第十二話:舌
山の風は、歌を運ぶ。
そしてこの世界の人間は、歌に弱い。
美しいものに、弱い。
ハーピーの巣は崖の上だ。
近づくほどに、音が澄む。
澄むほどに、脳が勝手に“良いもの”だと判断する。
……女神の世界らしい。
ボクは岩陰から、その場所を見た。
崖の中腹。ひらけた踊り場。
そこに――教会があった。
白い石。高い尖塔。ステンドグラス。
荘厳。清潔。秩序。
でも、匂いが違う。
鳥の糞。腐った羽。血。
石の割れ目から伸びる苔。
それを、目だけが無理やり“教会”に塗り替えている。
幻術。
ハーピーの得意技だ。
歌と一緒に視覚を撫でて、人間の“信じたいもの”を見せる。
そして――そこに人間がいる。
女神教の雇った護衛。冒険者。
鎧が新しい。剣が光ってる。顔も整ってる。
守られる側の顔だ。
彼らは教会の前で膝をつき、祈っていた。
「女神よ……」
「この地を清めたまえ……」
清める?
笑う。
そこは巣だ。
巣の主は、空の上だ。
崖の縁。教会の尖塔に見えている“岩”の上。
翼の影が揺れた。
ハーピー。
羽は白く見える。天使みたいに。
でも実際は灰色で、ところどころ血が滲んでいる。
嘴は鋭い。目は獣。
美しい幻の中心に、醜い本体がいる。
この世界、分かりやすい。
ボクの目的は舌。
人間に近い発音には、舌の精密さが要る。
声帯(模倣)はもうある。
次は子音を作るための筋肉。
ハーピーは“歌う”。
つまり舌と口腔が、そもそも発声用に最適化されてる。
ただし問題がある。
護衛がいる。
正面からやれば、ボクが死ぬ。
弓で一人落とす? その間にハーピーが逃げる。
下手をすると、三つ巴どころじゃなくなる。
だから手順は一つ。
ハーピーを落とす。
護衛は放置。
“美しい教会”が崩れた瞬間、人間は勝手に混乱する。
その隙に、舌だけ奪う。
ボクは崖下の風を読んだ。
上へ抜ける上昇気流。歌がよく伸びる流れ。
油を取り出す。
野営地の戦果。小瓶。
布もある。
鹿肉を包んで乾かすために使っていた端布。
ボクは布に油を染み込ませ、火打ち石で火を作った。
小さく。煙だけ出るように。
煙は上へ上がる。
上昇気流に乗って、教会――いや巣へ。
護衛が顔を上げた。
「……煙?」
「ここは聖域だ、火は――」
違う。聖域じゃない。
ただの崖だ。
煙が巣の縁へ届いた瞬間、歌が乱れた。
ハーピーの羽がばたつく。
翼の動きが荒くなる。
煙は目と喉に刺さる。歌の制御が乱れる。
幻術の“塗り”が剥げた。
ステンドグラスが、ただの岩肌に戻る。
白い石壁が、糞と羽の塊に戻る。
護衛の一人が叫んだ。
「……教会が、消えた!?」
「女神の奇跡だ!」
「違う、幻だ! ハーピーだ!」
混乱。
いい。予定通り。
ハーピーが飛び立った。
崖から身を投げ、空中で翼を広げる。
煙から逃げる動き。風上へ移動しようとする。
そこを撃つ。
ボクはリカーブ弓を引いた。
背筋が支える。肩が回る。照準が揺れない。
狙うのは胴じゃない。頭でもない。
翼。
落とすための場所。
でも骨を折りすぎると舌が潰れる前に死ぬ。
だから片翼だけ、付け根を浅く。
――すぅ。
放つ。
矢が翼の付け根に刺さった。
ハーピーが甲高く鳴いた。歌じゃない、獣の声。
空中で体勢が崩れる。
護衛が剣を抜く。
「撃ち落とせ!」
「女神の名のもとに!」
彼らはボクに気づかない。
気づいたとしても、今はハーピーが優先だ。
ハーピーが再び歌おうとした。
幻術を戻そうとした。
でも煙が喉に絡む。音程が乱れる。
ボクは二本目。
今度は網矢。
矢尻に結んだ細縄と小さな重し。即席のボーラ。
撃つ。
縄が翼に絡む。
羽ばたきが一拍遅れる。
ハーピーが落ちた。
崖の踊り場へ、どさり。
護衛が殺到する。
剣が閃く。
でも、そこでまた幻が揺れた。
ハーピーは“美しい顔”を作った。
涙目。祈るような手。少女の輪郭。
「やめて……」
「女神さま……たすけて……」
声が、綺麗すぎた。
護衛の動きが鈍る。
一瞬、躊躇が入る。
美しいものを傷つけると、世界から怒られる気がする。
そう刷り込まれている。
……くだらない。
ボクは岩陰から滑り出た。
護衛の視線が集まる前に、ハーピーの口元へ。
噛みつく。
狙いは舌。
柔らかい。温い。
声帯よりさらに“人間に近い”筋肉の塊。
『――モンスター情報収集率、29%』
護衛が叫んだ。
「何だ、あれは!?」
「ゴブリン!?」
「待て、近づくな!」
遅い。
ボクは舌筋だけを集中的に食った。
舌の先。舌の根元。細かく動く部分。
発音のための筋の情報。
『――モンスター情報収集率、62%』
『――モンスター情報収集率、89%』
ハーピーが暴れる。
でも翼は絡み、脚は剣に押さえられている。
護衛が完全に“討伐モード”に切り替わるまで、時間はある。
美しい幻が剥げた瞬間、人間は残酷になる。切り替えが早い。
『――モンスター情報収集率100%になりました。どの部位を反映しますか?』
選択肢。
『舌筋:精密制御(子音)』
『口腔:共鳴(母音)』
『耳:音程識別』
今は舌だ。
「舌筋」
『選択を受け付けました。選択項目:舌筋:精密制御。変換反映を開始します』
口の中が、ぞわりと変わった。
舌が少し長くなる。
表面の感覚が細かくなる。
筋が増える。動かせる方向が増える。
舌先が、勝手に“形”を試す。
歯の裏に当たる。上顎をなぞる。口腔の空気を切る。
……発音の準備だ。
護衛が突っ込んでくる。
「殺せ!」
「穢れだ!」
穢れ。
さっきまで教会に祈ってた口が言う。
ボクはハーピーから離れ、崖の縁へ走った。
足首が止まり、身体が落ちない。
背筋が支え、弓を抱えたまま跳べる。
一瞬だけ振り返ると、護衛はハーピーの死体を囲んでいた。
美しい幻が消えたから、もう興味がない。
……そういうところだ。
ボクは崖下へ消えた。
喉がある。
舌がある。
次は口腔。共鳴。
そして――最初の言葉を、こちらから投げる。




