私だって好きにさせてもらうわ
「……ね、リアナちゃん」
宥めるような優しい声で呼び、香穂様が私の手をそっと包む。
「アタシはリアナちゃんの事情を全然わかってないけど、"好き"があることで救われる面ってあると思うんだ。アタシはリアナちゃんに、少しでも笑っていてほしいな」
「香穂様……」
「仕事仕事ばっかじゃ、息が詰まるしな。息抜きって大事だと思うっすよ」
「私も"好き"を理由にこの居酒屋を営んでるけれど、それとは別に気になる日本酒をお取り寄せしたりもしてるなあ。……あ、丁度いいところに亀さん」
手招く三樹様に気が付いた亀さんが、「楽しいお話ですか?」と歩み寄ってくる。
「亀さんって、好きなコトあります?」
三樹様の問いに、「好きなことですか? そうですねえ」と亀さんは顎先に手をあて、
「若い頃はとにかく、色んな場所に旅行にいったものです。近頃は覚えた日本酒で、妻と晩酌をする時間が楽しみですねえ。ああ、妻は舞台鑑賞が趣味なんですが、ときどき香穂さんとグッズの交換をしていますよ。なんでも自分で中身が選べないグッズがあるとかで」
「本当に、亀さんの奥様にはお世話になってます……!」
「いえいえ、こちらこそ」
香穂様と頭を下げ合った亀さんが、「ご趣味の話をされていたんですか?」と小首を傾げる。
「その、私には皆さんのように"好き"と言えるものがなくて……。なにか、見つけたいのですけれど」
亀さんは「なるほどなるほど」と頷き、
「先ほどのアイスは、美味しかったですか?」
「え? あ、はい。とても美味しく感動的な菓子でした」
「"好き"でしたか?」
「あ……はい、"好き"でした」
「では、日本酒はどうでしょうか?」
「素敵なお酒だと思います。変化がありながらもどれも美味しくて……」
「"好き"ですか?」
「! "好き"です」
亀さんはふふ、と目元を緩め、
「リアナさんはまず、ご自分の感性に正直に"好き"と発する訓練から始めたほうがよいかもしれませんねえ。食べたものでも、見たものでも、日常の小さな事柄を"好き"か否かで判断してみてはどうでしょう」
「"好き"と表現する、訓練……」
「些細なきっかけから、特別な"好き"に繋がったりもしますから。まずはご自身が何を"好き"と感じるのかを、お知りになってみると良いかと」
たしかに、と同意を示す三人に、背を押される。
(私の感性に正直に、"好き"かどうか)
それから私は、こっそりと日々の中での"好き"探しを始めた。
口にしたもの、身につけるドレスや装飾品、庭園や屋敷内の花。
始めは"好き"と判断することが多かったけれど、次第に"それほどでもない"や、"これよりはあちらのほうが"と思うことが増えてきた。
(これが亀さんの言っていた、"訓練"の成果かしら)
自分でも気が付かないうちに、本当の"好き"が分からなくなっていたのね。
それに。"好き"かどうかを判別するために自分の心と向き合っていると、自然とフレデリック様の動向も気にならなくなっていた。
「……私にとって、それほど必要のないものだったのね」
そもそも、互いに"好き"のない婚約だったのだもの。あるのは義務と義理だけ。
それはフレデリック様も同じなのだから、"好き"なものを優先するのは当然のことだわ。
(フレデリック様も今頃、愛しいゼシカ様に想いを馳せながら夜間の職務に励んでいるのかもしれないわね)
以前とは違う冷静な納得の心地で、お茶会の招待状に返事を書くべくペンを走らせる。
「……あ」
(そういえば、このインクは"とても好き"だわ)
滲みも少ないし、やや青みがかった黒の色も上品で美しいし。
「もしかして、あの赤のインクも……。やっぱり、同じ工房だわ」
引き出しから取り出した同じ形の瓶に、どうして今まで気が付かなかったのかしらと思うと同時に、そんなことにも気が付けないほどに余裕がなかったのだと思い知る。
「ノイマンに頼んで、インクはこの工房からの仕入れを増やそうかしら」
そうよ。フレデリック様だって連絡ひとつなくお仕事をしているのだから、私だって好きにしてもいいはずよね。
契約中の"婚約者"として最低限の勤めを果たすだけにして、もっと自分に目を向けて、楽しむべきだわ。
(こんなにすっきりとした気持ちは、いつぶりかしら)
窓を開けると、ひんやりとした空気が部屋に入り込んでくる。花々が花弁を開く季節だとはいえ、夜はまだ冷える時期の名残が濃い。
これまで何度も見上げた星空は寂しさを訴えていたはずなのに、今は美しく、心地よさすら感じる。
(考え方ひとつで、こんなにも変わるなんて)
「――お嬢様。失礼してもよろしいでしょうか」
ノックの音に、「ええ、どうぞ」と返すと、ワゴンを押した侍女が。
「お紅茶とクッキーをお持ちしました。月も高くなってまいりましたし、そろそろ休まれてはいかがでしょう」
「そうね、今日はここまでにするわ。お紅茶を淹れてくれる?」
侍女は「もちろんでございます」と机にカップと焼き菓子の乗る皿を置き、ポットを手にしたかと思うと心配気に眉根を寄せ、
「窓をお開けになられていたのですね。夜はまだ冷えます。足湯用のお湯をご用意いたしましょうか」
「平気よ、少しだけだから。……それよりも、お願いがあるのだけれど」
「はい、なんなりとお申し付けください」
「よかったら、一緒にクッキーを食べてくれないかしら」
「……ご体調が優れないのですか? それとも、別の茶菓子がよろしいようでしたら、すぐにお取替えを」
「違うの。一人で食べるよりも、誰かとお喋りをしながら食べるほうが好きなの。侯爵邸にくるまではずっと、そうだったから」
だから、座って? と焼き菓子の乗るお皿を示してみせると、
「本当によろしいのですか?」
「ええ、もちろん。……もっと早く、我儘を言っておけばよかったわ」
私はちょっと、悪戯っぽく微笑む。
「自分に素直になるというのは、気持ちのいいものね」
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