第十九話:撤退
夜が来る。
霧が濃くなる。
音が遠くなる。
金属が鳴る。
回収屋が来る時間だ。
ボクは坑道の入口付近、罠の“外側”に座って待った。
待ち伏せじゃない。観測だ。
今夜は倒さない。止める。
――言葉で。
「待て」は通った。
なら次は、もっと強い命令。
撤退。
隊列を崩すためじゃない。
“引かせる”ための命令だ。
規律があるなら、命令が刺さる。
命令が刺さるなら、霧の主に届く。
金属片が鳴った。
ちりん。
続いて、行進の音。
乾いた足音が揃って、霧の向こうから白い影が出る。
回収屋、五体。
前より多い。
落盤の場所を避け、別の通路を使っている。
学習しているのは、こっちだけじゃない。
隊列の先頭が止まった。
首が同時に回る。眼窩が暗闇をなぞる。
……見えてない。
でも“探している”。
ボクは質感擬態で岩に寄せ、動かないまま声だけを準備した。
神官の声色。
慈愛が宿って、冷たい声。
命令に最適な音。
口腔が響く。
舌が形を作る。
声帯が震える。
短く、断定で。
「撤退」
声は霧に吸われず、坑道に残った。
反響して、命令が“ここにある”と主張する。
回収屋が止まった。
一拍。
完全に止まった。
次の瞬間、隊列が同時に反転した。
同じ歩幅。
同じタイミング。
揃って霧へ戻り始める。
……効いた。
背筋がぞくりとした。
言葉が武器になるって、こういうことだ。
剣じゃない。矢じゃない。
行動そのものを奪う。
ボクは息を殺して見送った。
だが――違和感。
撤退が速すぎる。
迷いがない。
命令を“確認”する間がない。
まるで最初から、撤退する予定だったみたいに。
回収屋が霧の境界へ差し掛かったところで、隊列が再び止まった。
頭蓋が、同時にこちらを向く。
そして、隊列の後ろの空気が沈んだ。
霧が、重くなる。
音が、消える。
“何か”が来た。
姿は見えない。
でも圧だけがある。
規律が、上から降りてくる感じ。
――霧の主。
回収屋の隊列が、一斉に膝をついた。
命令体系の頂点が、そこにいる。
見えないのに分かる。
ボクの喉が勝手に鳴った。
恐怖じゃない。興奮だ。
ボクは命令を通した。
でも今のは“誤認”だ。
霧の主が、それを見逃すはずがない。
霧の向こうで、金属が擦れる音がした。
鎧が重なる音じゃない。
もっと滑らかで、整いすぎた音。
そして、声。
「……誰だ」
低い。静か。
神官の慈愛とは違う。
命令だけでできた声。
共通語。
意味がはっきり分かる。
ボクは動かない。
動いたら縁取られる可能性がある。
声を出せば位置が割れる。
でも、ここで黙るのは惜しい。
ボクは音色模倣で、息だけを整えた。
返事はしない。まだ。
霧の主が続けた。
「撤退命令は、今夜出していない」
「……命令が混ざった」
回収屋が微かに揺れる。
規律が乱れるときの揺れだ。
霧の主は淡々と言った。
「命令系統の汚染を確認」
「回収を中止。隊列を再編する」
それを聞いた瞬間、ボクは理解した。
こいつは“個”じゃない。
群れの頂点でもない。
命令そのもの。
戦場の規律が、死んでも残っている。
女神とは別の支配。
女神は美で世界を削る。
こいつは命令で死体を動かす。
どっちも嫌いだ。
どっちも、奪える。
霧の主が最後に言った。
「……偽命令を発した存在」
「次に確認する」
回収屋が立ち上がり、霧へ消えた。
今度は撤退じゃない。再配置の撤収。
整然と。美しいくらいに。
霧が軽くなる。音が戻る。
ボクはそこで初めて息を吐いた。
成功だ。
「撤退」が通った。
命令は刺さる。
刺さるなら、次は語彙を増やせる。
でも同時に、宣戦布告もされた。
次に確認される。
つまり――探される。
拠点は守れる。
罠と鉄がある限り。
ただし、霧の主は“規律”で来る。
規律は、罠を学ぶ。
ならこっちは、命令を上書きするしかない。
次は――もっと強い言葉だ。




