彼を気にかけるのはやめましょう
本当に、夢のようなひと時だった。
相変わらず自身のたてた音ばかりが響くがらんとした侯爵邸の食堂で、寂しさを紛らわせるようにしてあの日を思い返しながら、程よく焼かれた夕食のお肉を飲み込む。
あの夜、三樹様と亀さんに礼を告げ居酒屋の扉をくぐると、自室に戻り、扉は消えてしまった。
お爺様は通っていたと言っていたから、きっとまた呪文を唱えればあの扉が現れるのね。……そうであってほしい。
これまで以上に"お守り"の意味合いを強めたネックレスは、あの日から欠かさず身に着けている。
(次は、いつ訪ねていこうかしら)
もう何度繰り返したかわからないほどにあの場所が恋しくて、せっかくの豪華な食事も、味わう間もなく咀嚼してしまう。
(お爺様も、通われていた頃はこんな気分だったのかしら)
早々に食事を済ませ、食堂の扉を開けた。刹那。
「! フレデリック様……!」
騎士の制服から着替えていらっしゃるということは、帰宅したのだろう。
慌てて「おかえりなさいませ」と頭を下げ、
「お出迎えもせず、申し訳ありません」
「食事中だと伺いましたから。気になさらないでください」
微塵も気にした様子もなく告げるフレデリック様に、もやりと胸中に影が差す。
だって、ここに立っているということは。
「……これから、お食事ですか?」
「はい、夕食がまだですので」
「間もなくご帰宅されるとご連絡くださいましたら、待っていましたのに」
不満と勇気を逃すようにして、指先に力を込めながら告げる。
と、フレデリック様は即座に「いえ」と発し、
「俺の都合に合わせる必要はありません。リアナ嬢も、忙しい身なのですから」
「!」
(たしかに、暇を持て余しているわけではないけれど)
多忙な"婚約者"と食事の時間を合わせるくらい、大きな問題ではない。
そもそも、共に食事をするのだって、稀も稀だもの。
(私に連絡をする手間すら、面倒だということ?)
ああ、それとも。私に"待つ"という選択肢を許しては、都合が悪いのかしら。
たとえば、ゼシカ嬢からの急なお誘いに応じれなくなってしまうからとか……。
(いえ、その場合は、私に断りの連絡をいれてでも彼女を優先するはずね)
どちらにせよ、どんな反論の言葉も意味を成さないのはよく知っている。
「お気遣いいただきありがとうございます。では、先に休ませていただきます」
にこりと笑えたのは、ひとえに侯爵家での"淑女教育"の賜物。
(フレデリック様のお気持ちは、よくわかったわ)
必要ないと言うのだから、私も今後は気を回すのをやめたっていいわよね。
***
帰宅と同時にノイマンに夕食を頼んだが、着替えている間に用意が完了するのは、ひとえにこの邸の料理人たちが優秀だからだろう。
ここ数年は食事や軽食の時間が定まらず苦労をかけているだろうに、迅速に温かな料理が準備されるのは心底ありがたい。
リアナ嬢も、侯爵邸の食事には満足している様子だと報告を受けている。
だから先ほどの彼女の雰囲気が常と異なっていたのは、夕食が理由ではないと推察できるのだが。
(近頃、あまり休めていないのか?)
この時間だと、彼女は書斎にいることもあるし、応接室で招待状や本に目を通していたり……ともかく、まだ起きている印象が強い。
今日はお茶会の予定はなかったはずだが、難しい書類仕事でもあったのだろうか。あとで領地の報告書に目を通してみるべきか。
思案しながら椅子に腰かけると、「坊ちゃま」とノイマンが現れた。
二十七の大男相手に"坊ちゃま"はいかがかと思うが、正式に当主を継ぐまでは"坊ちゃま"なのだとノイマンがいうのだから、仕方がない。
幼い頃からの養父のような、教師のような、加えて"仕えられる者"としての責務を教えてくれた彼には、頭が上がらないのだ。
ひと足早い隠居生活の準備だなんだと両親が領地に行ってしまってから、俺の相談役でもある彼は、どこか呆れ交じりの咎めるような顔をして俺のグラスに水を注ぐ。
「どうしてそう、お嬢様に冷たくされるのですか」
「…………身に覚えがないが」
ノイマンが"お嬢様"と呼ぶのは、リアナ嬢ただ一人。
俺が? 彼女に冷たく当たった?
「まさか、さっきのことか? 俺は食事までこちらの都合に合わせる必要はないと言っただけだ」
「お嬢様とは、お食事をご一緒されたくはないと」
「違う。とんだ誤解だ。……彼女は望まぬ婚約で、次期"侯爵夫人"としての役目を押し付けられているんだ。なのに食事の自由まで奪い俺の帰宅を待たせては、気が休まらないだろう」
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