Ⅰ.黒衣の貴婦人1
そのホテルは横浜にあった。
山下公園の近く、中華街からもほど近い七階建てのホテル。ヨーロッパ風の外観は古風な貴婦人を想わせた。最大の特徴は、正面玄関真上の屋上に四角錐型のドームを持つ高塔を頂いていることだった。
この日、歴史のある港町は八月の太陽にじりじりと熱せられ、そのクラシック・スタイルのホテルもアスファルトから立ち昇るかげろうにゆらめいていた。
(これが横浜第四番目の塔なのね)
まりあはホテルの正面に立ち、その塔を見上げて思った。
横浜には三つの塔があると言われている。
一つは神奈川県庁舎の通称《キングの塔》。
一つは横浜税関の《クイーンの塔》。
いま一つは開港記念館の《ジャックの塔》。
これら三つの塔は大正から昭和初期にかけて建てられた歴史的建築物であり、横浜を見守ってきた歴史の生き証人たちだった。
もっとも、現在ではランドマークとしての地位は、マリンタワー、氷川丸を経てみなとみらい地区の高層ビル群へと移っており、三つの塔は横浜の過去を象徴する建築物となっていた。
まりあが見上げているこのホテルの塔も、その意味では過去の遺物と言えた。
この四番目の塔のことは横浜市民にさえほとんど知られていなかった。いや、無視されていたと言ってもいい。
それは他の三つの塔から離れた目立たない場所にあるからかも知れない。建てられたのは昭和初期で、その外観は当時の面影をよく伝えていた。観光の目玉としての価値は十分にあるはずなのに、なぜかガイドブックに載る事もマスメディアで紹介されることもなかった。
横浜で生まれ育った彼女にしても、これまでにこのホテルのことを意識したことなど一度も無かったのだ。
ただ、建物の存在自体は知っていた。人づてにその塔が《ジョーカーの塔》と呼ばれていることも聞いていた。
(まあいいけど。だってこれまで縁がなかったんだもの)
そんなことを考えながら通用門へと向かう。
ホテルは角地にあり、通用門は南に面していた。自動車用の石造りの搬入口の隣には従業員用の入り口があった。
壁面から三歩ほど奥まったところにドアがあり、まるで小さな洞窟のような構造になっていた。夏の日差しはドアまでは届かず、心なしかひんやりとしていた。
彼女はインターホンのボタンを押して名前と来意を告げた。ややしてドアが開く。奥にはホテルの制服を着た男性が居て、無言で手招きした。
若いけれど陰気そうな人だな、とまりあは思った。接客業なのにいいのだろうか、と余計な心配をしてしまう。
建物の中に一歩足を踏み入れると、涼しいどころか寒いくらいだった。薄暗い廊下を辿って事務室らしい窓のない殺風景な部屋に通される。
衝立で囲まれた一角に応接セットがあり、そこで待つように身振りで指示された。まりあが腰を下ろすと、若い女性の事務員がアイスコーヒーを持ってきた。さきの男性同様、ひどく陰気で青白い顔をしていた。
(なんだか変なカンジ)
まりあは落ち着かなげにあたりを見回した。
建物に入ってからずっと、背後から誰かに見られているような、そんな不思議な感覚に襲われていた。誰かが衝立の向こうから、それとも天井からじっと自分を見ている。そんな気がするのだった。
アイスコーヒーがグラスの半ばまで減った頃、これまた陰気そうな痩せた中年の男性が現れた。立ち上がって挨拶しようとするまりあを手で制して、向かいのソファに腰を下ろす。
「斎藤まりあさんですね」
男はじっとまりあを見つめながら言った。
「アルバイト希望の」
「はい」
まりあは姿勢を正した。さあここからが本番だ、と気を引き締める。
「こちらで客室係りを募集していると伺いまして」
なにごとも第一印象が大切。まりあはそう思い、意識して口を開き、はきはきと答えた。
男は自分がこの『オリエンタル・エンパイア・ホテル』の総支配人であることを告げると、事務的に話を進めた。まりあから履歴書と紹介状を受け取り、一瞥する。
「F女学園なのですね」
「はい。二年生です」
「なるほど」
総支配人は無遠慮にまりあの全身に視線を走らせた。
まりあは色白で小柄な少女だった。
癖の無い艶やかな黒髪は肩の高さで切り揃えられており、これまで一度も染めたり脱色したことはなかった。
やや長めの前髪の下の涼やかなまなざし、小さな唇はきりりと結ばれ、すっと伸びた背筋と共に育ちの良さを感じさせた。
パステルカラーのワンピースに包まれた四肢はほっそりとしており、控えめな胸のふくらみと合わせて年齢よりも幾分幼く見えた。
「よい姿勢ですな」
「ありがとうございます」
じろじろ見られて、セクハラおやじか、と一瞬思ったものの、その視線には何の感情も込められていないことに気付く。プロの目で値踏みされているのだ、と理解はしたものの、なんとなくおもしろくなかった。
「紹介状によると」
総支配人は無表情に続けた。
「グレインマザー商会のリー社長からのご紹介ということですが。先方とはどのような?」
「はい、父がみなとみなみ銀行に勤めておりまして。お取引のあるグレインマザー商会から、こちらでアルバイトの募集があるとご紹介をいただきました」
「ほう。失礼ですがお父上のお役職は」
「頭取を勤めさせていただいています」
「ああ、斎藤さまの」
総支配人はなるほど、という口調で頷いた。
「お父上とお会いしたことがありますよ。当ホテルともお取引いただいていますから。そうですかあの方の」
総支配人の顔には相変わらず表情がなかったが、声には微かな親しみの感情が混じったようにまりあには感じられた。
「それにしても何故当ホテルを? こうした古いホテルはお若い方には敬遠されがちですが」
「歴史のある建物で、伝統と格式の中に身を置きたかったのです」
「ほう」
実際のところ、最初はコンビニでアルバイトをするつもりだったのだ。だが、両親、特に父親に大反対された。大事な一人娘をそんな下世話なところでは働かせたくはない、と。
ましてや、まりあにとってこれが最初のアルバイトとなるのだ。心配性の父親としては、つい過度に干渉してしまうのだった。
ちょうどその頃、父親は取引先であるグレインマザー商会のリー社長との雑談のなかで、このホテルが短期のアルバイトを探していることを知ったのだった。
仕事上の付き合いもあり、信頼できるところということもあって、娘を安心して任せられると考えたのだ。
まりあ自身は親がかりのアルバイトに反発心もなくはなかったが、働くこと自体を禁止されては元も子もないので、しぶしぶ妥協したのだった。
もっとも、どこよりもバイト代が高かったことも説得された理由の一つだった。元もとの動機は夏休みの間に恋人の誕生日プレゼントの資金を稼ぎたかったからだ。
親からは十分な小遣いをもらっていたけれど、彼のためには自分で働いたお金を使いたかったのだ。むろん、そんなことは両親には話していない。
「立派な考えですな」
「ありがとうございます」
澄ましてそう答える。総支配人は神経質そうに指を一本立てると、「しかし」とつぶやいた。
「実はひとつ訂正があるのです」
「はい?」
「仕事の内容についてです。リー社長は少し勘違いをされていたようです」
「どういうことでしょうか」
何か面倒なことになるのでは、と身を硬くする。
「募集していたのは客室係りではないのです」
厨房の皿洗いとか、パーティー会場のコンパニオンとかだろうか。
「実は当ホテルの最上階に長期滞在されているご婦人がいらっしゃるのですが、その方が専属の小間使いをご所望なのです」
「そう・・・なんですか」
「ええ。もともと小間使いは二人いたのですが、事情があって今は一人しか居ないのです」
そう聞いてまりあの鼓動は何故だか早くなった。ふつうのアルバイトとはどこか違う。そう直感したのだ。
「ですから最終面接はその方が直接お会いになられます」
「はあ」
「こちらです。さあ」
総支配人に促されて立ち上がる。薄暗い廊下を歩きながら、まりあは自分が最初の試験をパスしたことに遅まきながら気がついた。
そしてその最上階の《ご婦人》がホテルにとって重要な人物であるらしいことにも。そうでなければ、たかが女子高生のアルバイトの面接を総支配人が自ら行うはずがなかった。
一階のホールに出た。普通のホテルとは違い、フロントは一階にはなかった。正面の入り口からすぐのところには赤い絨毯の大階段があり、宿泊客はまっすぐに二階に昇るようになっていた。メインロビーとフロントは二階にあるのだ。
この一階ホールには椅子が数脚あるだけで、天井も低くて薄暗かった。そこからカフェやダイニング、スーベニアショップなどへと続く回廊が左右に繋がっている。ホテルの建物はロの字型になっており、正面入り口の反対側には、大階段を挟んで小さな中庭に出られるフランス窓があった。
まりあは総支配人の後について大階段の裏のエレベータに乗り込んだ。それはエレベータというよりも昇降機と呼んだ方が相応しいクラッシックな機械で、階数の表示もデジタルではなく針のついた半円の文字盤になっていた。
エレベータは二階で止まった。ドアが開くと、ヨーロッパ人らしい母親と幼い娘が乗り込んで来た。金色の髪のよく似た親子で、身なりもきちんとしていた。
ドアが閉まるまでの数秒の間、二階のロビーの様子がまりあの視界に飛び込んできた。
天井の高い薄暗いロビーは幾何学文様に飾られており、まるでカテドラルのような荘厳さがあった。人影はまばらだったが、ほとんどが外国人のお客のようだった。
ドアが閉まる直前、一人掛けのソファに座って英字新聞を読んでいた男が不意に視線を上げ、まりあを見た。
一瞬で総毛立った。いくら空調が効いて涼しいとはいえ、その男は夏だというのに黒い外套を着込み、襟を立てて顔の下半分を隠していたのだ。見えるのは目から上だけだった。髪の毛が一本も生えていない傷だらけの頭と、とがった耳、灰緑色の瞳。
(なに、あの人)
気味が悪い。そう思う間もなく、ドアは閉じ、エレベータは上昇を始めた。
外見で人を判断してはいけない。彼女の理性はそう告げたが、直感は正反対のことを告げていた。まりあは小さく首を振り、男のことは忘れるように努めた。
二階で乗り込んできた金髪の少女は、ひっきりなしに母親に何事か話しかけてはクスクスと笑っていた。母親の方はそれに短く受け答えしていた。静かになさい、とでもたしなめている様子だった。
外国人の親子は五階で降りた。が、不意に幼い娘は振り返り、くりくりとした青い瞳で、じっとまりあを見上げた。そして母親の手を引っ張ると、小声でこう言うのが聞えた。
「She is very cute. I like her・・・」
ドアが閉じた。
『あの子かわいいわ。わたし、気に入っちゃった』
自分の何を気に入ったというのだろうか。まりあはどこか釈然としなかった。それに、あんな言葉はかわいらしい幼い女の子が言うべきではないように思えた。むしろ彼女に対してこそ言われるべき言葉であったはずだ。
エレベータは六階で一度止まった。総支配人はポケットから一枚のカードを取り出した。それはクレジットカード大の薄い金属板で、ランダムにいくつも穴が開けられていた。
「七階へ行くにはこのパンチカードが必要なのです」
そう説明しながら、階数ボタンの下のスロットにカードを差し込んだ。カチャッカチャッ、とかすかな金属音が聞える。総支配人は『7』の数字が刻まれたボタンをぐいっと押した(そのボタンの横には『関係者以外お立ち入りできません』と複数の言語で書かれた紙が貼ってあった)。
上昇するエレベータ。そして七階で止まった。
Ⅰ.黒衣の貴婦人2 に続く