている。
でも、違う。
言葉の区切りが妙に正確すぎる。
助けを求めるのに、呼吸が乱れていない。
恐怖の震えが声に入っていない。
ボクは息を止めたまま、耳だけ動かした。
「こっち……だれか……」
次は男の声。
さっきと同じ距離。
同じ高さ。
同じ“口”から出ている。
――真似。
人間の声を材料にして、組み立てている。
噂の“人狼”。
ボクは弓を握った。
矢を番える。
喉は狙わない。まだ。
足元の罠の位置を、片方の意識が確認する。
もう片方が、声の位置と風向きを読む。
闇の中、何かが二足で歩いてきた。
シルエットは、コボルトに見える。
小柄で、前屈みで、耳が尖っている。
でも動きが、犬じゃない。
“人のふり”をしてる動きだ。
そいつが、月明かりに半分だけ出た瞬間。
ボクは確信した。
あれは、喋るために作られた喉を持ってる。
――次の進化素材は、あれだ。
ボクは笑わなかった。
代わりに、矢尻を少しだけ下げた。
まず脚。
捕まえる。
喉は最後に奪う。
夜の森で、女神教が恐れるものを。
ボクが先に“使う”。




