第三話:生脳茸
菌糸の谷は、足音がしない。
白い糸が地面を覆い、踏むと沈む。
柔らかいのに、絡む。引き戻す。離さない。
森の獣道を外れた瞬間、空気が変わった。
湿っていて、甘い。腐っているのに、腹が鳴る匂い。
……ここが、“谷”。
ボクは岩棚の上にしゃがみ込み、下を覗いた。
一面、白。
ところどころに黒い塊――骨。鎧の欠片。布。
人のものも混じってる。
女神が定義した“美”の世界から落ちたものが、ここに捨てられる。
捨て場。処分場。
醜いものの終着点。
そして、そこに咲いている。
大きな茸。
幹が太い。傘が広い。肉が脈打っているみたいに見える。
根元からは菌糸が蜘蛛の巣みたいに伸び、谷全体を繋いでいる。
――生脳茸。
冬虫夏草の化け物。
寄生して、神経を育てて、頭の代わりに使うやつ。
人間の脳に一番近い器官を持つ。
それを食えば、“脳”が手に入る。
ただし、こいつは待ってくれない。
マンイーターみたいに戦う。
絡めて、騙して、落としてくる。
ボクは喉の奥で笑った。
「最高じゃん」
準備は塩。
岩肌の白い筋を削って、粉にする。
前に山羊の餌に混ぜたやつより濃い。
舐めると舌が痛い。
茸は水で生きる。菌糸も同じ。
塩は水を奪う。
簡単で、残酷で、よく効く。
ボクはそれを布に包み、投げやすいよう小袋にした。
三つ。
全部外したら、死ぬ。
それと、吹き矢。麻痺針。
あくまで補助。茸に麻痺が効くかは賭けだ。
でも“動きを鈍らせる”くらいは期待できる。
最後に、簡易の口当て。
布を湿らせて鼻と口を覆う。
胞子対策。完璧じゃない。
完璧じゃないから、谷へ降りない。
ボクの戦場は、岩棚。
射線が通って、足場が固い場所。
脚――足首強化の成果を、ここで使う。
谷の中央。生脳茸が、動いた。
いや。動いてない。
動いているように“見える”。
傘の裏が震える。
菌糸が波打つ。
振動が音になる。
「……たす、けて」
聞こえた。
女の声みたいだった。
掠れて、弱くて、ちょうど助けたくなる音。
ボクは、笑わなかった。
騙しだ。
それも分かりやすい騙し。
分かりやすいのに、嫌なところを正確に突いてくる。
脳の奥に残ってる“人間の反射”を撫でてくる。
ボクは小袋を握り直した。
次の瞬間、菌糸が伸びた。
谷の端。岩棚の下。
白い糸が、鞭みたいに跳ね上がる。
届く距離じゃないはずなのに、届いた。
岩棚の縁に、ぱしん、と叩きつけられる。
菌糸が弾けて、細かい粉が舞った。
……胞子。
布越しでも匂いがする。甘い。
目の焦点が一瞬だけズレた。
距離感が歪む。
岩棚が少し近く見えて、次に遠く見える。
「……幻覚か」
胃じゃない。これは神経に来る。
鉄の胃袋では守れない。
ボクは膝をつき、目を細める。
呼吸を浅くする。
体の感覚を、足裏に寄せる。
足首が踏ん張る。
地面の固さが戻ってくる。
幻覚は“情報”だ。
情報なら――上書きできる。
視線を固定しない。
一点を見続けると引きずられる。
全体を見る。輪郭だけ取る。
生脳茸は、谷の中央でじっとしている。
なのに、攻撃は谷全体から飛んでくる。
菌糸ネット。
この谷そのものが、武器。
厄介。
でも、狙いは一つ。
茸の“神経核”。
傘の付け根。肉が厚い部分。
脈打つように動いている、脳みたいな塊。
あそこだけは、見間違えない。
一袋目。
ボクは岩棚の上から、塩袋を投げた。
狙うのは傘じゃない。根元。菌糸の束。
袋が落ちて、ぱん、と弾ける。
白い粉が散った。
菌糸が、一瞬だけ縮んだ。
濡れた糸が焼けるみたいに、きゅっと。
効いてる。
生脳茸が、初めて“こちら”を向いた。
傘の裏のひだが開いて、目みたいに見える。
「……みつけた」
また声。
今度は男だった。
低くて、落ち着いていて、信用させる声。
吐き気がする。
信用したくなる自分に。
菌糸が、岩棚へ這い上がってくる。
根元からじゃない。谷の端から、複数の糸が一斉に。
遠回りして、側面から来る。
絡め手。
ボクは後退しながら、吹き矢を撃った。
狙いは菌糸の束――いや、束の“中”。
ぷす。
針が刺さった瞬間、菌糸の動きが鈍る。
麻痺が効く。
植物でも、神経っぽい伝達があるなら通る。
ボクは足首で踏ん張り、岩棚の縁を蹴って位置を変えた。
滑らない。足が残る。
これが欲しかった性能だ。
二袋目。
今度は神経核の近くへ投げる。
塩が傘の付け根に降りかかった。
生脳茸が、びくん、と痙攣した。
肉が縮む。水分が抜ける。
「――っ」
声が割れた。
人間の声じゃなくなった。
茸そのものの、擦れるような音。
効いてる。
でも、こいつも学ぶ。
傘の裏が一気に震えた。
胞子の濃い霧が、風に乗って上がってくる。
「……やば」
布が湿って、匂いが濃くなる。
視界の端が滲む。
岩棚が揺れる。
下を見たら、落ちる。
落ちたら終わり。
ボクは歯を食いしばり、最後の袋を握った。
三袋目は、勝負手。
塩を当てるだけじゃ足りない。
神経核を“止める”必要がある。
止めれば、谷全体の菌糸が鈍る。
ネットが緩む。
――つまり、近づける。
ボクは岩棚を走った。
幻覚で距離が揺れる。
でも足首が、地面を離さない。
踏み外さない。転ばない。
谷の端から回り込み、神経核に最短で届く位置を取る。
射線が通る瞬間だけ、身体を出す。
吹き矢。
麻痺針を、神経核へ。
――すぅ。
ぷす。
刺さった。
生脳茸が、ぐらり、と傾いた。
傘が落ちるみたいに沈む。
菌糸の動きが、全体で一拍遅れる。
今だ。
三袋目。
塩を、神経核へ叩き込む。
ぱん。
粉が舞い、肉に食い込む。
神経核が、目に見えて萎んだ。
谷の菌糸が、だらり、と垂れた。
鞭が鞭じゃなくなる。網が網じゃなくなる。
勝てる。
ボクは岩棚から飛び降り――ない。
降りない。
降りたら、まだ危ない。
ボクは崖沿いを滑るように降りた。
岩の割れ目を足場にして、段を選んで下りる。
足首が耐える。粘る。止まれる。
そして、生脳茸の根元へ。
近い。匂いが濃い。
甘くて腐った、生き物の匂い。
傘の付け根。
神経核が露出している。
ぐずぐずで、脈が弱い。
ボクは躊躇しない。
噛みついた。
ぬるい。
柔らかい。
舌の上で、勝手にほどける。
食った瞬間、頭の奥に“処理の余白”が生まれた感覚がした。
今まで一個しか置けなかった机に、もう一個机が増えるみたいな。
『――モンスター情報収集率、33%』
まだ足りない。
ボクは神経核だけを狙って食う。
周りの肉はいらない。胞子嚢も後回し。
目的は“脳”だ。
生脳茸が、最後の抵抗をした。
菌糸が、足首に絡みつく。
――来た。
ボクは足首を捻って外す。
人間なら捻挫してる角度。でも今は違う。
関節が噛み合って、逃げる余裕がある。
絡みが一瞬緩んだところで、ボクはもう一口。
『――モンスター情報収集率、71%』
幻覚が強くなる。
視界が白くなっていく。
脳が熱い。
でも、塩が効いている。
茸の動きが鈍い。菌糸が遅い。
なら、間に合う。
ボクは神経核を掻き取るみたいに食った。
飲み込む。噛む。飲み込む。
胃が重い。鉄の胃袋でも、これは“重い”。
『――モンスター情報収集率、100%になりました。どの部位を反映しますか?』
選択肢。
『神経核:多重処理(並列思考)』
『菌糸網:空間把握』
『胞子嚢:幻覚耐性』
迷いはない。
「多重処理」
『選択を受け付けました。選択項目:多重処理。変換反映を開始します』
頭が、熱くなった。
痛みじゃない。
熱。
脳の奥に、もう一つの回路が敷かれていく感覚。
視界が二重になる。
いや、二重じゃない。
“二つの意識”で同じ視界を見ている。
片方が周囲の危険を数え、
片方が足元の菌糸の動きを読む。
同時にできる。
――これだ。
『所有能力:多重処理(初期)』
『並列思考枠:2』
『注意:継続使用は疲労・睡眠欲・魔力消費を増大させます』
「……最高」
強い。
だけど万能じゃない。
使いすぎれば鈍る。眠る。倒れる。
だからこそ、武器になる。
ボクは立ち上がり、岩棚の方角を見た。
帰り道を“思い出す”だけじゃない。
一方で帰路を計算しながら、もう一方で追撃が来ないかを監視できる。
谷の菌糸は、まだ生きている。
でも統率がない。
生脳茸の神経核が潰れて、ネットがバラけている。
ボクは笑いながら、谷を離れた。
次は――女神側の“言葉”だ。
美を正義として語る、その頭の中身を。
食って、理解して、利用する。




