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Ⅲ.夜のこどもたち1


 早朝、まりあはひどい気分で目を覚ました。


 恐ろしい夢を見たのだ、と思う。もちろんあれは夢なのだ。血まみれの金髪の少女がレストランで生の心臓を貪り喰うなんてことがあるわけないし、鍵のかかった部屋に侵入する黒い影なんてものも実在するわけがなかった。


(きっと緊張していたのだわ。だからあんな悪夢を)


 けれど、まりあはもう一度鍵を調べた。むろん鍵はきちんと掛けられていた。


 まりあは浴室に行ってシャワーで寝汗を流すとメイド服を着た。ただ、今日は無意識の内に十字架を素肌に身につけていた。


 秘書室に行くと、驚いたことにジェミーはまだパソコンに向かっていた。


「おはようございますジェミーさん」

「おはよ」


 ディスプレイから顔を上げ、手を止めた。見たところ髪も乱れていなければ、肌もつやつやしていた。


「徹夜されたんですか」

「まあね」

「ニューヨーク市場?」

「今の時間はウェリントン・シドニー市場よ」


 そして徹夜明けとは思えないさわやかな笑顔で、


「お稲荷さんのお参りよろしくね。油揚げは一階のリストランテ・カダスの厨房でもらって来てね」

「はい」

「あ、そうそう、朝食ならカフェ・デメテルのモーニングセットがお薦めよ」

「ありがとうございます。お参りを済ませたらそうします」


 まりあはエレベータで階下へと向かった。


 例によって二階のメインロビーで一度止まる。相変わらず一人掛けのソファにはあの不気味な男がいた。ちょうどボーイから朝刊を受け取っているところだった。


 まりあはもうこの男のことは気にしないことに決めた。ホテルの備品かなにかなのだ、と思うことにしたのだ。


 一階に着くと、まりあは西側の回廊に足を向けた。


 バックヤードからリストランテ・カダスの厨房に行く。コックの一人に声を掛けると、その男性は無表情にまりあを見つめた。


「あの、昨日から七階で働いています、メイドのまりあと言います」


 コックはうなずき、無言で奥に引っ込んだ。すぐにトレイに皿を載せて戻ってくる。皿の上には一枚の油揚げがあった。


「皿ごと取り替えて、持ってきて。ここに置いておけばいいから」


 ぼそぼそと最低限のことだけ話すと、コックはトレイをまりあに渡して引っ込んでしまう。まりあはなんとなく疎外感を感じた。どうもこのホテルの従業員たちは愛想があまり良くないらしい。


 それとも、お客様に対しては違うのだろうか。ひょっとすると新参者には冷たいのかも。まりあはそんなことを考ながら厨房を後にした。


 エレベータで秘書室に戻ると、ジェミーは居なかった。食事だろうか。そう思いながら、まりあは急階段、そしてらせん階段を経て社へと向かう。その一連の行動は何らかの儀式のような気がした。


 そして社で、空になった皿と、持ってきた油揚げの乗った皿を交換する。お参りをして戻ろうとして、あることに気付いた。


 昨日はお供えの皿の上に確かに油揚げが載っていた。けれど今朝はなくなっている。ではいったい誰が持っていったのか。そして今朝の油揚げ。これは明日の朝にはどうなっているのか。


「まさかね」


 まりあはつぶやき、なんとなく釈然としないまま塔を後にした。



 トレイと皿を厨房に返すと、まりあは東側の回廊に向かった。《カフェ・デメテル》と金文字で標された木のプレートが掲げられたガラスのドアを押し開く。


 店内は朝だというのに薄暗かった。それは照明がごく弱いためと、窓に幾重にもレースのカーテンがひかれ、夏の日差しを遮っていたからだった。


 内装は床も壁も濃いブラウンの木で出来ていた。床は細長い板を組み合わせて独特のパターンを描いていた。店の片側は湾曲したカウンター席になっており、カウンター自体も木製だった。テーブル席も椅子も同じ素材だった。


 よく見ると、それらの表面には幾何学文様が浮き彫りにされていた。たわわに実った稲穂を模しているようだ。そしてカウンターと壁面、そしてテーブルの側面にも真鍮製の手すりが付けられており、磨き抜かれた鈍い輝きを放っていた。


 カウンターの内側にはチョッキを着て蝶ネクタイをつけたマスターらしい男性がいた。テーブル席の方にはトレイを胸に抱えたウェイトレスが立っていた。お客は誰もいなかった。


「いらっしゃいませ」


 静かな声に迎えられる。まりあは最も窓寄りのテーブルについた。そこが一番明るかったからだ。ウェイトレスにホットケーキとコーヒーのセットを注文する。


 レースのカーテン越しに外を見た。


 山下公園の木々の緑越しに、横浜港とその向こう側の大黒町の火力発電所の高い煙突が見える。左手には永久係留されている貨客船氷川丸の黒い優美な船体があった。子供の頃はよくお父さんと山下公園に来たっけ、と懐かしく思い出す。そして氷川丸のレストランでカレーライスを食べるのが楽しみだったのだ。


 ホットケーキセットが来ると、まりあはパンケーキの上にたっぷりとバターを載せ、その上からとろとろと蜂蜜をたらした。バターが見る見る融けて黄金色の蜂蜜と混じってゆく。


 ナイフで切り分け、最初の一切れに蜂蜜を絡めて、さあ一口、と思った時だった。


 まりあは何者かの視線を感じてフォークを持つ手を止めた。


 テーブルの向こう側に小さな顔が見えた。黒い髪を禿に切りそろえた、日本人形のようなかわいらしい顔立ちの少女。六歳くらいだろうか。昨日のミラーカよりも三つ四つ年下に見えた。その子はテーブルの縁に両手を掛け、頭だけを出して、ホットケーキを一心に見つめていた。


 まりあはしばらくそのままの姿勢で動きを止めた。ややしてフォークを動かし、食べようと口を開く。すると少女は身を乗り出し、まるで自分も食べるかのように口を開けた。


 まりあは口を閉じ、フォークを置いた。少女も口を閉じ、元の体勢に戻った。


 もう一度フォークを取り、口を開ける。少女も同じように口を開け、身を乗り出した。


 まりあは耐え切れず、ぷっ、と笑った。そしてフォークを少女の方に向け、


「食べる?」


 と訊いた。


 黒髪の少女は瞳を輝かせ、


「おお、わらわに供物を捧げるか。よい心がけじゃ」


 と、かわいらしい声で答えると、ひょいっと頭をひっこめた。次に頭が現れたのはまりあのすぐ目の前だった。いつのまにか少女はまりあの膝の上にちょこんと座っていたのだ。


「さ、早よう、早よう」


 小さな手足をばたつかせてねだる。まりあがパンケーキの一切れを少女の口に持ってゆくと、自分からぱくりと食いついた。


 口元を蜂蜜だらけにした少女は、


「甘や、甘や」


 と、はしゃいでいる。


「油揚げも良いが、たまにはケーキも良いのう」

「油揚げ?」


 まりあが首をかしげながらナフキンで少女の口元を拭ってやると、


「うむ、大儀じゃ」


 と偉そうに言う。


「えーと、君は誰かな」


 膝の上の少女を抱っこして、ずり落ちないように深く掛けさせる。よく見ると、少女は白い小袖に朱の袴を身に纏っていた。


「なんじゃ、名を知りたくば、まず自ら名乗るものじゃ。近頃の若いもんは礼儀を知らぬと見ゆる」


 少女はまたしても偉そうにのたまった。


「ごめんなさい。わたしは斎藤まりあ。あなたは」


「ココと呼ぶがよいぞ」


 と少女は答えた。


「ココ?」

「うむ。苦しゅうない。ココちゃん、とか、ココちゃま、でも構わぬ。わらわは一向に気にせぬぞ」

「じゃ、ココちゃま、お腹がすいていたの?」

「うむ。わらわは常に腹をすかせておるぞよ。供物はいつでも大歓迎じゃ。カムカムエブリボディ、じゃよ」


 まりあは軽く眉をしかめた。


「訳わかんないわ、この子」

「ふん、まあよい。さて娘よ、汝には馳走になった礼に、何か恩返しをせねばなるまいて」

「はあ」

「遠慮せず、食べながら話すがよいぞ。汝の朝餉を平らげてしまうほど、わらわは口がいやしくないゆえ。半分で十分じゃ」

「・・・十分いやしい気が」 

「なんぞ言うたか」

「いえいえ。はい、ココちゃま、あーん」

「あーん」


 また一切れパンケーキを食べる。まりあはココが口をもぐもぐさせている間に、自分も一切れ口にした。


「おお、さすがに国産小麦と蜂蜜は美味じゃのう。むろん、適切に調理されておれば輸入小麦とカナダ産メイプルシロップでも良いぞよ」


 恩返しとはグルメ談義だろうか、とまりあは思った。


「うむ、では良い事を教えてしんぜよう。ここなカフェーな」


 と言いかけたが、思い直したように、


「見ていてなにか気づかぬか」


 と問うた。


 教えてくれるんじゃなかったのかしら、と思いながらも、まりあは店内を見回した。


 カウンターの向こう側にはマスターがいて、グラスを磨いたりコーヒーの用意をしたりと忙しく立ち回っていた。対照的にウェイトレスはトレイを抱えて、ぼんやりと入り口の方を見ていた。二人ともテーブル席には何の関心も無いようだった。


「別に。普通の喫茶店みたいだけど」


 そう聞くと、ココは得意そうに笑った。


「ふふん、気付かぬか。無理もない。ではヒントじゃ。カウンターの向こう側の壁にはなにがある?」


 まりあは忙しそうに動いているマスターの背後の壁を見た。何かが貼ってあった。地図のようだった。だが奇妙なことに陸地の部分には何も描かれていなかった。


「海図?」


「うむ、多少はものを知っておるようじゃな」


 それは航海用の海図だった。普通は船に備えられているものだ。まりあは、はっとして店内をもう一度見回した。


 チーク材の床、そしてカウンターと壁に取り付けられた真鍮製の手すり。こどもの頃、これに似たものを見た覚えがあった。どこで? 氷川丸の中で。


「船だわ」


 まりあは小さく叫んだ。


「そうじゃ。このカフェ・デメテルはな、解体された貨客船デメテル号の内装材を再使用しておるのじゃ」


 そう思って見ると、店内には船に縁のものがいくつも飾られていた。天井の照明は航海用のランタンを電灯に改造したものだった。壁には救命浮き輪が掛けられ、壁時計も丸い舷窓を模していた。そして極めつけは店内の飾り棚に置かれた船の模型だった。


 まりあの視線に気付いてココは言った。


「そうじゃ。それがデメテル号じゃ。ギリシア神話の穀物の母、豊穣の女神の名を持つ船じゃった」


 それは黒い船体の優美な船だった。どことなく氷川丸に似ているような気がした。


 ココは昔を懐かしむように、


「ほんに美しい船であったよ。残念なことに関東大震災で座礁してな。ここ横浜で解体されたのじゃ。じゃが、その美しさと、そして思い出を惜しんだナターリャ婆の父上によって、この『オリエンタル・エンパイア・ホテル』の一角にカフェーとして蘇ったのじゃ」


 まりあは膝の上のココを見た。


「あなたナターリャ奥様をご存知なの」


「知っておるとも。ナターリャ婆とは長い付き合いじゃ。婆とその父母がおろしやから革命の嵐を逃れてデメテル号で横浜に来た時からのな」

「デメテル号で?」

「うむ。かの船はグレインマザー商会の持ち船じゃったのよ。委細は知らぬ。じゃが、そんな縁もあって、このホテルと商会とは今でも協力関係にあるのじゃ」


 まりあはまじまじとココを見た。ココは体を仰け反らせて、頭の上のまりあの顔を見ていた。


「ココちゃまって幾つなの?」

「さぁて。七、八百歳くらいであったかの」


 まりあはため息をついた。


「またそんなことを」

「信じておらぬな」


 ココはかるくまりあを睨んだ。


 その真剣な表情に、まりあは察しをつけた。きっとこの子は、そう思いこむことで何かから逃れたいのだ。なにか辛いことがあったに違いない。まりあそう思い。膝の上の少女を抱きしめた。


「これ、もそっと力を抜きや。苦しゅうてかなわぬ」

「ごめんなさい」


 まりあは腕を緩め、いたわるように笑った。ココは不機嫌そうな顔で、


「まったく、これだから若い娘というのは困る。自分の信じたいことしか信じようとせぬ」


 などとぶつぶつとつぶやいた。


「ところでココちゃま、ココちゃまはどうしてこんなところに一人でいるの?」


 宿泊客なのだろうか。


「うむ。わらわはここに()んでおるでな」

「住んでるの?」


 親がホテルに住み込みで働いているのだろうか。


「お父さんとお母さんは?」

「うむ、眷属は多いがの、親はおらぬ」


 そしてするりとまりあの膝から降りる。


「さて、娘、まりあとやら」


 ある種の威厳を感じさせる口調でココは言った。


「馳走になった。礼にもうひとつ言うてやろう」


 ココは真面目な顔で続けた。


「このホテルには気を許すでないぞ。ここなホテルは伏魔殿ぞ」

「伏魔殿・・・」

「うむ。契約があるでの、わらわもこれ以上のことは言えぬ。じゃがみすみす見殺しにするのも忍びない。西洋の弥勒菩薩(マイトレーヤ)の名を持つ乙女よ。ゆめ、わらわの言葉を忘れるなかれ」


 そして、ふわりと身を翻して走り去る。一瞬、少女の頭に獣の耳を、お尻にふさふさとした金色の尻尾を見たような気がした。


「・・・なんだったんだろう、あの子」


 まりあは呆然としていた。皿をみると、いつの間にかパンケーキは一つも残っていなかった。


「口がいやしい子だということだけはわかったわ」


 まりあはそうつぶやき、ホットケーキをもう一皿注文したのだった。


Ⅲ.夜のこどもたち2 に続く

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