無職おじさんとその辺のガキ
「お前が死んでも誰も悲しまないよ」
いや、俺が死んだら俺は悲しいが?
――腹違いの兄との、最後の会話だった。
どうも俺は人と折り合いをつけるのが苦手らしい。高校生の頃、所属した部活のメンバーが俺を残して全員出ていった時に、それを嫌でも自覚させられた。
猛暑が本格的に始まった、八月の二日。殺人光線と化した日差しを存分に浴びながら、俺は一人公園のベンチに寝転がる。今日、惰性で続けていた仕事を辞めた。
家族も友人も恋人もいない。地位も名誉もありやしない。そんな人生はどうやら、想像していたよりもずっと楽なものらしい。もっと早くこうしていればよかったと苦笑する。
目を瞑ると、子供達のはしゃぎ回る声が聞こえてくる。てっきり昨今は遊びもリモート化したもんだと思い込んでいたが、なかなかどうして現代のガキ共の体力も侮れないものだ。
空いたビール缶を放り投げるとあくびが漏れた。
「やばっ……!」
「あ゛? ――痛ってぇ!?」
腹部への衝撃で目を開く。ボロボロのサッカーボールが近くを転がっていた。
いかにも生意気そうな面をした少女がこちらを気まずそうに見つめている。こいつが俺にぶつけたのだろう。
少女は俺にぺこりと頭を下げ、ボールを拾って離れていった。
「おいおいおい、ちょっと待てやクソガキ!」
「……っ!? な、なに?」
肩をびくっと震わせる少女。
「なに、じゃねぇんだよ。ごめんなさいはどうした。親に習わなかったか」
「……ならってない」
「ハッ、そうかよ」
睨め上げてくるその瞳が僅かに潤っていた。使い古されたボールを大事そうに抱える腕は、今にも折れそうなほど頼りない。気に入らないガキだ。
「お前、一人でボール蹴ってたのか」
「……?」
サッカーで遊ぶ男子小学生の集団に視線を向ける。
「あいつらと一緒にやらないのか?」
「女とあそんでも楽しくないって」
ほう、このご時世に性差別とは。ずいぶん見上げた大和男児共だな。思わずため息をつく。
……まあ、ガキ相手でも暇つぶしくらいにはなるか。
「それ貸せ」
返事は聞かずにボールを奪い取る。
「っ! えっ……!?」
「黙って見てろ。ボールってのはこう使うんだ」
足や頭を使ったリフティングを見せつける。学生時代に培った技術はまだまだ錆びついてはいないようだ。
「どうよ」
笑ってみせると、より強く睨み返してくる。
「……かえしてっ」
「じゃあ俺から奪ってみせろ」
「――ッ!!」
言葉を聞くやいなや、ガキは体当たりを仕掛けてきた。
「馬鹿がよ、動きが単純すぎるぞ」
「かえせ、かえせっ!」
何度も愚直に突撃してくるガキをかわしながら、挑発するようにボールを弾ませる。
「闇雲に向かって来ても意味ねぇんだよ。ちゃんとボールを目で見て追え」
「~~~~ッ!」
地団駄を踏むほど憤慨している様子のガキは、しかし案外冷静にこちらと少し距離をとって隙を窺ってきた。
「へぇ? やればできるんじゃねぇか」
「うるさい!」
顔を真っ赤にして怒鳴ってくる。
多少マシになったとはいえ、所詮はガキ。あの手この手で攻撃を仕掛けてくるが、そうそう球には触れさせない。
結局、日が暮れるまで一度もボールを取られることはなかった。
「……そろそろ飽きたな」
動くのをやめ、ボールを投げ渡す。
「な、なに?」
きょとんと間抜け面を晒すガキ。
「もう終わりだっつってんだよ。とっとと家帰って飯食って寝ろ」
「ッ! サイアク! しね!!」
ガキは土で汚れたボールを抱え、捨て台詞を吐く。怒っていると主張したげに大きく足音を鳴らして、ちらと一瞬こちらを振り返ってから公園を出ていった。
「ふぅ……」
胸元をぱたぱたと服で煽ぐ。流石に運動不足の体で子供の相手はキツかった。全身に掻いた汗が気持ち悪い。俺も今日は帰ってシャワーを浴びるとしよう。
疲れているはずなのに、不思議と足は軽かった。
◇
八月三日。今日は最高気温が三十五度を超えるらしい。公園のベンチで寝ていると、何もしていなくとも汗が湧き出てくる。時折吹いてくる風すらも生暖かくて気色悪い。
「しねぇっ!!」
「は? ――痛ってぇ!?」
腹部への衝撃で目を開く。ボロボロのサッカーボールが近くを転がっていた。
いかにも生意気そうな面をしたガキが、生意気そうな笑みを浮かべて生意気にもこちらを睨んでいる。
「チッ。周りには気をつけろよ、ガキ」
「えっ、あっ……」
ボールを投げ返すと、ガキは呆けたような表情で受け取った。しばらく口をぱくぱくと動かした後、俯いて肩を落とす。
「ご、ごめんなさい……」
ムカつくくらい小さな声だった。
「……はァ。ボールよこせガキ。やるぞ」
「!」
ガキは元気よく顔を上げ、目を輝かせた。
「じゃ、じゃあ、あたしからうばってみせろっ」
「ほらよ」
舐めた口を利く雑魚からボールを分捕る。
「まったく、知らない大人と遊ぶなって親に言われなかったか?」
「……言われたことない」
「ほーん、奇遇だな。俺もだ」
喋りながらもガキはがむしゃらに俺を追いかけてくる。俺はまだ昨日の疲れも取れてないというのに、マジで体力どうなってんだ。
人間相手のコツをつかんだのか、前回よりも目に見えて動きがよくなっており、偶にヒヤッとさせられる。
『五時三十分になりました。外で遊んでいる子どもたちは、気をつけておうちへ――』
汗だくで息も絶え絶えになったころ、夕焼小焼のメロディーが聞こえてきた。
「もうそんな時間か。おいガキ、そろそろ……」
「すきありっ!」
「っ! てめぇ!!」
立ち止まった一瞬を狙い撃ちされ、遂にボールの支配権がガキへと渡った。
「にへっ、あたしの勝ち!」
「それは反則だろうが!」
「おじさんザコすぎ! つまんなーい」
「捻り潰してやろうかガキィ~~ッ!」
ここぞとばかりに煽り散らかしてくる怨敵に怒りで体を震わせる。調子に乗りやがって、次はねぇからな。
「チッ。もう時間だぞ。帰れ帰れ」
「……ぇ、あ、うん……」
先程とは打って変わって、返事の声はか細かった。
「続きは明日な」
「……! うん!」
ガキは元気よく頷いた。より一層ボロボロになったボールを手に取り、とてとてと軽快な足取りで公園から出ていく。何度もこちらを振り返って、手を振ってきた。
また明日、か。やれやれ、スタミナの有り余ったガキの相手を連日させられるこっちの身にもなれってんだ。
◇
八月八日。今日は午前中に雨がちらほら降っていたようで、公園のベンチが少し湿っていた。最悪の寝心地だ。
「えいっ!」
「ふんっ!」
飛んできたボールを察知して、片手で叩き落とす。ガキめ、もうこれで七日目だぞ。いつまでも同じ攻撃が通用すると思うなよ。
「おじさん、なんでいつも公園にいるの?」
「あん?」
「もしかして家ないの?」
「は? あるが? 駅から徒歩九分、バストイレ別、家賃七万円だが?」
仕事を辞めたとはいえ、それなりの貯蓄はある。路上生活をするほど困窮してはいない。
「じゃあなんで」
「……まあ、ここは家より広いからな」
「ふーん……」
ガキのスライディングをギリギリのところでかわす。こんなぬかるんだ地面に躊躇いなく飛び込むなよ。
「お前こそなんで毎日来るんだ」
「…………。家に、いたくない」
ぽつりと、呟くようにこぼす。
「親は嫌いか?」
「わかんない。……たぶん、ママはあたしのこと、きらい」
「そうか」
困ったような表情で足を止めるガキ。無駄話が過ぎたか。
服の裾で頰の汗を拭う。――瞬間、ガキの顔が引き攣った。
「どうした?」
「おじさん、それ……」
ガキが俺の腹を指差す。見ると、腰に小さな青いアザがあった。
「そりゃ、お前が毎日毎日ボールぶつけてきやがるんだから、アザくらいできるだろ」
「……っ。ご、ごめんなさい……」
「あ? こんなんで痛がる雑魚に見えるか?」
「でも、だって……っ。ごめん、なさい……」
「……チッ」
くしゃくしゃに表情を歪め、涙をポロポロとこぼすガキ。今までアザの存在にすら気づいていなかったくらいなので、別に痛くもないのは事実なのだが、もはや人の話を聞きそうにない。これじゃどっちが被害者かわからねぇな。
「こっち来い」
公園の端の方まで歩いていく。俯きながらも一応ついてきてはいるようだ。
「おいガキ、どれ飲みたい?」
「…………」
自販機の前に来ても黙りこくるばかり。小銭を投入口に押し込み、オレンジジュースとアイスコーヒーのボタンを押す。
「ほら、持て」
首を横に振って受け取ろうとしないガキに、無理やり缶を握らせる。
「大人はな、仲直りのとき乾杯すんだよ」
「…………。……うん」
戸惑うような顔のまま、小さく頷いた。
カン――、小気味よく軽い音がする。
「美味いか?」
「……ん」
暑い中運動して喉も渇いていたのだろう。最初は躊躇うように俺を見ていたが、すぐにこくこくと喉を鳴らして飲み始めた。
「おじさん、カンパイよくするの?」
「いいや? これが初めてだ」
「……なにそれ」
ガキがくすりと笑う。つられて俺も口の端を吊り上げる。
「コーヒー、おいしい?」
「飲んでみるか?」
缶コーヒーを差し出すと、ガキは首を横に振った。
「えー、いいや。にがい」
「はっ、ガキだな」
ちなみに俺は今コーヒーを買ったことをとても後悔している。走り回って汗流した後に飲むものじゃねぇ。苦い。
結局この日はサッカーは再開せず、日が暮れるまで喋っていた。
「おじさん、また明日ね!」
「ああ、また明日」
泥まみれのボールを手に持った彼女は、とても楽しそうに帰っていく。姿が見えなくなるまで俺は手を振って見送った。
◇
八月九日。曇り。
一日中公園で寝て過ごした。
◇
八月十日。曇り。
一日中公園で寝て過ごした。
◇
八月十一日。雨が降った。
……今日もガキは来なかった。
◇
八月十二日。一週間振りの猛暑日、とにかく日差しが強かった。
こんな日でも子供達の元気は衰えることはないらしい。ベンチで目を瞑っていると、大人数ではしゃぐ声が聞こえてくる。
空いたビール缶を投げ捨て、身を起こす。聞きなれた足音が近づいていた。
「――よう、久しぶりだな」
ベンチから降り、あくびをしながら体を伸ばす。
「随分と暑そうな格好してるじゃねぇか。日焼け止めでも切らしたか?」
俺の前にやってきたガキは奇妙なことに長袖を着ていた。肌身離さず持ち歩いていたボロボロのボールすら持たず、神妙な面持ちで立っている。
「いつものボールはどうした」
「……っ、その、今日は、お礼を、言いに」
「あ?」
聞き返すと、ガキは何かを堪えるように唇を震わせる。生意気さの面影もない様子に、ぞわりと背筋を悪寒が駆け抜けた。
「おじさん。今まで遊んでくれて、ありがとうございました」
「……は? お前、何を……」
ぺこりと綺麗なお辞儀。彼女はそのまま目も合わせずに後ろを向く。一体何を言っているんだ。嫌な汗が噴き出る。
「――さよなら」
何かが、崩れていくような。取り返しがつかなくなるような予感がした。
待て。待ってくれ。
小さな背中が遠ざかっていく。ここで何もせず見送ったら二度と出会えないのではないか。強い焦りと恐怖を感じて、けれど所詮他人の俺に出来ることなんかなくて。でも、だったら、せめて。せめて何か――
ふと足元に置いたものが目に入る。
「待てよ、クソガキ!」
用意していたものを手に取り、ガキの近くに投げつけた。
「……なに、これ。ボール……?」
新品のボールが公園の砂の上を転がる。
「あのみすぼらしいのを使い続けるのも癪だったからな。買ってきた」
「……っ」
ガキは振り返って大きく目を見開いた。
「もうここに来ないって言うなら、持って行け」
「なん……で……」
ボールを見つめ、声を震わせる。
「何でって、俺が持っててもしょうがねぇだろうが」
「……っ、そうじゃ、なくて……。あたし、ひどい、のに……。またあしたって、やくそく、してたのに……っ」
嗚咽混じりで辿々しく。強く握りしめられた彼女の拳に、ぽつりぽつりと涙が落ちる。
「ママが、遊んじゃだめって……」
「……まあ、そりゃ知らん大人と毎日会ってたら心配もするだろ」
「ちが、ちがくて……っ。『カレ』に泥まみれの格好みせるなって……っ」
少しめくれた長袖の下から青いアザがのぞいていた。
「なら、俺の家で洗ってやろうか?」
「……おじさんにっ、めいわく、かかっちゃう……」
「今更気にするかよ。お前には迷惑かけられっぱなしだぞ」
初めて会った時からずっと、無愛想で手のかかるガキだった。
「あたし……、あたし……っ」
ろくに呂律も回っていない、自分が何を言っているかも曖昧だろう彼女は、俺に縋り付くように体を寄せてきた。
「あたし、もっとおじさんと遊びたいよ……っ!」
不思議と、口の端が吊り上がるのを感じる。
「奇遇だな、俺もだ」
気温がピークを迎える昼下がり。いつもより少しだけ広く感じるフィールドを、汗を流して駆け回る。
「……しね!」
「おっと、危ねェ」
「~~っ、もうちょっと……!」
随分と久しぶりに感じるボールの奪い合いは、思いのほか苦戦を強いられていた。傷一つないまっさらなボールは、空気の抜けかけたボロ球とは弾み方が違う。いつもの感覚で蹴っていると意図しない方向へ飛んで行ってしまいそうになるのだ。
「体の使い方が上手くなってきたじゃねぇか」
「おじさんはいつもよりヘタ」
「うるせぇ酒が入ってんだこっちは」
生意気な口を利きながら虎視眈々と狙ってくるガキを捌く。全身でぶつかってくるような躊躇のない動きがこちらの動きを鈍らせる。
「……そこ! えいっ」
「チッ、クソ……ッ」
コントロールが甘くなった隙を狙われた。ボールが浮いたところを的確に蹴り飛ばされる。
「あたしの勝ち!」
綺麗なVサイン。ガキは満面の笑みで勝ち誇った後、転がっていくボールを追いかけにいった。こんだけ動いた上で、よくもまあ元気に走れるもんだ。俺は息を切らして膝に手をついてるってのに。
深呼吸してから顔をあげる。
「――あ?」
ボールが止まらない。普段使っていたものよりも遥かに弾みがいいボールは、想定を超えて遠くまで飛んでいく。公園の柵を越えて、道路へと出てしまった。
「おい、馬鹿、待て……!!」
一心不乱に追いかけるガキ。――信号は赤だった。
「止まれぇぇッ!!」
「…………ぇ」
ガキが道路に飛び出たタイミングで、運悪く。乗用車が通りがかる。
心臓が早鐘を打つ。スローモーションのようになる景色。
「ち、くしょう……っ」
急ブレーキ音が響き渡った。
「な、なんで……っ」
弱弱しい声が耳に入り、目を開く。
「おじさん……、おじさん……っ」
霞む視界で朧げながらガキの姿が見えた。身を起こそうとするが……体に力が入らない。
「けが……してねぇか……?」
「~~~~っ」
ひどい泣き顔だが、どうやら傷はついていないようだ。何とか間に合ったらしい。
「おじさん、血が……っ」
ガキが表情をくしゃくしゃに歪める。彼女を庇って車に轢かれたのだ、今の俺はよっぽど酷い有様なのだろう。体が熱いんだか冷たいんだか、感覚がもうほとんどない。
「なんで……、あたしなんか、たすけて……っ」
彼女の涙が俺の顔に落ちるのを感じて、何故か不思議と頬が緩んだ。どうしてって、そんなもん決まってる。
「おまえが、しんだら……。おれが……、かなしい、だろうがよ」
◇
目覚めて最初に目に入ったのは、眩しい光だった。ぼんやりとする頭が徐々にクリアになっていく。
「病院、か……」
どうやら俺は生き残ってしまったらしい。あの後治療されて、入院中なのだろう。真っ白なベッドに寝かされていた。最悪だ、医療費とかいくらかかるんだこれ。
「…………」
ふと、隣に目を向けると、椅子に座って眠りこけているガキがいた。命の恩人の意識が戻ったっていうのに気づく気配もない。
「はっ、気持ちよさそうな顔しやがって……」
全くもって良いことのない人生だが。コイツを悲しませずに済んだんだったら、まあ、悪かねぇか。