第十四話:狩られる側
森が、明るくなった。
木が減ったわけじゃない。
松明が増えた。
見張りが増えた。
夜でも“見える”ようにされた。
女神が視界を整えた結果だ。
そして今夜、ボクは――狩られる側になった。
最初に気づいたのは匂いだった。
獣臭じゃない。
油と鉄と布。人間の匂い。
それが風に混ざって、複数。
……包囲。
ボクは樹上でも岩陰でもなく、少し開けた草地にいた。
鹿を解体した場所に近い。骨と血の匂いが残る。
最悪のタイミング。
足音が増える。
枝が折れる。
合図の口笛が短く鳴った。
「ここだ」
「血の匂いがする」
「散開! 円を作れ!」
言葉が分かるのは便利だ。
便利すぎて、絶望も早い。
ボクは息を殺し、質感擬態を起動した。
皮膚がざらつく。艶が消える。
草の影に合わせて凹凸を作る。
“地面”になる。
でもここは開けている。
影が少ない。
動かないと逃げられないのに、動けば見える。
……難易度が上がったな。
兵が四人。松明が二つ。
さらに低い姿勢の影が一つ。
擬態蜥蜴。
女神教の追跡獣。
皮膚を変えながら地面を滑るように進む。
目が、やけに落ち着いている。
あれは匂いを追う。
視覚じゃない。
擬態は効きにくい。
ボクは頭の片側で退路を組み、もう片側で相手の手順を読む。
彼らは上手い。
森に慣れている。
“間引き”を仕事にしている。
一人が地面を指した。
「足跡だ」
「……いや、消えてる。妙だな」
違う。消した。
塩で線を引いて、踏み跡の匂いを乱した。
でも完全じゃない。開けた草地では誤魔化しきれない。
擬態蜥蜴が、ぴたりと止まった。
鼻先が空を切る。
風上を読む動き。
やばい。
ここに長居したら終わる。
ボクは音色模倣を使った。
口笛。二回。
木叩き。三回。
……違う。今回は“女神教の合図”じゃない。
岩猿の鳴き声。
短く、甲高く。群れが警戒するときの音。
「キャッ、キャッ!」
森の奥から、別の方向で同じ音が返った。
本物だ。岩猿の縄張りが近い。
兵が顔をしかめる。
「チッ、岩猿か」
「今はそっちじゃない」
「でも石が飛んできたら面倒だぞ」
迷いが生まれる。
包囲の輪が一瞬ゆるむ。
その瞬間だけでいい。
ボクは“動かずに動く”。
草地の端、倒木の影へ。
質感を草から樹皮へ滑らせながら、低く移動する。
背筋が支え、肩が邪魔をしない。骨が軋まない。
松明の光が揺れて、影が伸びる。
影が――合わない。
開けた場所は、影でバレる。
質感は騙せても、影の輪郭は誤魔化しにくい。
兵が叫んだ。
「いた!」
「倒木の影だ!」
矢が飛んできた。
浅い。狙いが甘い。
でも一本でも当たれば血が出る。匂いで終わる。
ボクは走った。
足首が止まり、切り返しが効く。
開けた場所を斜めに切って、森へ戻る。
後ろで声。
「追え!」
「血を出すな、逃がすな!」
「蜥蜴を前に!」
擬態蜥蜴の足音が速くなる。
軽いのに、執拗。
森に入れば勝てる――と思った瞬間。
松明が、前から見えた。
二重包囲。
逃げ道を読まれている。
兵が笑う。
「誘導したつもりか?」
「こっちが森を知らねぇとでも?」
……上等。
ボクは立ち止まった。
止まることが、潜伏の条件。
動けば死ぬ。でも動けば死ぬのは変わらない。
だったら、“止まって消える”を戦術にする。
ボクは大きな樹の根元に背をつけた。
皮膚を樹皮に寄せる。凹凸、艶、割れ目。
息も浅くする。体温を逃がさない。
兵の松明が近づく。
光が当たる。影が揺れる。
……影も、木の影に混ぜる。
腕を少しだけ根に沿わせる。
脚を地面の凹みに合わせる。
擬態蜥蜴が、こちらへ来る。
匂いで来る。
視界じゃない。
だから危険。
ボクは塩を一つまみ、指先で弾いた。
風下へ。匂いの線を切るための“点”。
擬態蜥蜴が、ぴくりと止まった。
鼻先が揺れる。判断が遅れる。
その遅れの間に、兵が通り過ぎる。
松明の光が、ボクの顔を舐めた。
……見えてない。
見えてないのに、心臓が暴れる。
この距離で見つかったら終わりだ。
兵が小声で言った。
「……妙だな。確かにここにいるはずなんだが」
「消えたのか?」
「ゴブリンが?」
別の声が、遠くから飛んできた。
神官じゃない。神官の“指示”を伝える兵の声。
「上からの命令だ!」
「開けた草地の縁を押さえろ! 影の不自然さを見ろ!」
「“見えるもの”だけを追うな!」
……賢い。
神官は現場に出ていないのに、正しい手を打ってくる。
まるで最初から、ボクの手札を知っているみたいに。
兵が隊列を組み直す。
松明の位置が変わる。光が“面”になる。
光で塗り潰されたら、影に混ざれない。
詰む。
ボクは最後の手段を切った。
音色模倣。
今度は合図ではない。
“悲鳴”。
森の奥、少し離れた場所で、女の悲鳴を再現する。
喉はまだ完全じゃない。でも音色なら作れる。
「――きゃあっ!」
兵が止まった。
「今のは!」
「女か?」
「この辺に村は――」
迷い。
倫理。
守るべき美しいものへの反射。
それが、彼らの隙。
隊列が割れた瞬間、ボクは走った。
光の薄い場所へ。密な茂みへ。匂いの乱れる沢へ。
背筋が支え、ブレずに走れる。
足首が止まり、曲がれる。
骨が耐えて、転ばない。
背後で怒号が飛ぶ。
「釣られるな!」
「……いや、確認しろ! 二人行け!」
「くそっ、散開したらまた――!」
混乱。
ボクが作った混乱。
でも追跡は止まらない。擬態蜥蜴が粘る。
匂いだけで、執拗に食いつく。
そのとき。
遠く、森の上の方から“白い揺らぎ”が落ちた。
松明の光じゃない。
月明かりでもない。
祈りの光。
一瞬だけ、空気が澄んで、世界の輪郭が“正しく”なる。
そして。
ボクの質感擬態が、わずかに浮いた。
見えないはずの輪郭が、薄く線になる。
木とボクの境界が、ほんの少しだけ白く縁取られる。
……これが。
神官の“見破り”の欠片。
兵が息を呑んだ。
「今……そこに……」
「影が、縁取られた……?」
「神官様の加護か!」
ボクは即座に地面を蹴った。
縁取られる前に移動する。
止まっていると“見える”。
なら動いて、また別の影に潜る。
森の奥へ。沢の音へ。匂いの乱れる場所へ。
擬態蜥蜴の鼻を殺すために、泥に潜り、腐葉土を擦りつけた。
追跡の声が遠ざかる。
完全には切れていない。
でも今夜は、逃げ切った。
息を整えながら、ボクは思った。
ここはもう、安全じゃない。
女神は視界を整えた。
その結果、森は“狩場”じゃなく“処分場”になる。
次は、こちらが世界を変える番だ。
そのために必要なのは――言葉。
理解するだけじゃ足りない。
“命令”と“偽装”を、こちらから投げる。
次は口腔。共鳴。
そして拠点を移す。
女神の視界の外へ。




