幕間:女神
祈りは、届く。
届くからこそ、この世界の信仰は宗教じゃない。
手続きだ。
山際の監視所。夜更け。
神官は身を清め、白い布を敷き、銀の紋章を中央に置いた。
指先に油を垂らし、火を灯す。
炎は揺れず、真っ直ぐ立った。
「女神よ。報告があります」
声は震えていない。
震えを許されない立場だ。
「監視対象区域にて、異常を確認。モンスターの行動が“学習”しています」
「罠の配置、誘導、撤退。戦術が存在します」
紋章の銀が、静かに光った。
火の色が白に変わる。
そして“声”が降りた。
「かわいそうに」
慈愛の響き。
子を憐れむ母の声。
聞くだけで膝が折れそうになる、美しい声。
だが、内容は違った。
「秩序の外で、形が育ってしまったのね」
「あなたの報告は正しいわ。よく見ている」
神官は息を呑む。褒め言葉は蜜だ。
女神の蜜は、信徒を溶かす。
「では、女神よ。討伐の許可を――」
「まだよ」
即答だった。優しいのに冷たい。
「あなたは“形”だけを見ている」
「私は“美”を見る」
神官の喉が鳴った。
「……美、ですか」
女神は嬉しそうに言った。
「ええ。美しいものは守られるべき」
「醜いものは、矯正されるべき」
「矯正できないものは……最初から無かったことに」
その言い方が、あまりにも滑らかで、息が詰まる。
殺意を包む布が、上等すぎる。
神官が慎重に言葉を選ぶ。
「しかし、報告では――その存在は“認識しづらい”」
「夜間、声、罠……こちらの観測が乱されます」
女神の声が、一瞬だけ低くなった。
「乱される?」
そこだけ、感情が出た。
苛立ち。
自分の視界にノイズが混ざることへの、純粋な嫌悪。
「……おかしいわね」
女神は、穏やかに続けた。
穏やかだからこそ、異常だった。
「私は醜いものを見落とさない」
「醜さは、世界にとって傷なのだから」
神官の背に冷汗が滲む。
女神は“見えていない”のに、見えていると言い張っている。
神官は理解した。
女神の視界には、フィルタがある。
“美しいもの”だけが像を結び、
それ以外は、意味のない揺らぎとして処理される。
だから見えない。
見えないものは、存在しない。
存在しないものは、誤り。
女神は、その誤りを許せない。
「……女神よ。では、どうすれば」
女神は微笑む声で言った。
「視界を整えましょう」
「美の輪郭を、もっと強く」
火が、白く燃え上がった。
神官の頬が熱くなる。
目が痛い。
けれど視界が澄む。世界が“美しく”なる。
同時に、神官の頭に数が流れた。
「監視対象区域:美的逸脱率、上昇」
「醜形の出生率、僅増」
「夜間活動個体、増加」
女神は優しく言った。
「あなたが疲れる前に、間引いてしまいましょうね」
「矯正が追いつかないなら、削るしかないでしょう?」
神官は唇を噛んだ。
それは“守護”ではない。
“調整”だ。
けれど神官は逆らえない。
逆らった瞬間、自分が美から外れる。
「……承知しました」
女神は満足そうに囁いた。
「いい子」
「美しくありなさい」
炎が元の色に戻る。
銀の紋章は、何事もなかったように沈黙した。
神官は額を床につけたまま、しばらく動けなかった。
女神は慈愛深い。
だからこそ、世界を“自分好み”に整えずにはいられない。
見えないものを、許せない。
そして今夜、女神は決めた。
森の“醜い揺らぎ”を――
もっと見えないようにするのではなく、
もっと確実に、消すと。




