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Ⅲ.夜のこどもたち2


 朝食を終えて秘書室に戻ったまりあは、ジェミーからナターリャの所へ行くように言われた。


「今日はことのほか早くお目覚めなの。まあご機嫌伺いというところね」

「はあ」


 まりあが寝室に行くと、ナターリャは待ちかねたように、


「こっちへいらっしゃいマーニャ」


 とまりあを差し招いた。


「夕べはよく眠れた?」


 昨夜の悪夢が脳裏をよぎる。


「あの、じつはあまり」

「まあ、それは良くないわね。枕が替わると眠れない、というものね。でも大丈夫、すぐに慣れますよ。ところで昨日の撮影、楽しかったわね?」


 そして昨日の撮影大会についてひとしきり話題にする。写真が出来て来るのが楽しみだ、ベッドサイドの写真立てが増えるのがうれしい、などと言う。


 まりあはキャビネットやサイドテーブルに所狭しと並べて置かれている写真立てを見渡した。ほとんどがメイド姿の日本人とおぼしき少女たちの写真だった。一人で写っているものもあったし、ジェミーとのツーショットもいくつかあった。


 かすかな違和感をまりあは感じた。


 普通は家族写真を飾るのではないだろうか、と思ったのだ。無論、そうした写真もあるにはあった。立派な髭をたくわえたロシア人の壮年の男性。優しそうな銀髪の女性。ナターリャの両親であろう夫婦の写真。だが、そうした家族の写真よりも、圧倒的に多いのがメイド少女たちの写真なのだった。


「あの、この子たちは」

「ああ、皆私の小間使いだった子よ」


 と応える。


「一人一人に思い出があるの」


 と、いとおしそうにそれらの写真を見渡す。


 津田警部補のことばを思い出した。


(エンパイア・ホテルでバイトをしていた少女が何人も不審死を遂げている)

(何十年も。それこそ戦前から)

(少女の不審死や自殺のうち、かなりの率でエンパイア・ホテルで働いていた経験のある者がいる)


 ではこの少女たちの写真は。


「あの、この子たちはどうしたのですか」

「みんな辞めてしまったわ」


 ナターリャは少し寂しそうに答えた。


「しかたないわよね。こんなお婆ちゃんの相手ですもの。長続きしないの」


 彼女たちは辞めた後どうなったのですか。


 喉まででかかった言葉を呑みこむ。それを聞いてしまったら何かが崩れてしまう。そんな気がしたからだ。


 まりあは話題を変えたくて、写真の一つを手に取った。昨日見た、ナターリャの幼い頃の写真だった。セピア色のその写真には、庭園らしい場所で花に囲まれている少女の姿が写っていた。


「かわいらしい写真ですね」


 ナターリャは優しく微笑んだ。


「それはイリンスコエの屋敷で撮ったものよ」

「イリン・・・」

「イリンスコエ。モスクワ郊外の避暑地なの。緑の多いところよ。日本で言えば、そうね、軽井沢? そんなところよ」


 まりあはじっとその写真を見た。幸福そのものの幼い少女。きれいな服を着て、花の中で微笑んでいる。


「あなたにも見せてあげたいわ。素敵な庭園があってね、わたくしと従妹のマーニャはそこでよく遊んだものよ」


 懐かしそうな表情をしていたナターリャは、ふと思いついたように、


「そうだわ。マーニャ、そこのドアを開けてみて」

「え」

「その左手のドア」


 それは隣の部屋へと続いているドアだった。まりあは言われた通り、ドアを押し開いた。


「なにが見えるかしら?」


 その部屋には厚くカーテンが引かれていた。明かりも点いていない。まりあは目を細めて中をうかがった。やがて闇に目が慣れてくると、部屋の中央にあるものが置いてあることに気付いた。


「あっ」


 それは棺だった。


 どっしりとした樫の木の棺桶(コフィン)。それが部屋の中央の、床が一段高くなったところに据えられていた。


「わたくしの棺よ」


 まりあの背後からナターリャの声が聞こえる。


「その棺の中にはね、イリンスコエのお庭の土が敷き詰めてあるの」

「土が。どうしてですか」

「わたくしはね、もうロシアへは帰れないの」


 ナターリャの声には哀切が滲んでいた。


「理由はどうあれ亡命の身よ。いちどは祖国を捨ててしまった。いったいどんな顔をして帰ればいいの? それに、親しい人たちはみんな死んでしまった。今帰ったところで迎えてくれるものはいないわ」


 涙を拭う気配がして、まりあは振り返ることが出来なくなった。


「わたくしが死んだら、ここ横浜の外人墓地に葬られることになるの。でもね、その棺には故郷の土が入っている。私はそこでロシアの土に還るの。なつかしきロシア、美しき祖国(ロージナ)の土に」


 その想いを、まだ若いまりあは理解することができなかった。けれど、ナターリャの祖国に対する想いの強さは理解できた。


「さあ、もうそのドアは閉めて」


 との声に、まりあはそっとドアを閉じた。


「わたくしは故郷の土とともにある。だからね、寂しくはないのよ? それに今はマーニャも居てくれる。ただ、やっぱりたまには故郷が恋しくなるの。季節の折々に、ああ、庭園ではカンパニュラやデイジーが咲いている頃だわ、とか、ベリーを摘みに森に入ったこととかを思い出すの。でも、もうそれらも見ることはできない」


 沈んだ口調のナターリャを元気づけようと、まりあはあることを思いついた。


「あの、いまの様子なら見られると思いますけど」


 怪訝な顔をするナターリャに、インターネットを使えば、地球上のどんな土地でも衛星写真で見られるのだ、と説明した。


「驚いたわ。ジェミーにはインターネットで株取引を任せているけど、そんなことも出来るのね」


 そして是非見たいと言う。


「ジェミーに言ってノートパソコンを持ってきて」


 と命じる。


 まりあは秘書室に行くと、ジェミーにその旨伝えた。


「無線LANのワイヤレス接続だから、そのまま持って行っていいわよ」


 と、机の上のノートパソコンを指差す。


「あの、そういえば奥様は電子音がお嫌いなのでは」

「大丈夫。音は出ないように設定してあるから。そのパソコンは奥様に収支決算を報告する時に使っているものよ」


 まりあはノートパソコンを手に、ナターリャの寝室に戻った。ナターリャはガウンを羽織ってベッドに半身を起こしていた。ベッドの上にノートパソコンを置くように身振りでしめす。


「マーニャはパソコンを使えるのね」

「はい。家にもありますし。授業でも習いましたから」


 言いながらもキーボードの上に指を滑らせる。ジェミーほどではないにしろ、まりあもパソコンの操作には不自由しなかった。


「どのあたりでしょうか」

「モスクワから北北東に八十マイルほど離れた・・・そう、ボルガからは南南東にあたるわ」


 最初は大雑把に地図を表示させる。その後、縮尺を切り替えて、該当の場所を拡大して行った。


「町並みは大分変わってしまったようね・・・待って、その四ツ辻には覚えがあるわ。もう少し北へ。そう、そう! その向こうよ」


 地図の画面では、そこが小さな草原か広場だということしかわからなかった。まりあは表示を切り替え、衛星写真の画像にした。


 ディスプレイに映っているのは、なにもない緑の草原だった。すくなくともまりあにはそう見えた。


「ああ。ここだわ」


 ナターリャはそうつぶやき、深いため息をついた。


「庭園の跡だわ・・・もう少し大きく出来る?」

「はい」


 拡大された画像を見て、まりあにもなんなとなく全体の様子がわかってきた。地面にうっすらと線が見える。それは大きな矩形を描いていた。そしてその中がいくつかに区切られている。四角形の連なり。


「屋敷は取り壊されてしまったのね。基礎しか残っていないわ」


 ナターリャの骨ばった細い指がディスプレイの上をなぞる。


「ここが大広間。そしてここが厨房。客間がここ。ここの二階がお父様の書斎。そしてここが」


 母屋の一角、角部屋と思しきあたりでナターリャの指がとまった。


「二階がサンルームになっていたの。そう、天候の悪い日に中で遊べるように。職人を呼んで、お父様が作らせたの」


 まりあはナターリャが、この上も無く優しく微笑むのを見た。


「このサンルームは全体がガラス張りになっていて、暖かく過せるの。お日様が出ている時は暑いくらいだったわ。鉢植えの花がたくさんあって、いつもいい匂いがしていた。ここでよく従妹のマーニャとおままごとをして遊んだものよ。そうそう、結婚式ごっこも」


「結婚式ですか」


「そうよ。お母様の白いベールを被って、花を持って。五歳年上の従兄のアリョーシャを花婿役にしてね。いつもマーニャとわたくしとで、どちらが花嫁をやるかでケンカになったの。だから、最後はアリョーシャを間に三人で並んだものよ」


 輝かしいこども時代をナターリャは生き生きと語った。過ぎてしまった黄金の時代、二度と還らぬ幸福の時を。


「小さな机の上にお母様の部屋から持ち出した『憐れみの聖母』のイコンを載せて、それを祭壇に見立てていたの。ちょうど太陽を背にするように置くとね、後光が差しているように見えて、それはそれは神々しいお姿だったわ」


 そしてふっ、と力を抜いてわらった。


「それにしても便利な世の中になったこと。居ながらにして世界のどこでも見られるなんて」


 それっきり口をつぐんだナターリャに、


「あの、奥様?」

「ああ、ごめんなさい。ちょっと変なことを考えていたの」

「変なこと?」

「科学の発達で、わたくしたちは何でも見られるようになったのかもしれない。遠い星の上も、物質の原子の一つ一つさえ。けれど、やはり人間は万能ではないのだわ。だってわたくしはもう二度とあの光景を見ることができない。太陽を背にしたイコンの、あの黄金の縁飾り(オクラド)のきらめきを。いいえ」


 うつむいて、


「あのイコンそのものさえ、もはや自由に見ることが出来ない」


 そうか、とまりあはひとり合点した。お体の具合が悪くて、宝物庫へ行くことさえ辛くなっているのだ。だったら、だったら。


「奥様、ちょっと待っていていただけますか」

「まあ、なぁにマーニャ」

「すぐ戻ります」


 そう言って寝室を飛び出す。向かった先は宝物庫だった。


 もし鍵がかかっていたらどうしよう、と一瞬心配したが、ジェミーに案内された時も鍵の開け閉めを見た記憶がなかったから、きっと大丈夫だ、と思う。


 やはり鍵はかかっていなかった。まりあは壁から慎重にイコンを外した。奥様に見せてあげよう、と思ったのだ。聖母マリアのお姿がきっと奥様を癒して下さる。そう思ったのだった。


 エプロンの下にイコンを忍ばせて、まりあは寝室に戻った。


「奥様、お見せしたいものが」

「まあなにかしら」


 まりあはベッドサイドまで行くと、


「これです」


 と、イコンを取り出し、掲げて見せた。きっと喜んでくださる。そう思っていた。


 だが。


 ナターリャは恐ろしい叫び声を上げて、イコンから逃れるようにベッドの反対側へと身をよじった。


「それを、向こうに持っていって、それを、早く(ダワイ)早く(ダワイ)!」


 何が起きているのか理解できないまりあは、イコンを掲げたまま立ち尽くした。と、叫び声を聞きつけたジェミーが部屋に入ってきた。身をよじり、のた打ち回るナターリャとイコンを一瞥する。


「あの、ジェミーさん、わたし」


 だがジェミーはまりあの弁解をいっさい聞かず、つかつかと歩みよるとイコンを取り上げた。そのまま部屋の外へ持っていってしまう。ジェミーはすぐに戻ってきた。


「奥様、奥様、もう大丈夫ですよ」

「おお、おお、ジェミー、あれは、あれはどうしましたか」


 ナターリャはあえぎながらもそう聞いた。


「お部屋にはありません。ご安心ください」


 が、そう聞くと、


「処分してはいけませんよ、ジェミー。あれは大事な大事なお母様の形見なのだから」

「心得ております。宝物庫に戻しておきます。さ、少しおやすみなさいませ」

「ありがとう、ジェミー、ありがとう」


 そしてジェミーはまりあに目配せして、二人は部屋を出た。回廊に設けられていた壁龕(ニッチ)に、あのイコンが置いてあった。ジェミーはそれを手に宝物庫へ向かう。まりあもその後に従った。


 宝物庫の壁にイコンを戻すと、ジェミーは振り返り、まりあを見た。その無表情な顔にまりあは身をすくませた。叱られる、と思った。


「どうしてあんなことをしたのかしら」


 静かな、冷たいとさえ聞える声で問いただす。まりあは膝ががくがくするのを止めることができなかった。


「あの、インターネットで、奥様の昔のお屋敷の跡を見ていて、それで、あの、イコンのお話しになって、もう見られない、とおっしゃったものだから、だから」

「奥様が持って来てと言ったの?」

「いいえ」


 首を振る。


 ジェミーはため息をついた。


「あのイコンが奥様のお母様の形見だという話はしたわよね」

「はい」


 まりあは涙目になってうなずいた。


「確かに大切な思い出の品よ。だからこそ、目にするのがお辛くてらっしゃるのよ」

「え・・・」

「愛しいお母様はもういない。永遠に会えない。だからお母様を思い出させる品を見ることが辛いの。あの方はね、ある意味では現実の世界を生きていないの。幻の世界、美しい思い出の世界にどっぷり浸かって、幻想の過去を生きているの。だから、不用意に過去のつらい現実を思わせる文物に触れると、今みたいに発作を起こしてしまう」


 まりあは口を押さえた。その頬に、ポロリ、ポロリと涙が流れる。


「あなたを責めているのではないわ」


 ジェミーは安心させるように微笑んだ。


「ごめんなさい、私、私、なんてことを」


 とうとう泣き出してしまったまりあを、ジェミーは優しく抱きしめた。


「悪気がなかったことは奥様もよーくわかっていらっしゃるわ。でも」


 と、まりあの背中をさすりながら続けた。


「今日はもう奥様にお会いしない方がいいわ」

「だけど、私」

「奥様のお世話は私がするから。それと、あなたも少し落ち着いた方がいいわね」


 そう言うと、ハンカチでまりあの涙で濡れた顔を拭った。


「今日は一日お休みということにしなさい」



 まりあはメイド服を着たままで自室のベッドに横になっていた。


 先ほどの失敗がまりあの心に重くのしかかっていた。働きはじめて早々にこんな失敗をするなんて。奥様のことを思うと消えてしまいたくなるのだった。


(きっと奥様に嫌われてしまったわ)


 またしてもうっすらと涙が出てきた。


(無神経な、ばかな子だと)


 でもその通りなのだ。まりあはそう思い、胸元をまさぐった。服の布地越しに十字架に触れる。


(どうしよう。お母さん)


 どのくらいそうしていたろうか。


 まりあは何かの気配を感じて身を起こした。


 回廊に続くドアが半ば開いていた。


 薄暗い回廊から、二つの目が覗いていた。


「ひっ」


 一瞬、身をすくませる。その目はまるで猫の目のように光っていた。エメラルドの色の瞳。見覚えがあった。


「奥様?」


 ナターリャの目に似ていた。けれど、奥様が部屋まで来るとも思えなかった。なにより、ドアから覗くその目はかなり低い高さにあった。


 音も無くドアは開いた。


 そこに立っていたのは、ひとりの少女だった。十歳くらいだろうか。


 ウェーブのかかった淡いブラウンの髪。抜けるように白い肌。生き生きとした緑色の瞳が輝いていた。その少女はまるでアンティークドールのような古風なドレスを身に纏っていた。


「何を泣いてるのよ」


 少女は勝気そうな口調でそう聞いた。流暢な日本語が当たり前のようにかわいらしい唇から洩れる。


 まりあはエプロンで涙をふいてベッドに腰掛けた。


「あの、あなたは奥様の?」


 おずおずと問うと、少女は言った。


「レナータ」

「え」

「名のったわよ。私はレナータよ」


 腰に手を当てて、毅然として応える。まるで女王のような威厳があった。


「あの、私は斎藤まりあという」

「知ってるわ。あたらしいメイドでしょ」

「はい」


 まりあは立ち上がり、服の乱れを直した。レナータは薄暗い回廊に立ったままで、


「ではマーニャ、こっちに来なさい」


 と命じた。


「あの?」


 戸惑うまりあに、


「あなたメイドでしょ。用があるから来なさいと言っているの」


 有無を言わさない口調だった。まりあはしかたなく部屋を出た。レナータは、


「湯浴みの準備をなさい」


 と命じた。


「お風呂ですか」

「そうよ。背中を流しなさい」


 そう言うと、浴室に向かってさっさっと歩き出してしまう。まりあはため息をついてその後を追った。


 まりあはレナータに命じられて、ほうろう引きのバスタブに湯を張る。レナータはお湯が溜まるのを待たずに服を脱ぎ始めた。彼女が着ていたのは、今日では見られない大仰なドレスだった。下着もクラシックで、たっぷりのペチコートと、かぼちゃのような下ばきを身に着けていた。


「何を見ているのよ。脱ぐの手伝ってよ」

「はいお嬢様」


 この子がどういう素性で、なぜここに居るのか、それらはわからなかった。けれど、おそらくは奥様の親戚かなにかなのだろうと想像する。結婚はなさったことがない、と聞いていたので、孫ではないだろう。


 すべてを脱ぎ捨てたレナータは、まだ湯が半分も溜まっていないバスタブに身を沈めた。まりあは袖をまくって、少年のように起伏の無いレナータの体を石鹸で洗った。


「ねえ」


 レナータはまりあを見て言った。


「あなたも服を脱ぎなさい」

「え」

「一緒に入ろうっていってるの」

「あの、ちょっと」

「ほらあ、メイドならいいなりになりなさい!」


 そういいながら、まりあの服を脱がそうとする。


「あの、ちょっと、お嬢様?」


 乱暴にブラウスの襟元をつかむ。ボタンがはじけ、胸がはだけた。さして大きくないその胸の上で十字架のペンダントが跳ねた。


「!」


 レナータはびくっと体を震わせて、手を離してまりあに背を向けた。


「お嬢様?」


 まりあは胸元をかき合わせて、


「どうしました、お嬢様」

「なんでもないわ」


 レナータは苦しそうに喘ぎ、


「もういいから出てって」

「あの、でも」

「出てけって言ってるでしょう!」


 かんしゃくを起したレナータに怒鳴りつけられて、まりあはしかたなく浴室を出た。部屋に戻ると、ボタンのとれてしまったブラウスを脱いで、あたらしいものに着替えた。後でボタンを見つけて付け直そう、と思う。


(なんて勝手な子かしら)


 少しだけ腹を立てていたけれど、先ほどまでの沈んだ気持ちすっかり消えていた。



 夕方、ジェミーが部屋に様子を見に来た。


「大丈夫、マーニャ」


「はい」


 まりあは微笑んでそう答えた。その笑顔を見て安堵したらしい。ジェミーは、


「よかった。元気ね」

「はい。おかげさまで」


 あの後、まりあは意味も無く張り切って、部屋の掃除とクローゼットの整理をしたのだ。裁縫セットと予備のボタンも見つけ出していた。ボタンはすでにブラウスに付けてあった。


 ジェミーの話では、奥様はもう落ち着いたそうだった。驚かせてしまったことを謝りたいと言ったそうだ。そう聞いてまりあはかえって恐縮した。


「明日の朝にでもお部屋に行くといいわ」


 ジェミーがそう言ってくれたので、まりあはほっとした。そして気になっていたレナータのことを聞いてみた。


「あー、また出たの、あの子」


 ジェミーは額に手を当ててなんともいえない表情をする。


「このところ大人しくしていると思ったら、まったく」

「あの子、奥様の親戚かなにかですよね」

「まあね。そんなところ。でもね、なんというか、つまり、」

「困った子?」

「そう、それ。いつもいたずらばかりする問題児なの。しかもホテルの他の子達のリーダー格でね。率先して悪さをするのよ」

「他の子?」

「そう。このホテルには他にも何人か長逗留している子がいて、いつの間にかこども同士仲良くなっちゃって。チビッコギャングというの? そんな感じになっているの」

「もしかして」


 まりあには思いあたる節があった。


「ミラーカとかココちゃまとか」

「ああ、あの子たちに会ったのね? そうよ。皆それぞれ事情のある子たちでね。大人たちは気の毒がって大目に見ているのだけど。あんまり甘やかすのもどうかと私は思っているわ」

「事情?」

「そう。たとえばレナータは両親を亡くして一人きりだとか、ミラーカは集団生活に適応できずに不登校だとか、ココちゃまは――まぁ、あの子はいいとして」


 もごもごと口ごもり、


「とにかく悪ガキどもなのよ」


 と言う。


 まりあはそう聞いて、なんとなくレナータたちに親近感を覚えた。確かに変わった子たちだし、不愉快な思いもさせられた。けれど、それぞれの事情を考えれば一概にこどもたちを責められない。


 今度会ったらもう少しあの子たちとお話ししてみたいな、と思ったのだった。


Ⅲ.夜のこどもたち3 に続く

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