Ⅰ.黒衣の貴婦人2
エレベータのドアが開く。
七階は他の階とはまったく異なったつくりになっていた。
そこはエレベータホールと呼ぶにはかなり広い独立した一室だった。床には明るい色の絨毯がひかれ、機能的なデスクとロッカー、金庫、部屋の隅にはファクシミリ・プリンター兼用のコピー機などの事務機器が配されていた。
デスクの上にはパソコンが、しかもデスクトップとノートタイプの二つが置かれていた。
部屋の隅には簡単な流しと、なぜかロシア式湯沸かし器が置かれていた。
壁の一方は大きな窓になっていて、夏の青い空が見えた。蛍光灯のまばゆい光に照らされたそこはホテルの一室と言うよりもどこかの会社のオフィスのようだった。
だが、まりあが驚いたのは部屋のせいではなかった。
ドアの前、部屋の中央にはメイドのなりをした一人の女性が立っていたのだ。二十歳くらいに見えるその女性は肩まである金色の髪にカチューシャを差し、青い瞳はまっすぐに前を見つめ、ふっくらした頬には優しげな笑みを浮かべていた。
すらりとした足が丈の短いスカートから伸び、華奢な手を体の前で重ねて細い腕がやや小ぶりな胸を両側から挟むようにして強調していた。
「いらっしゃいませ」
完璧なイントネーションの日本語がその唇から漏れる。
「ああ、ジェミーさん、この子です。奥様にお取次ぎを」
「はい。伺っております。後はわたくしが」
「では頼みましたよ。さ、まりあさん」
総支配人に背中を軽く押されて、まりあは部屋に入った。背後でエレベータのドアが閉じるのにも気づかなかった。
メイド――ジェミーがなにか言ったようだった。
「はい?」
まりあは思わず聞き返した。
「そんなに硬くならないで、と言ったのよ」
ジェミーは優しく繰り返した。
「ここに初めて来た人はたいていちょっとびっくりするの。だってそうよね、古びたホテルにこんなりっぱな秘書室があるんですものね」
そう言っていたずらっぽく笑う。
(いえ、ジェミーさん)
まりあは心の中で反論した。
(驚いたのはあなたみたいな、絵にかいたようなきれいなメイドさんがいたからです)
ジェミーはまりあに近づくと、その手をとってそっと握った。すべすべした手の感触に、まりあは我知らず赤面した。
「自己紹介するわ。わたしはジェミー・ロバーツ。ジェミーと呼んで。奥様のメイド兼秘書なの。まあ雑用係みたいなものね」
「あの、私は」
「知ってる。斎藤まりあさんね」
「はい」
「あら、よいお返事ね。さてまりあさん」
「はい」
「こちらに。まず簡単に説明するわ」
まりあをデスクの前の椅子に座らせると、自分はそのデスクの上に足を組んでお行儀悪く腰掛ける。白いふとももを目の前にして、まりあは同性ながらドキドキした。
「一九一八年のことなの」
と、不意にジェミーは九十年近く前の暦年を口にした。
「その頃、世界では何があったか知っている?」
「えっと、第一次世界大戦?」
なぜ歴史の話になったのか理解できないままにまりあは答えた。
「近いわね。まったく関係がなくはないわ。あのね、その年のロシアで起きたことよ」
「ロシア革命ですね」
「エクセレント! そうよ。そのときね、革命で国を追われた人たちがたくさんいたの。多くはヨーロッパやアメリカに亡命したわ。そしてその他、国際的な港湾都市とか、貿易の要となった土地にも」
横浜のことを言っているのだ、とまりあは理解した。
「この横浜に奥様が――奥様とそのご両親の三人がロシアからやって来たのもその年なの。もともと貴族の家柄でね。奥様たちは幸運だったわ。ほとんどの亡命者がお金を持たずに着の身着のまま、ほうほうの態で逃げ延びたのに、奥様たちご一家は豪華客船で、家財道具、財産の一切合財を持ち出すことが出来たのだから。そして、このホテルに身を寄せたの。この『オリエンタル・エンパイア・ホテル』に」
まりあは知らず、小さな顎をこくっと上下させてつばを飲み込んだ。なんだか壮大な話になってきた、と緊張したのだ。
ジェミーは話を続けた。
「当時、ここは今と違って煉瓦と木で出来たチューダー様式の建物だったわ・・・だったそうなの。横浜でも有数の豪華ホテルよ。そして、ここを拠点に奥様のお父様は、豊富な財産で事業を始めたの。貿易のコンサルタントみたいなことをやっていたらしいわ。私は詳しく知らないのだけどね。そうそう、あなたの紹介状のグレインマザー商会とはその頃からのお付き合いだそうよ」
まりあに理解する時間を与えるように、しばし口を閉じる。そして続けた。
「その後、関東大震災でホテルにも被害があったの。ああ、完全に倒壊したわけではないのだけどね。で、そのときにホテルの再建を援助したことがきっかけとなって、結局ホテルそのものを買い取ることになったの。そうして昭和のはじめに再建されたのが今のこの建物ね。設計したのは銀座の有名な時計店を設計した人だったそうよ。
しばらくは順風満帆、事業も好調だったのだけど。太平洋戦争の頃はいろいろトラブルがあって、その心労もあって、お父様もお母様も相次いで亡くなってしまわれたの。それで奥様が事業を継いで、今はこのホテルのオーナーと言うわけ。最上階のここは奥様の住居として特別に設計されているのよ。この部屋がエレベータホール兼秘書室。諸々の事務的なお仕事をするスペースなの。私のオフィスでもあるわ。そして」
と、やや芝居がかったしぐさで奥のマホガニーの扉を指し示す。
「あの扉から向こうが奥様のプライベートな空間、というわけ。どう? ここまでで、なにか質問は?」
と小首を傾げ、茶目っ気たっぷりにまりあの瞳を覗きこんだ。
「ええと、なんだかすごいですね」
あまりに自分の日常とかけ離れた話のせいか、まりあはいま一つ実感が持てないでいた。
ロシア革命も関東大震災も太平洋戦争のことも、彼女にとっては教科書やテレビの中の出来事だった。過去の歴史としか考えられなかったのだ。なのに、その『歴史』を体現する人がこの扉の向こう側にいるという。
「ちなみに奥様のお世話は、ほとんどわたし一人でやっているの。もしあなたがここで働くことになったら、お掃除とか、こまごましたお手伝いとかをお願いすることになるわ。でも最大のお仕事はね」
思わせぶりにいったん口を閉じる。
「奥様のお相手をすることよ。なにしろこんなところに閉じこもっているでしょう? お話し相手が欲しいのよ。ああそうだ、言葉のことなら心配ないわ。私と同じで日本語は話せるから」
「そうなんですか」
「奥様は一種の天才でいらっしゃるの。たぶん七ヶ国語くらい話せるのではないかしら」
「ジェミーさんもですか」
そう聞くとジェミーは笑い出した。
「いいえいいえ、ちがうわ」
「でも日本語がお上手です」
「そりゃそうよ。なにしろ私は横浜生まれの横浜育ちですからね」
「えっ」
「一応アメリカ人、てことになってるけど。正直に言うけれど、横浜を出たことがないの」
まりあは目をぱちくりさせて金髪碧眼のメイドを見た。
「そんなに驚かないで。こう見えてあなたと同じハマっ子なのよ」
ウィンクしてみせる。まりあはこの気さくで美しいメイドのことがだんだん好きになってきた。
「さて、何か他に質問は? 答えられる範囲でなんでも教えるわ」
そう聞いてまりあは思い切って手を上げてみせた。
「あの、幾つか伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「このホテルはその方の持ち物なんですよね」
「そうなるわね」
「でも支配人さんは長期滞在中のお客様だって」
「ああそのこと」
ジェミーはくすくす笑いながら、
「ちょっとした言葉のマジックね。支配人はこういう言い方をしたはずよ“長期滞在中のご婦人”って」
確かにそうだ、とまりあは支配人の言葉を思い出していた。“お客様”とは言っていなかったと思い出したのだ。
「オーナーが最上階を占領してるなんて外聞が悪いでしょう? だから対外的にはそういう説明をしているの。嘘ではないけれど正確ではない、てこと」
「はあ」
やや釈然としない思いを抱きつつ、まりあは気になっていた別のことを尋ねた。
「その奥様という方、外出されたりはしないんですか」
「しないわ」
言下に否定する。
「だって見知らぬ異国でしょう? 箱入り娘の貴族のお姫様ですもの。それに最近はめっきり足腰が弱くなられて、ほとんどベッドで過ごしてらっしゃるわ」
「でも昔は学校とか行っていたのでしょう? お友達とかも」
ジェミーは首を横に振った。
「奥様は人見知りが激しいの。このホテルから出たことはなかったはずよ・・・いえ、ホテルを建て替えた時には市内の別のホテルに移っていた時期はあったかしら。それくらいね。
ああ、それから《奥様》とお呼びしているけれど、実際にはご結婚をされたことはないの。以前は《お嬢様》とお呼びしていたのだけどね。奥様、というのは年配の女性に対する慣例的な呼び名ね」
「お幾つの方なのですか」
「さあ? 百歳にはまだなっていないと思うけれど。いえ、なっているのかしら? 正確なお年は伺っていないわ」
そう聞いてまりあは軽いめまいを覚えた。ジェミーの話が本当なら、一世紀近くに亘って引き籠っていることになるからだ。
「他になにか質問はある?」
「はい。奥様のお名前を教えていただけないでしょうか」
「いいわよ。ナターリャ・ペトローヴナ・ブラヴァツカヤ、よ」
ジェミーは机からおりると、スカートをなおした。
「さて、これからあなたは奥様にお会いすることになるのだけど、その前に幾つか注意をしておかないといけないわね。というのはね、奥様はとっても気難しい方なの。ああ、でも理不尽な方ではないの。少しくらい失敗しても怒ったりはしない。お優しい方なのよ? でもね」
真面目な顔になって続ける。
「いいこと、嘘は絶対にダメよ。あの方は人の嘘というものがお嫌いなの。それと、約束を破ること、これも絶対にダメ。この二つを忘れないでね」
「はい」
けれどまりあは心の中で首を傾げた。それらはごく普通の、当たり前のことのように思えたからだ。
ジェミーは心持ち声をひそめて言った。
「前にアルバイトをしていた子はそれが守れずに辞めさせられたの。あ、そうそう、もう一つあったわ」
と付け加える。
「あのね、奥様はピコピコ言う電子音が大嫌いなの。だから、もし携帯電話とか、ゲーム機とかを持っていたらここで預かるわ」
そう言って金庫を指差す。
「実を言うとね、前の子は黙って携帯を持ちこんでいたのよ。それが奥様の目の前で着信音が――なにかにぎやかな曲が――鳴り出してしまったの」
「まあ」
「それでおしまい。その子は首になってしまったというわけ」
「そうだったのですか」
まりあはなんとなくその奥様の気持ちが分かる気がした。電子音が嫌い、ということよりも、その子の裏切りが許せなかったのではないかと思ったのだ。人と人との信頼に重きを置く方なのだ、とおぼろげに理解できたのだ。
まりあは自分の携帯電話の電源を切ると、ジェミーが用意した盆の上に置いた。そして少し考えてデジタル・ウォッチも外して並べて置いた。ゲーム機は持ってきていなかった。
「貴重品を確かにお預かりしました」
ジェミーは真面目くさってそういうと、預かった品を金庫に保管した。
「ではいきましょうか。奥様がお待ちかねだわ」
マホガニーの扉の向こうは薄暮の世界だった。
窓のない長い回廊の壁にはところどころにすりガラスのほやのついた間接照明があり、柔らかな淡い光を放っていた。空気にはかすかに甘い香りが漂っている。
片側の壁には等間隔にドアがあり、反対側の壁にはやはり等間隔で壁龕が穿たれ、花瓶や小さな像などが飾られていた。
まりあはジェミーの後をついて歩いた。程なくあるドアの前で立ち止まる。メイドはトントントン、とノックした。
「奥様、候補の方をお連れしました」
さっきとは打って変わって取り澄ました声で告げる。
「お入り」
中から低い声で応えがあり、ジェミーは扉を開いた。甘い香りがいっそう強くなる。
そこは寝室のようだった。
窓には厚いカーテンが掛けられ、部屋の中は薄暗かった。壁にはタペストリーが幾重にも張り巡らされていた。どこかに香炉が置かれているらしい。霞のような薄い煙が漂っていた。そして部屋の中央には天蓋付きの大きなベッドがあった。
奥様はそこにいた。
黒い薄物を纏い、その上にやはり黒いガウンを羽織った年老いた女性。
柔らかそうなクッションに背中を預けて半身を起こしている。銀色の髪はおかっぱ風に短く切り揃えられ、痩せた頬に向かって軽くカールしていた。深い皺が何本も刻まれた肌は、まるで死者のそれのように白かった。対照的にその瞳はエメラルドのような深い緑で、強い光を宿していた。
「奥様」
ジェミーは部屋に入ると、右足を半歩引き、軽く膝を折って挨拶した。続いて入ったまりあは、ぺこりと頭を下げた。
奥様――ナターリャはそれを興味深そうに見ていた。
「斎藤まりあ嬢です」
そう紹介され、まりあは「はじめまして」と再びお辞儀をした。
「ナターリャ・ペトローヴナよ。こちらこそはじめまして」
見事な日本語だった。しかし、ロシア語なまりとは違う不思議な抑揚のあるしゃべり方だった。
「すこしお話ししていただけるかしら」
「はい」
ナターリャは軽く右手を動かした。それだけでジェミーには通じたらしい。まりあの耳元に口を寄せ、
「ベッドサイドに。奥様のそばまで」
と囁いた。
まりあは恐る恐るベッドに近づくと、両膝をついた。ナターリャは、つと手を差し出した。まりあは無意識のうちにその手を握っていた。
皺だらけのひんやりとした手。触っていると体温を奪われて行くような気がした。
「こんなお婆ちゃんのお相手はお嫌かしら」
「いえ、そんな。もしお許しいただけるのでしたら、誠心誠意努めさせていただきます」
「まあ、お若いのにしっかりした受け答えをすること。お母様のお仕込みかしら。それとも学校で習ったの?」
「ええと、両方だと思います。礼法の授業とかありましたし」
ナターリャは微笑むと、「正直な子ね」とつぶやいた。
「ところで立ち入ったことを伺ってもいいかしら」
「なんでしょうか」
「あなたのお名前、まりあというのはお母様がお付けになったの?」
「はい」
「洗礼を受けてらっしゃるの?」
「はい、いいえ、あの、母はクリスチャンですけど、私は・・・そのう」
「いいの、ごめんなさい。不躾な質問だったわ。お気を悪くしたのなら謝るわ」
「そんな、奥様」
まりあは、敬虔なクリスチャンである母の影響でキリスト教系の女子校に通っているけれど、自分は洗礼を受けていないこと、父は仏教徒であること、両親からはどのような教えを選ぼうとも、または選ばなくても構わない、お前はお前の信じる道を見出すようにと言われていることを話した。
「まだ決めかねているのですけれど」
そう聞くと、ナターリャは満足そうに微笑んだ。
「すばらしいご両親だわ。あなたに広い視野を持った人間になって欲しいのね」
「そうだと思います」
まりあははにかんで答えた。
「さて、まりあさん、ひとつ我が儘なお願いがあるのだけど」
「なんでしょうか」
「あなたのことを、ロシア風に《マーニャ》と呼んでもいいかしら」
「え」
「むかし、従妹に同じマリアという名前の子がいて、私はいつもマーニャと呼んでいたの。お嫌かしら」
「そんな、あの、どのように呼んでいただいてもけっこうです」
「ありがとう」
そう言うと、ナターリャは空いている方の手で、まりあの手をぽんぽんぽん、と軽く叩いて手を離した。それが合格の合図だったらしい。部屋の隅で控えていたジェミーはうなずき、まりあに声をかけた。
「それでは明日からお願いしてもいいかしら」
「はい」
ナターリャの声が割って入った。
「明日からなんていわず、今日、今夜からはいかがかしら」
まりあはびっくりしてナターリャを見た。
「お部屋はすぐに用意させるわ」
「あの、ええと」
まりあは戸惑いながらナターリャとジェミーを交互に見ながら言った。
「あの、通いの仕事と伺っていましたけれど。それにその、泊まり込みとなると、着替えとかいろいろ準備が」
ジェミーはくすくす笑いながら、
「奥様、あまりご無理はおっしゃらない方が。まりあさんにもいろいろご都合がおありでしょうし」
「そうね。まあ、ごめんなさい。歳を取るとついつい我が儘になってしまって」
「奥様の我が儘はお若い頃からだと思いますけど」
主人に対して無礼な物言いだと、まりあは内心はらはらしながらこのやり取りを聞いていた。けれどナターリャは、
「そうね。気をつけるわ。聞いての通りよ、まりあさん。いいえマーニャ」
そして穏やかに微笑む。
「勤務時間とか、賃金だとか、その他いっさいはジェミーに任せてあるの。悪いようにはしないと思うわ。もちろん、通いでもいいの。ただ、わたくしのささやかな希望として、泊まり込みで勤めてもらえればうれしいわ」
そう言うとまたしても右手を微かに動かした。ジェミーは、
「では事務的な手続きはわたくしの方で。さ、まりあさん」
ジェミーに促され、部屋を出る。退出するとき、ジェミーはまた膝を軽く折った。まりあもそれをまねて見る。
「マーニャ」
「はい?」
ドアのところで、まりあは背後から呼ばれて振り向いた。
「あなたが来てくれてうれしいわ」
優しくそんなことを言うナターリャを、まりあはとてもかわいいと感じた。適切な返答が思いつかず、まりあはにっこり微笑んだ。
「ではまた明日ねマーニャ」
「はい、明日」
まるで幼馴染の子ども同士のように言葉を交わして、まりあはドアを閉じた。
Ⅰ.黒衣の貴婦人3 に続く