第2話:第8部 静かな亀裂
彼女との激しい衝突の末、1LDKの部屋を飛び出した僕は、財布だけを手にホテルへと身を寄せた。
今までの三年間、毎日のように隣にいた彼女と、初めての長い別れだった。
スマホも持たず、連絡手段は一切ない。互いの所在は分からないまま、ただ日々は淡々と過ぎていく。
夏休みが明け、会社で顔を合わせたとき、彼女はやつれた表情で「戻ってきて」と懇願した。
けれど、あの一週間の緊張感と息苦しさの記憶は僕の心に深く刻まれていて、すぐには戻れなかった。「少し考えさせて」とだけ伝え、別居生活はそのまま続いた。
ホテルでの一人暮らしは、最初こそ孤独だった。
しかし、静かな空間は不思議なほど僕の心を落ち着かせた。
朝は淡い光の差し込む部屋でコーヒーを淹れ、新聞やニュースに目を通す。
仕事へ向かう通勤電車の中で、誰にも干渉されない自由を噛みしめた。
夜はホテルの部屋に戻り、整えられたベッドで一人の時間を過ごす。
誰にも気を遣わず、感情を押し殺す必要もない。それだけで、呼吸が深くなるような感覚だった。
その静けさは、皮肉にも僕を仕事に向かわせた。
オフィスに着くと、感情の揺れに邪魔されず、冷静に考え、判断することができる。
会議での発言は的確に響き、プロジェクトの進行も順調に進む。
上司や同僚からの評価も上がり、ついには役職を任されるようになった。
仕事の成功が自己肯定感を押し上げ、心のどこかで「もう一人でもやっていける」と思うようになった。
しかし、自由と成功の裏で、彼女との距離は確実に広がっていった。
かつては愛情や依存を共有していた関係が、今では重荷として胸にのしかかる。
ホテルの静寂に心を癒される反面、彼女のことを考えると胸の奥が鈍く痛む。
別居によって得た心の平穏と、失った日常の温もり――そのコントラストは鮮烈で、心の奥に影を落としていった。
ある夜、ふとスマホを手に取り、彼女の顔を思い浮かべる。
無理に自分を納得させようとしても、やはりどこかで寂しさが滲む。
仕事に打ち込む毎日は確かに充実していたが、かつてのように彼女と笑い合う時間は二度と戻らないのではないか――そんな恐怖が心の片隅に芽生える。
輝く夜景に目をやりながら、僕はただ、この変化を受け止めるしかないのだと知っていた。まだ崩れてはいない。だが、この静かな距離感こそが、これから訪れる試練の前触れなのかもしれなかった。




