第四話:言語
半死体は、歩いていた。
歩いているというより、引きずられていた。
脚が遅れて、上半身だけが先に進む。
それでも前へ行く。
谷の外れ。菌糸の白が薄くなる場所。
岩と泥の境目で、そいつは膝をついて――祈っていた。
女神教のローブ。胸の銀の紋章。
でも顔は崩れている。頬が落ち、唇が裂け、歯が見えている。
目は濁って、焦点が合っていない。
グール化。
生きてる。死んでる。どっちでもいい。
“まだ動く肉”だ。
そいつは、ぶつぶつと何かを繰り返していた。
言葉。
意味のある音。
でも、ボクにはまだ分からない。
音はただのノイズで、祈りはただの唸りだ。
だから取りに来た。
まずは理解。
正面から近づかない。
あれが神官だった名残は、まだ残っている。
胸の紋章が、薄く光っていた。弱い。けど、嫌な光だ。
近づくほど、皮膚がちりちりする。
火傷じゃない。拒絶。
“美しくないものを寄せ付けない”圧。
……女神、徹底してる。
ボクは岩陰に身を伏せ、吹き矢を構えた。
狙うのは脚じゃない。肩。首。動きを止める場所。
――すぅ。
ぷす。
針が刺さっても、すぐには倒れない。
筋肉が腐ってるくせに、しぶとい。
それがいちばん気持ち悪い。
二発目。
ぷす。
半死体が、ぎくり、と痙攣した。
祈りが途切れて、濁った目がこちらを向く。
次の瞬間。
胸の紋章が、かすかに輝いた。
……やばい。
空気が、張った。
見えない針が皮膚に刺さるみたいに、全身が痛む。
ボクの呼吸が浅くなる。
威圧じゃない。
“排除”。
神官の残り火みたいな防御が、ボクを弾こうとしてる。
ボクは後退した。
距離を取るだけで痛みが引く。
なるほど。
近接は死ぬ。
食うのは最後だ。
半死体はよろめきながら立ち上がり、岩陰へ向かって歩き出した。
嗅いでる? 見てる?
分からない。でも来る。
ボクは多重処理を起動した。
一つの意識で照準。
もう一つで距離と退路。
同時に回す。
三発目。
ぷす。
膝が抜ける。
倒れる。
それでも這う。
……しつこい。
だったら、誘導する。
ボクは岩場の裂け目に回り込み、狭い通路へ引き込んだ。
左右は岩壁。正面しか進めない。
こっちが欲しいのは“時間”。
四発目。
首の付け根。
ぷす。
半死体の動きが、ようやく鈍る。
祈りが、喉の奥で引っかかったまま途切れる。
胸の紋章の光も、弱くなった。
今なら――近づける。
臭いが、ひどい。
腐肉と、湿った布と、香油の残り香。
女神教の人間って、死んでもちゃんと匂いが“綺麗”なのが腹立つ。
ボクは躊躇せず、頭部へ手を伸ばした。
五本指の手が役に立つ。固定できる。押さえられる。
半死体の口が開いた。
何か言おうとした。
「……び、は……」
音が途切れて、涎が垂れる。
ボクはその額に噛みついた。
硬い。
骨が邪魔だ。
でも鉄の胃袋が、多少の無茶を許す。
ボクは頭蓋の割れ目を探し、そこから食った。
脳味噌じゃない。
“言葉が入っている場所”を狙う。
食った瞬間、世界が変わった。
『――モンスター情報収集率、22%』
情報が流れ込む。
祈りの音。規律の音。命令の音。
意味のない音が、意味を持ち始める直前の感覚。
ボクはさらに食う。
『――モンスター情報収集率、49%』
半死体が痙攣する。
胸の紋章が、最後の抵抗みたいに光る。
痛みが走る。
でも、もう読める。
「……排除せよ。欠陥を。穢れを」
ボクの耳が拾った音が、言葉として繋がった。
『――モンスター情報収集率、74%』
祈りが、理解できてしまう。
「美は秩序」
「整えよ」
「美しくないものを燃やせ」
吐き気がした。
理解できるようになったからこそ、気持ち悪い。
それでも、食う。
『――モンスター情報収集率100%になりました。どの部位を反映しますか?』
選択肢。
『言語野:共通語理解(初期)』
『聴覚野:音素識別』
『記憶断片:女神教の用語(断片)』
欲しいのは、まずこれ。
「共通語理解」
『選択を受け付けました。選択項目:共通語理解。変換反映を開始します』
頭の中に、静かな線が引かれた。
今まで“音”だったものが、勝手に区切られる。
単語になる。文になる。意図になる。
発話はできない。
口の作りが違う。舌も喉も足りない。
でも――分かる。
世界が、急にうるさくなった。
葉擦れ。鳥の声。遠くの水音。
そして、遠くの街道から聞こえてくる、人間の会話。
全部、意味を持ってしまう。
ボクは笑った。
「……最高」
理解できれば、盗める。
ルールも、習慣も、嘘も。
女神の世界の“綺麗な言葉”を、そのまま道具にできる。
半死体は、もう動かない。
胸の紋章も暗い。
ボクはその場を離れた。
長居はしない。人間の匂いは、人間を呼ぶ。
同じ夜。
小さな礼拝堂。山際の監視所。
灯りの下で、神官が一枚の報告書を読んでいた。
「埋葬係が戻りません」
「谷の近くです。例の“菌糸”の辺り」
神官は眉を寄せた。
迷信や怠慢では済まされない、嫌な空気を感じ取っている顔。
「最近、森のモンスターの動きがおかしい」
「……増えているのではなく、“変わっている”」
沈黙。
神官は決めたように言った。
「監視を強めなさい」
「討伐はまだ要りません。今は――観測です」
「女神の美を乱すものがいる可能性があります」
「見つけたら、報告を」
灯りが揺れた。
銀の紋章が、静かに光った。




