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Ⅱ.十字架の乙女3


 まりあの乗ったエレベータが一階に着き、扉が開く。


 そこには大きな荷物を持った一組の男女がいた。


「木村写真館の木村世忍(よしのぶ)です」


 男性がそう名乗って優しい目でまりあを見た。面長で色白の顔に穏やかな表情を浮かべていた。どこか貴族的な風貌で、老成した青年のようにも、若作りの壮年男性のようにも見えた。中肉中背で柔らかな色合いのジャケットを着ていた。


「奥様がお待ちかねです。どうぞエレベータに」


 まりあが扉を押さえている間に、木村と名乗った男性ともう一人の女性が荷物をエレベータに載せた。


 例によって二階で一度止まる。


 あの外套の男が新聞から顔を上げた。意外なことに軽く会釈する。まりあは木村が微かにうなずいているのを見た。知り合いなのだろうか。


 ドアが閉じ、再びエレベータが動き出すと、まりあは自分を見つめている視線に気付いた。 それは木村の隣で大きなバックを持っている若い女性のものだった


 二十歳くらいだろうか。おかっぱ頭で目が大きく、快活そうな表情をしていた。まりあと視線が合うと、その女性は、


「ね、あなた新しいメイド? ジェミーはどうしちゃったの?」


 と尋ねて来た。


「申し遅れました、今日からこちらで働かせていただいております。まりあと申します。ジェミーはただいま奥様のご用を申し付かっております」


「あ、そうなんだ。どこの子? 地元?」

「こらこら」


 木村は苦笑して、


「あんまり根堀り葉堀り聞くものじゃないよ、たまき」

「だってぇー、かわいい子なんだもん」


 と口を尖らせる。こどもみたいなところがあるけれど、愛嬌があるので少しも嫌味がなかった。


 たまきと呼ばれた女性は淡いピンクのノースリーブに白いパンツを身に着け、スニーカーを履いていた。動きやすそうなスタイルだった。


「遊びに来たんじゃないぞ。今日のお前はアシスタントなんだから」

「わかってますよぉ先生」


 そして悪びれもせずにまりあに向かって、


「ごめんなさいねー。そっかー、ジェミーの後輩かー。でも妬けるなー。こーんなかわいい子が後輩だなんて。あたしならお着替えさせて楽しく遊ぶのになー」

「え」


 なんなのこのひと。発想がジェミーさんに似ている、と思った。


「いーなー。そうだ、木村パパ、あたしもアシスタントの同僚が欲しい」

「誰がパパか。先生と呼びなさい。それと、アシスタントは一人いれば十分です」

「えー、あたし寂しーい」


 木村は額に手を当てて、


「すまないねまりあさん。この子の妙なノリにはついてこなくていいから」

「はあ」

「この子は・・・そう、遠縁の親戚なのだけどね」


 と木村は説明した。


「私が保護者として面倒を見ているのだよ。普段は何もしないでゴロゴロしているのだがね。今日はなかよしのジェミーに会いたいと言うので、手伝いを口実にくっついて来たのだよ」

「ひどーい、まるであたしがオマケみたいじゃない」

「みたいじゃない。じっさいオマケだろうに」


 そんな幕間狂言の後、まりあは二人を寝室に通した。ナターリャはベッドの上で半身を起こしていた。先ほどまでの興奮と虚脱の痕は見えなかった。その傍らにはジェミーが女王に仕える忠臣のごとく、威厳のあるつんとした表情で控えていた。どうやらこの部屋はいわば「謁見の間」の役割があるらしい。


「お久しゅうございます、奥様」


 部屋に入ると、木村とたまきは一揖した。


「またお願いしますわ木村さん。それとたまきちゃんも」


 たまきは人懐っこそうな笑顔をナターリャに向けた。そして視線をずらし、ジェミーを見て小さく手を振った。ジェミーも一瞬笑い、腰の辺りで小さく手を振り返した。


「撮影はこちらでなさいますか。それともどこか他の場所で?」

「ここで撮って頂戴。あなたの見事な仕事振りを見ていたいわ」

「恐れ入ります。ではこちらのまりあ嬢のポートレートということでよろしいですね」

「ええ。かわいく撮ってあげて」

「心得ております」


 木村はてきぱきと撮影の準備を始めた。ブローニーフィルム用の中版カメラを三脚に据える。たまきもスタンドを立て、ライトのセッティングに余念がなかった。


 まりあはタペストリーを背に椅子に座らされ、化粧道具一式を持って来たジェミーにメイクしてもらっていた。


 ふだんリップクリーム程度しか使ったことの無いまりあは、どきどきしながらジェミーのなすがままになっていた。


「やっぱりナチュラルな方がいいわね」


 ジェミーはつぶやき、ごく薄くファンデーションを使った。


「リップはこの色かしら」


 と、やはりごく控えめなピンクを選ぶ。


「はぁい、ジェミー。どんなカンジ?」


 ライトのセットを終えたたまきが近づいてきて声をかけた。


「はぁい、たまき。いいカンジよ。ほうら」

「かわいいー。いいなあ、あたしもこんな後輩がほしいわ」

「あげないわよ」

「けちぃ」


 軽口を叩き合う二人。まりあは、ジェミーの手が止まるのを待って口を開いた。


「あの、お二人はお友達なんですね」


「いいえ」とジェミー。


「そうよ」とたまき。


 同時に異なる答えを聞いて、まりあは目をしろくろさせた。


「ちょっとジェミー、なによぉ、あたしたち親友じゃない」


 抗議の声を上げるたまきに、


「たまき、私たちは姉妹でしょう」


 とジェミーが答えた。


「姉妹? あーあー、そういう意味? そうよあたしたち姉妹なの」


 そう言い直すたまきに、


「仲の良い姉妹よ」


 とジェミーが補足した。


 まりあはますます混乱して二人を見比べた。二人の背格好はほぼ同じだったとはいえ、ジェミーは金髪碧眼で欧米人(オクシデンタル)にしか見えなかったし、たまきも黒い髪に黒い瞳のアジア人にしか見えなかった。


「ほら、これが証拠よ」


 と、ジェミーはサイドテーブルの上の写真立ての中から一つを持って来た。そこには、頬を寄せて、手をつないだジェミーとたまきが写っていた。鏡をイメージしたらしく、二人で左右対称のポーズを取っていた。


 要するにお互いを《姉妹》と思うくらいに仲が良いということらしい、とまりあは理解した。そういえば学校にも、姉妹ごっこをしている友達がいたことを思い出した。


「さあさあお嬢さん方、準備はよろしいですかな」


 木村カメラマンが声をかける。


「メイク、OKです」

「ライト、シンクロ済みです」


 ジェミーとたまきはリズミカルに答え、息の合ったところを見せた。


「ではポラで試し撮りをします」


 まりあは姿勢を正して、椅子に掛け直した。


「肩の力を抜いて、視線はこちらに。そう、手は膝の上に」


 パシャッ、と小気味良い音を立ててシャッターが落ちる。木村はカメラからフィルムを抜き取って、両手で挟んで暖めた。ややしてぺりぺりとシートをはがす。試し撮りしたポラロイド写真はジェミーの手を経てナターリャの元へ。


「けっこうですわ」


 そう聞いて、木村はうなずいた。


「では本番です。あ、ジェミーさん、前髪を直してあげて」

「はい」


 ジェミーは櫛でまりあの髪を整えると、襟や裾をかるく引っ張った。


「ではまりあさん、いち足すいちは?」


 まりあが答える前に、たまきが、


「にー」


 と答えた。口を大きく横に開いて、歯をむき出しにしていた。その表情と言い方がおもしろくて、まりあは思わず笑ってしまった。


 タイミングを外さずにシャッターを切る木村カメラマン。こうして撮影ははじまったのだった。


 ポートレートの撮影の後は、ジェミーとのツーショットや、たまきも乱入しての記念写真ともいえないスナップショップを何十枚と撮った。


 撮影の間中、まりあは不思議な感覚を味わっていた。携帯電話のカメラで気軽に撮るのとは訳が違う。一枚一枚にたっぷりと時間と手間をかけた贅沢な撮影。


 パシャッ。


 その音はなんだか催眠術のようにまりあの耳に心地よく響いた。昔の人がカメラに魂を吸い取られると思いこんだのも無理はない、と思う。


 ナターリャも上機嫌で、まりあたちの様子を見ていた。女の子たちがじゃれあったり、ふざけて笑いあったりするのを見るのがことのほかお気に入りらしい。優しい、にこやかな笑みを浮かべていた。


 けれど、まりあが奥様と一緒に写真を撮って欲しい、と言った時だけは違った。


 その時、ナターリャだけではなく、ジェミーもたまきも、木村までもが一瞬動きを止めた。なんとなく気まずい空気を感じて、まりあは自分が失言したことを悟った。自らの姿を見ないために鏡を置かせないくらいなのだ。写真などもってのほかのはずだった。


「ほほほ、わたくしのようなお婆ちゃんを撮ってもしかたないでしょう」


 しかし、表面上は朗らかにナターリャは言った。


「それにね、わたくしの写真はここにあるこれだけで十分なの」


 と、サイドテーブルの上の写真立ての一つを指差す。そこには、どこかの庭園で花に囲まれている幼い少女の写真があった。


「ひとは自らがもっとも美しい時の姿を残しておきたいと願うもの。この写真はね、まだわたくしが何の憂いもなくイリンスコエの屋敷で暮らしていた頃のものなの。わたくしにはこの一枚で十分だわ」


 撮影が終わったのは夕方近くだった。まりあは機材の片付けを手伝った後、ナターリャに言われて、木村とたまきを一階まで見送った。


 エレベータの中で、たまきははしゃぎながら、


「今日は楽しかったなあ。ね、まりあさん、また遊びましょうね」

「こら」


 木村がすかさずたしなめた。


「遊びに来たのではないのだぞ、たま坊。お仕事だ、お仕事」


 たまきは不満げに頬を膨らませて、


「もう、たま坊はやめてくださいよ。わたしのことをそんな風に呼ぶんなら、先生のこともおじさま、て呼びますわよ」

「うーん、それはそれで捨てがたいな」

「先生のえっち!」

「なぜそうなる」


 まりあはそんな二人の会話を聞いて、こらえきれずにクスクスと笑い出してしまった。


「あー、まりあさんったらひどいなー。笑わないでよぉ」

「ごめんなさい、つい」


 エレベータが二階で止まる。


 あの男は新聞から顔を上げ、木村と目礼を交わした。やはり二人は知り合いなのだ、とまりあは確信した。ホテルとその周囲には、まりあの知らない人間関係があるようだった。


 木村写真館の二人をお見送りすると、まりあは七階に戻った。が、秘書室で彼女を待っていたジェミーは、にこやかに笑ってこう言った。


「今日はごくろうさま。初日で疲れたでしょう。もう上がっていいわよ」


 まりあは戸惑って、


「あの、でも私、今日はまだ仕事らしいことは何も」

「いえいえ、今日は馴れるのがお仕事よ。奥様のこととか、いろいろ呑み込めてきたでしょう」

「ええ。なんとなくですけど」

「十分よ」


 そして、下で夕食を済ませてくるといい、と勧められた。ジェミーさんは、と問うと、


「わたしはまだ秘書の仕事があるから」


 とデスクのパソコンに向かった。


 まりあは一人で一階に降りると、どうしようかな、と少し悩んだ。どんな料理を頼んでも良いと言われても戸惑ってしまう。いっそ外に出てコンビニにお弁当を買いに行こうか、と思ったけれど、メイドの格好で外に出ることには抵抗があった。


(知り合いに見られたら恥ずかしいし)


 そんなことを考えていた時だった。誰かが彼女の袖を引っ張った。


「Hi!」


 かわいらしい声がそれに続く。


 見ると、昨日エレベータで一緒になった金髪の少女が、まりあの腕にぶら下がっていた。


「え、と、」


 とっさになんと言おうか、と思い口ごもる。だが、少女はまりあの逡巡を吹き飛ばした。


「ねえねえ、あなた七階の新しいメイドでしょ」


 きれいな日本語だった。


「はい、そうですよお嬢さま」


 戸惑いながら答える。


「お嬢さまだって」


 少女は楽しげに笑いながら、


「ね、あなた今ひま? なにかご用をいいつけられている?」


 と聞いてきた。まりあがいいえ、と答えると、


「よかった。ならあなた、私に付き合いなさい」

「は?」

「今夜はお母さまがお出かけで、一人でお食事しなきゃならないの。でも、レディが一人でお食事なんて寂しいじゃない?」

「はあ」


 そんなものなのかな、とまりあは思った。


「だからあなた、私と一緒にテーブルについてもらうわ。お嬢様とお付きのメイド、という設定よ」

「設定って」

「いいから来て」


 訳もわからず、まりあは少女に引きずられるように、ホテルの西側にあるリストランテ・カダスに連れ込まれた。店内は水の流れをモチーフにした流線型の装飾で飾られており、そこここに図案化された果物の浮き彫りが散りばめられていた。


 黒服のボーイ(前日に通用口を開けてくれた若い陰気な男だとまりあは気付いた)に案内され、奥まった席についた。柱と観葉植物に囲まれたその一角は他の客からの視線から遮られていた。


 少女はだらしなく椅子に浅く掛けた。そして、対照的に背筋をのばしてきちんと座っているまりあをちらちら見ながらボーイと言葉を交わしていた。


 まりあがぼんやりしていると、オーダーを済ませた少女が、


「あなたも同じでいいわね」


 と聞いてきた。


 まりあは思わず「はい」と答えた。少女はボーイを下がらせると、


「ところであなた名前は?」


 小首を傾げて聞く。


「・・・斎藤まりあ」

「ふうん」


 少女は舐めるような無遠慮な視線でじろじろとまりあを見た。


「なんだか貧相ね」


 まりあはさすがにカチンとしたけれど、相手は幼いこどもなのだ、と思い、微笑んで見せた。


「難しい言葉を知っているのね」

「まぁね。日本も長いから」


 何が楽しいのか、まりあを見ながらくすくすと笑う。人を小ばかにしたような笑みだった。


「ところで」


 まりあは気を取り直して、


「あなたのお名前も教えて」


 少女は目を細めて、


「なあに、わたしの名前が知りたいの」


 と言う。


「ええ」


 短く答えるまりあに、少女はやはり短くこう言った。


「ミラーカ」


 その名を聞いた時、まりあは何かしらぞくっとするものを背中に感じた。どこか異様で不思議な響きの名前だと思った。


 少女――ミラーカは自らの金色の髪のひと房を指で弄んでいた。真っ赤な唇でその髪を噛み、舌でチロチロと舐める。


「お行儀が悪いわ」


 まりあがそう言うと、ミラーカはますます目を細めて、


「いいじゃない、そんなこと」

「いいえ」


 まりあは毅然として、


「お嬢様とお付きのメイド、という設定なんでしょ。『お嬢様、お行儀よくなさいませ。そんなことでは立派なレディになれませんわよ』」


 ミラーカはおもしろそうにわらった。居住まいを正して椅子に座り直す。


「『わかったわミス・マリア。ほんとにうるさいんだから』」


 ふたりはくすくすと笑いあった。歳も、国籍も異なるふたりの少女はこの短いごっこ遊びで心を通わせたようだった。


 ミラーカは欧州の出身で、両親の仕事の都合で日本に来たのだという。肌が弱く、夏休みの間はホテルに長逗留して夏の日差しを避けるのだという。今は母親と二人で泊まっているのだそうだ。


「わたし太陽なんてきらい」


 と少女は言うのだった。


「だってすぐに火ぶくれになっちゃうんですもの」


 どうやらそれもあって甘やかされ、我が儘に育ってしまったのだろう。まりあはそう思った。


 まりあも自らのことを話した。女子校に通っていること、このアルバイトをするきっかけについても。グレインマザー商会の話をすると、ミラーカはこう言った。


「なんだ、お父様の勤めてる会社じゃない」

「そうなの?」

「ええ。じゃああなたも《関係者》だったのね」

「関係者? 何の」

「年次総会のよ」

 

 なんでも、週末にこのホテルでグループ企業の年次総会が開かれるらしい。だから今現在、ここの逗留客のほとんどがその関係者なのだという。


「それは知らなかったわ」

「そうなんだ。ま、いいけど」


 そんな話をしていると、オーダーされた料理が運ばれてきた。保温用のふたを被せた皿がまりあとミラーカの前に並べられる。


 そういえば何を頼んだのだろう。まりあがそう思っていると、ボーイがふたを取り去った。


「え・・・」


 これはなんだろう。


 温野菜の添えられたそれは、肉の塊に見えた。ほんど生らしい。それはプルプルと振るえ、間歇的に痙攣するように動いていた。


 こぶし大の、脈動する心臓。


 切断された血管からは、鼓動の度にぴゅっ、ぴゅっと血が噴出していた。


「まあおいしそう」


 ミラーカはそう言って、ナフキンを胸元に差した。レディらしいしぐさはそこまでだった。生きている心臓を鷲づかみにして、かわいらしい唇でかぶりつく。鮮血が少女の白い指を染め、口元も真っ赤になった。加えて、血管から吹き出る血が頬といわず額といわず少女の顔を汚す。


 まりあは声を失ってその凄惨な光景に見入っていた。悲鳴を上げるか気を失うか、どちらかしかありえない状況で、しかしどちらも出来ずにいた。


「料理はお気に召しましたか」


 という声が背後から聞こえた。椅子の背もたれ越しに振りかえると、白い調理服と背の高い帽子を被った痩せた女性が立っていた。彫りの深い顔立ちで、鼻のまわりにはそばかすが見える。帽子から覗く髪は炎のように赤い巻き毛だった。


「おいしいわよ、モーラ」


 口元にだらだらと血を滴らせてミラーカはわらった。地獄の獄卒もかくやという恐ろしげな笑みだった。


「ありがとうございます。ちょうどいい出物がありまして。ええ、横浜線で」

「あら。鉄道事故?」

「自殺だそうですよ。しかも立て続けに二件」

「まあ、ならちょうどいいわね。自殺者の魂は永遠に地獄をさまようと言うし」


 まりあはその会話を聞いて、ひっ、と息を呑んだ。そのまま呼吸ができなくなる。青い顔でがくがくと痙攣しているまりあを見て、モーラはいぶかしげに、


「お嬢様、このメイドは?」

「七階のあたらしいメイドだって」

「ああ、それで」


 モーラはそう言うと、そっとまりあの肩に触れた。


 とたんに、まりあの中から恐怖心が消えた。皿の上で脈動する心臓のおぞましさも、それをあさましく貪るミラーカの姿も、ごく当たり前のように思える。


(そうよ、なにを驚いていたのかしら。今までだって、豚の死肉や、さかなの死体を解体したものを生で食べていたんだもの。血の滴るローストビーフだってめずらしくないし、焼き鳥にだって心臓の串刺しがあるじゃない)


 そう考えると、ついさっきまで怖がっていた自分が、むしろ滑稽に思えるのだった。


「お気に召しませんか」


 モーラがそう訊ねる。まりあは微笑んで、


「そうではないんです。ただ、ちょっとびっくりしただけで」


 そう言ってナイフとフォークを手にする。が、どうしても手が出ない。


「無理をなさらなくても」


 モーラはやさしくそう言うと、ボーイを呼んで皿を下げさせた。


「今日はレアのビーフ・ステークスにしましょうね。これから馴れて行けばいのですから」

「ありがとうございます、あの、ええと」

「モーラと呼んで。ここの料理長をしています」


 そう言って笑うと、モーラはミラーカの方を向いて唇を動かした。声は聞こえなかった。


(悪趣味ですわよ。普通の人間と知っていてオーダーされましたね)


 ミラーカも声無き声でそれに応じた。


(いいじゃない。どうせこの娘も・・・)

(あまりおいたが過ぎると、またナターリャさまに叱られますよ)

(構うもんですか)


 ミラーカは挑発的にわらい、モーラはやれやれと首をふった。


 その後、まりあは自分が何を食べ、何を話しているのかわからなくなった。まるで夢の中にいるような、ふわふわと体が浮いているような感覚。自分がミラーカと食事をとりながら談笑しているのは理解していた。だが、一体何を話題にしているのか。


「美味しいのは心臓、心臓なの」

「そうなんですかお嬢様」

「ええそう。本当は生きたまま、胸に直接くちばしを突っ込むのがいいんだけどね」


 と残念そうに言う。


「人間の断末魔の叫びほど耳に心地良い音楽はないわ」

「そうなんですかお嬢様」

「そうよ。今度聞かせてあげるわ。あなたのすぐ耳元で、あなた自身の声で」

「まあ、それは楽しみですわ」


 そう聞くと、ミラーカはひいひい声を上げて笑い出した。慎みのない、底意地の悪い笑いだった。


 食事を終えると、まりあは血で汚れたミラーカの顔を拭ってあげた。用意されたフィンガーボウルの水はすぐに真っ赤になった。


 どうにか血をふき取ると、まりあは少女を五階の部屋まで送っていった。


「今日は楽しかったわ。また遊んでね?」

「ええ。もちろん」


 にっこりと笑って答える。だが、まりあはなぜか自分が小刻みに震えていることに気付いた。目の前にいるのはかわいらしい金髪の少女なのに。なぜ自分は怯えているのか。そう思うのだった。


 まりあが秘書室に戻ると、ジェミーはデスクトップのパソコンに向かってなにやらキーを叩いていた。何をしているのですか、と訊くと、


「オンライントレード。ニューヨーク市場よ」

「メイドって、そんなことまでするんですか」

「今のわたしは秘書よ。いえ、ファンドマネージャーかしら」


 話しながらも視線はディスプレイに向けたままで、指は超絶技巧のピアニストのごとくキーボードの上を舞っていた。忙しそうだったので、まりあはそれ以上話しかけずに、浅い窓龕になっている窓枠に腰掛けて携帯電話のメールチェックをした。何人かの親しい友達からのメールが着ていた。


 まりあは、なかば無意識に返信のメールを打った。このホテルで経験したあれやこれやを報告しようと思ったのだが、なぜか彼女の指はそれを裏切り、あたりさわりのない話題ばかりを打ち込んでいた。


 夜も更けてきた頃だった。


「マーニャ、もうベッドにお行きなさいな」


 ジェミーは相変わらずディスプレイに顔を向けたまま言った。


「初日ですものね。今日は早めに寝て疲れを取った方がいいわ」

「そうですね。あの、それじゃわたしお先に休ませていただきます」

「Have a nice dream. Good Night.」


 頭の中がニューヨーク・モードになっているらしいジェミーを残して、あてがわれた部屋に戻った。その後、着替えを持って浴室に行く。浴室はタイル張りの大きな部屋で、手前にはシャワーが、奥にはクラシックなほうろう引きのバスタブが置いてあった。


 まりあはシャワーを浴びて、ついでに下着も洗った。ジェミーからは洗濯はホテルのスタッフに任せれば良い、と言われたけれど、最低限度のことは自分でやりたかったのだ。


 部屋に戻り、用意されていた薄物を纏う。胸元が大きく開いた無駄にフリルやレースのついたネグリジェだった。


(なんかスースーする)


 胸元に余裕がありすぎて、少しだけ悲しい気持ちになった。せめてジェミーさんくらいあれば、と切実に思った。


 まりあは念のために戸締りを確認した。窓は回転式のクレセント鍵、回廊に通ずるドアはシリンダー鍵になっていた。合鍵があれば外から開けられる構造だったが、まりあは別に気にしなかった。


 そもそもエレベータのカードがなければここまで入ってこれないのだ。外部からの侵入者など考えられなかった。それでも用心のために鍵はかけた。


 まりあがベッドに入ったのは深夜一時に近かった。


 ほんとうは持ち込んだ夏休みの宿題をやってから寝ようと思っていたのだが、さすがにその気力はなかった。ベッドに入ったまりあは、慣れない環境のせいか気持ちが高ぶってしまい、なかなか寝付かれなかった。それとも夕食のせいだろうか。なにか悪いものを食べたのかしら。


 と、あることを思い出す。起き上がり、バッグから十字架のペンダントを取り出して首にかけた。そして十字架にそっと唇を寄せる。


(おやすみなさいお母さん)


 やはりエアコンが効き過ぎているらしい。肌寒さを感じたまりあは羽布団にくるまった。胸元の十字架は、最初はひんやりしていたけれど、すぐに体温と同じ温かさになった。その感触が彼女の高ぶった神経を落ち着かせた。まぶたを閉じると、すぐに眠りの国へと堕ちていった。


 それは何時頃だったろうか。


 ふいにまりあは、なにか名状しがたい気配に目を開いた。けれど、自分がまだ眠っているのか、起きているのかわからなかった。


 部屋の中に誰かいる。


 それは明瞭な気配だった。その誰かは、まりあのベッド向かって、じりじりとにじり寄っているようだった。


 闇を透かして見えるのは人型のシルエットだった。


 頭の部分には赤く輝く二つの光があった。ルビーのように輝く、二つの目。


 やがてその影はベッドまでたどり着いた。そして黒い手がまりあの胸元に近づく。羽布団がそっと取り払われ、白いのどが闇の中に曝された。黒い影は、その頭をぐっと近づけた。


 そのとき、フリルに引っかかっていた十字架がころりとまりあの胸元に転がり出た。とたんに黒い影は仰け反り、まりあの胸元から顔を背けた。


 黒い影は、その赤く輝く瞳で恨めしげに十字架を睨みつけながら、少しづつ少しづつ遠ざかって行き、やがてその気配を消したのだった。


Ⅲ.夜のこどもたち1 に続く

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