序章 死せる少女
それを見つけたのは夜釣りから帰る途中の男たちだった。
夜半からプレジャーボートで東京湾に出ていた彼らは夜明けと共に横浜港に戻ろうとしていた。
八月のその日は快晴で、風はなく、波もごく穏やかだった。暑い一日になることを予感させるように曙光が空を青く染めつつあった。
プレジャーボートがベイブリッジの下を通り横浜港に入った時だった。
舵を取っていた男が海面を漂っている何かに気付いた。スロットルを絞り、その何かを中心に輪を描くようにボートを航走させる。
突然の変針にキャビンで釣り道具を片付けていた仲間たちも異変に気付き、デッキに上がってきた。
「どうした」
「漂流物だ」
「どうせ不法投棄のごみだろう」
「そうかな。俺にはどうも・・・」
「とにかく見てみようぜ」
舳先を漂流物の方にめぐらせて、エンジンを切り、惰性で進む。
男たちは目を凝らした。
それは布と海草が絡まっているように見えた。ひとかたまりの明るい布に黒々としたコンブが絡み付いている。そんなふうに見えたのだ。
淡い朝の光に照らされたそれを見て、男たちは言葉を失った。
髪の長い少女だった。
すらりとした体に纏っているのは丈の短いワンピースと細身のデニムのパンツ。
華奢な手足をゆったりと広げ、水面から顔が見え隠れしていた。長い髪は海面に広がり、海草のようにゆらゆらと揺れている。血の気のないその顔はあどけない十代の少女のそれだった。
「笑ってる・・・」
一人がつぶやいた。
その少女は幸せそうな、夢見るような表情を浮かべていた。まるでほんとうに気持ちよさそうに眠っているかのようだった。
男たちは一幅の絵画のようなその光景にしばし見とれた。
が、はっと気付いて救助のために動きだす。少女をボートの上に引き上げると、デッキの上で人工呼吸、心臓マッサージと、一通りの救命処置を施す。
手の空いている者は携帯電話で海上保安庁に通報した。だが、もはや手遅れだということは誰もがわかっていた。
人工呼吸を試みていた男は諦めて少女の冷たい唇から顔を離した。しげしげと少女の顔を見下ろす。その視線はあるものを捉えた。
「なんだろう、これ」
首筋に傷があった。
ポツリとした赤い斑点。それが二つ並んでいた。
「まるで・・・」
「ありえないだろう」
一人が言いかけるのを、別の一人が即座に遮った。
「不謹慎だぞ」
「だけど、これはまるで」
「やめろ。ありえない」
「吸血鬼に・・・」
さわやかな夏の曙に相応しくないその言葉が発せられると、男たちは青い顔で沈黙した。
その視線を独り占めにしている少女は、今はデッキの上に横たわっていた。沈黙の笑み、抜けるような白い肌、胸の豊かな二つの隆起、しどけなく投げ出された四肢。まるで白磁の人形のようなその姿。
それはあたかも『死』という名の芸術品ででもあるかのように美しかった・・・。
Ⅰ.黒衣の貴婦人1 につづく