巻の一 験者と山椒
『因果逆転のカースフォージ』事件から……五日くらい後。十日は経ってない。何か気まずい預流と靖晶に今度は怒涛の平安ラブコメ試練が次々襲いくる。この三角関係、いや四角関係はどこに向かうのか!? 長編一個丸々賢木中将お当番回、R-18行かないけど対象年齢高めだぞ! 偏差値上げていけ!
尼僧を前にして、彼は驚いた。
「何と、斯様に若くお美しい方であろうとは」
「世辞は結構。預流は夫とともに俗世での心を葬りました。若いとか美しいとかこの憂き世では無意味です」
とは言うものの二十になるかどうかの若さは意外だった。彼が四十なので娘のようだ。
まっすぐな澄んだ瞳は市井の娘のようだが日に焼けない白い肌は高貴の姫君のもの。だが白粉も紅も塗らず。背中の中ほどまでの髪は上流の姫君としては痛ましいほど短いのだろうが、十分に艶やかだ。
それに鮮やかな萌黄の法衣は男の法師が着るものだろうか。銀糸で紋を描いた紫の袈裟は上品で貴人に相応しい。左手に絡んだ黒い数珠は黒檀だろうか。
どれもこれもちぐはぐで、それでも堂々と背筋を伸ばして真正面に座している。御簾も几帳もなく。立てば手が届くような距離に。
これは異形の美だと思った。京を離れている間にこんなものが現れていようとは。
「いやこれは失敬。これほどの方がやつがれごとき乞食坊主に御自ら施しくださるとは」
こちらはもう随分長く頭を剃っていないから髪も髭も伸びていて、道を歩いているだけで子供にも指さされるありさまだというのに。装束だけは山から下りてきたままというわけにいかないのでそれなりに整っているが、整った験者の装束が珍妙なものだと彼女は気づいていないのか、あえて何も言わないのか。
用意された膳は水漬けに野菜の炊き合わせ、漬け物。簡素だが生臭のないちゃんとした食事だ。
「我が師も遊行の上人でございました。托鉢の方は皆、我が師と思ってお迎えするよう努めております。お食事の後に修行中のお話など聞かせていただければ」
声も凜として澄んで、滑らかに喋る。滑らかに喋る女がまず京には少ない。
「それはそれは素晴らしいお心がけにございます。しかしやつがれ、由西と申しますが、半端者でございまして。吉野の山に籠もり、修験と陰陽道の術を磨きましたが仏道は今ひとつ。尼御前さまのためになるお話などできるかどうか」
〝陰陽道〟というくだりで、少しだけ視線が揺らめいたような気がした。
「修験ですか。役行者の教えでございますね」
「それほど立派なものではありません。占いやまじないをするだけで」
「残念ですが占いは足りております。何が起きようと御仏の宿縁、因果でございましょう。一日一日、今日が最後の日と思って生きております」
「尼御前さまは陰陽師と親しくしておられるとか」
今度ははっきりと表情が惑い、袖を口許に当てた。もう市井の小娘だ。
「……噂になってます?」
「それはもう。安倍のせがれと市で派手にやり合ったとか」
「まあお恥ずかしい。いえ、ちょっとした宗教的対立がありまして」
尼と陰陽師と宗教的対立、というのがおかしい。
「いやわかりますぞ。やつがれはあれの幼き頃を知っておりますが、あれは術の腕はあっても人の心のわからぬ男ですから。いつか天狗になると思っておりました。尼御前さまのような慈悲あるお方には我慢ならない輩でしょう」
由西が述べると、その顔つきが冷たく強張ったが。
「……わたしがあの人と喧嘩したって噂を聞いて、悪口を言いに来たの? それでわたしが喜ぶと思って?」
言い放ち、立ち上がった。しゃんと立つ女がまた珍しい。
「布施を返せとは言わないし今夜は宿を貸すけれど、あなたとお話しすることはないわ。験者だか何だか知らないけれど言葉で他者を貶め、人と人とを仲違いさせるのは御仏の教えに反します。不悪口不両舌と言うのよ。仏弟子としてあるまじきこと。朝には出ていって」
「おやおや、ご機嫌を損ないましたか」
「誰のことでも同じよ。耳が汚れる。――あの方とは袂を分かったけれど、陰口を叩いてわたしの機嫌を取るような人ではなかったわ」
なるほど。――彼の知る安倍靖晶は女と口論をするような男ではなかった、怯えたように女から目を逸らす。そもそもあまり口を利かない。いつも従兄弟の陰に隠れている。
この女からは目を逸らせなかったというのが、何だかわかる気がする。
預流は歩き出し、襖障子を開けて部屋を出ようとしたが――ふと振り返った。
「播磨守さまの幼い頃を知っているって、あなた、何者? あなたも陰陽師なの?」
「さて、占いとまじないが取り柄の半端者でございます」
「俗名は〝アリユキ〟だったりしない?」
「俗のことなど忘れましたな」
「人の心がわからないのはあなたも大差ないんじゃないかしら」
「これは手厳しい」
襖障子が閉まり、尼の姿が消えた。
由西は箸を取り、膳をいただくことにした。夜明けには出ていくが布施はしっかり受け取っておこう。
* * *
「……播磨守、やせたな」
「そうなんですよー!」
靖晶が何か言う前に十一も年上の従兄弟が大声を上げた。ほおをつままれる。いつもなら肉をつままれるところが、皮の上の方が引っ張られるので痛い。
「どうしたんだよ、行く先々で飯を完食する野蛮人って言われるのをそんなに気にしてるのか! お前は意外と筋トレしてるから基礎代謝が高くて燃費が悪い、あれくらい食べないと維持できないんだ! 弥生は何をしてる、播磨国のお殿さまに飯を食わせろ!」
「別に気にしてはないよ。食欲がないだけ」
「お前、やせたらやせただけイケメンになると思ってないか!? お前がやせたってガリのオタクが出現するだけでお前のままだぞ!?」
「人を傷つける真実を言うな!」
「尼御前さまと喧嘩したのか!? したんだな!?」
「良彰に関係ないだろ」
「体調に出てたら関係あるだろうが!」
例によって良彰がやかましく騒ぎ立て、他の陰陽師が「やれやれ」と呆れる。靖晶がやせただけで、陰陽寮は平常運転だった。嫌になるほど。
「惣領、ぼくのおやつの亥の子餅食べますかー。陰陽師は頭脳労働だから糖分が必須だってー」
今日は有恒が竹の皮に包んだ餅を差し出し、
「お前んちの惣領じゃないぞ、賀茂」
憲孝に即座に突っ込まれていた。
「もういいじゃないですかー皆の惣領でー」
……賀茂の末弟が笑うのを見ていると心が痛む。
「……有恒」
「何ですかー?」
「いや、何でもない」
――お前の兄が生きていると知ったらどうする?
考えると苦いものが広がって、餅に手を伸ばす気になれない。
「人の親切を素直に受け取るのは功徳のうちだぞ、播磨守。飯はちゃんと食え」
……あれ。賀茂まで〝惣領〟と呼んでいると、今、陰陽寮に靖晶を〝播磨守〟と呼ぶ者はいないのだが。
陰陽師は皆、狩衣のブルーカラー。なのに暦だの計算用紙だの書類で埋まった文机の向かいに、一人だけ墨染めに木欄の五條袈裟。相変わらず女のように整っているくせに機嫌の悪そうな仏頂面。
「……何で権律師さまが?」
「最初からいらしたぞ、気づいてなかったのか。ちゃんとしろ惣領。やっぱり脳に糖分が回ってない」
「大法会の予定日が近づいて各関係者の細かいスケジュールが決定したので報告・連絡・相談しに。情報共有だ。お前たちも別部署だからとまるで何もしないわけではないだろう。法親王さまは当日に嵯峨野から直接参内なさるが大僧都さまは前日に叡山を降りて前ノリされる。詳しくは書面で」
明空はスッと文机に巻物を広げた。
「は、はあ」
「体調管理は大事だ。拙僧がいじめたせいだと言われたのでは困る」
「勝手な人だなー……」
「ストレス要因は他にもあろうが、尼と市でやり合って寝込んだと聞くが本当か」
明空が大声で言うので陰陽師全員が息を呑んだ。
「そうなのか!?」
「あれはきつい女だからお前から謝らないといつまでもこじれるぞ。さっさと謝って結婚でも何でもしてしまえ」
「そうなのか!?」
「どうしてあなたにそんなこと言われなきゃいけないんですか!?」
「え、言い返すのかお前!?」
ここで良彰が顔を青くしたが、無視。他のことなら謝ってごまかすところだがこんなのスルーできるか。
「非常に嫌な予感がするのでこの辺でお前に押しつけておこうかと。拙僧は真面目にあの女の行く末を案じて、還俗して宮中に出仕するか再婚するかと言っていたがここに至って受領と再婚するのが一番無難なオチなのではないかと思った」
明空はぬけぬけと答えたが。
「お前にその気はないのか? 邸に引っ張り込まれて酒を飲まされたり、あの日も二人で市に行ったりしていたのだろう? 満更ではないのだろう?」
「まさか自分はBLライフが安定で充実しているから他人の恋バナにちょっかいを出す余裕が? 幸せのお裾分けってやつですか?」
靖晶がとげとげしく言うと。
大きく一回舌打ちの音が鳴り、有恒が怯えた。
「な、何ですか今のー」
「BLライフ……」
「ていうか何だこのセクハラの応酬! おれの知ってる陰陽寮じゃない!」
良彰はわりとセクハラをする方なのに、BLという単語が聞き慣れないのか音を上げた。
「陰陽寮は恋愛相談も受けつけていますがこちらの惣領に誰と結婚しろとか簡単に言わないでください!」
「よく言った良彰!」
「こいつは宿題今すぐやれって言ったらモチベーション下がるタイプなんです! もっと外堀を埋めて逃げ場をなくしてから言ってください!」
「何言ってるんだ良彰!」
「こんなところで修羅場を展開するな、お前ら! 神聖な職場で!」
普段は全然神聖だと思っていないくせに。明空はため息をついた。
「純粋に心配していて修羅場を展開する気は微塵もなかったのにセクハラで返されて心外だ」
「純粋な心配の時点でぼくの心を激しく傷つけている! あなたに心配される筋合いなんかない! ここは職場で一族郎党、皆がいる前でプライベートなこと言わないでくださいよ!」
「……一族郎党、全員筒抜けなのかと思っていた」
明空は攻略情報を事前に調べてRTAしているのかというくらい効率よく靖晶の地雷を全部踏んだ。
「部外者から見たら全員似たよーなもんでしょーけど、一族郎党じゃない人もいるんですよー」
「だからお前は惣領と呼ぶなと」
「わりと本気になったらいくらでも調べられるからこそ惣領のプライベートを尊重にした方がいいのかと思ってまして」
陰陽師一同は目を逸らし。
「もうこれ殴っちゃおうかな。うちには何かないのか? 晴明公秘伝の、北斗七星の印が刻まれてて封を解くとド素人でも勝手に身体が動いて人が殺せる厨二武具みたいなの。今から作ろう破軍必滅とかそういう感じの名前の。ありそう。それっぽい。陰陽師の本気見せろお前たち」
「早まるな、惣領。そんな妖刀はないし陰陽師が坊主を殺めて祟られたら陰陽寮はお終いだ」
もはや自分でも何を言っているのかわからない靖晶の袖を引っ張って憲孝が止めるありさまだった。
「うちの惣領が、グレた! 冗談でも人を殴るなんて言う子じゃなかったのにこんな歳になって急にすさんで!」
良彰は畳に伏して嘆いていた。お前は母親か。
「そうか、親戚の前で色恋の話はしないものか、悪かったな」
明空が素直にうなずくものだから。
「親兄弟にBL関係をイジられるのに慣れすぎていたが嫌がってよかったのか」
「憎むべき敵なのにかわいそうになってしまう! ……外で話しましょう、ここじゃ本気が出せないから」
「惣領、お坊さまを殴るなよ」
「拙僧は強いが大丈夫か。なぜキレるのかわからないし、いくら自衛のためでも半病人を半殺しにするのは功徳ではない」
「それならここでやる。四人がかりの方がまだしも勝算がある」
「ぼくらを戦力に数えないでー!?」
悲鳴を背に、二人は陰陽寮を出た。と言っても大内裏は官公庁街なのですぐ横が中務省、向かいは何と太政官、役人がひっきりなしに出入りしてどこもかしこも人だらけで殴り合ったらすぐ止められる。単に、身内に聞かれたくないだけだ。
何だか回り道をするのも馬鹿馬鹿しいので諦めて率直に言った。
「……預流さまが好きなのはあなたですよ」
「は?」
「ああやっぱり殴りそう」
そこからの明空の返答は想像を絶していた。
「――だとしてお前が遠慮する理由になるか?」
「は?」
「どうでもいいだろうが。女が誰が好きだの嫌いだの言ったからどうだと言うのだ、結婚してしまえばそのうち慣れる。貴族の結婚とはそういうものではないのか」
――これが女に人権のない時代の感覚だった。いや男にだって人権はなかったのだが。
「娶ってしまえ。あの女は滅茶苦茶なのだから身分の差など気にするな。受領の妻になれれば御の字だ、いつまでも兄に養ってもらっているなど情けない。夫とともに播磨国に下ってNAISEIすべきだろうが。都でちまちま人助けごっこをするよりよほど世の中がよくなる」
靖晶の方はもうキレすぎてどうしたらいいのかわからなくなりつつあった。多分、健康だったら鼻血が出ていた。人生でこれほどキレたことはなかったのではないだろうか。
「好かれてるって聞いて何とも思わないんですか、BLの攻様に操を立ててるから? 運命のつがいが成立しているから女とかどうでもいい?」
「――それは嬉しいに決まっている」
途端、明空の表情が一変した。緩んだのではない。
「人に好かれているとは素晴らしいことだ。しかもあの女に? いやありがたい。実にいいことを聞いた」
天女のよう、ではない仏敵を討つ不動明王の笑みだった。笑いは本来、生物にとって威嚇の表情だと言う。忿怒の相より上があったのを知った。ものすごくレアなものを見たのかもしれなかった。
「煩悩の炎に灼かれればいい。あの女の番が来た。因果応報、盛者必衰、天網恢々疎にして漏らさず、人を呪わば穴二つ。おれの夢を見て苦しみのたうち回れ! 苦しみながら他の男の妻になってしまえ!」
通りかかった役人が振り返るほどの大声で言い放つと、彼は両手を合わせて数珠をかけ、一転穏やかな口調で語り始めた。
「――かつて東寺の座主で真如法親王とともに唐に渡った方がいらっしゃった。法親王は天竺を目指しその途上で薨去されたが座主は京に戻ってきた。あまりぱっとした活躍のない方だがいろいろと書き残していて」
「何の話ですか?」
「ためになる法話だ。布施はいらんから聞いていけ。――唐ではその頃には仏道は廃れていて入唐した皆さまが師と仰げるような名僧はいなかったが、東密とも台密とも違う教えを説く臨済義玄なる者がいたと。その者いわく〝祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。仏に逢うては仏を殺せ〟」
「む、無茶苦茶ですね。親や仏を殺せって」
「文字通りに殺生を勧めているのではない。たとえ話だ」
「たとえ」
「お前のように〝殺せ〟という言い回しに過剰反応して忌んだり喜んだりクソリプする仏教エアプ勢は多いが、もっと奥深い教えだ。天上天下唯我独尊と言うが釈尊からほど遠い迷える衆生に過ぎない我々は、仏法は尊いものだと遮二無二信じてただ拝むのではなく、羅漢や仏と見えたものでも己の頭で一度は疑えということだ。先祖や親兄弟を敬うべきという忠孝の行いも、他人が正しいと言っているから、そうするものと教わっているから何も考えずに従うのでは立派とは言えん。己で尊んでいるものを殺すくらいの勢いで疑ってみよというたとえだ。常識、先入観、他人から与えられた前提を捨てろ。尊い教えを疑わないのが信仰ではない。疑った後でなお残るものが尊いのだ。黄金は誰かが鋳たものを得てその輝きを尊ぶのではなく、自ら膨大な量の砂を洗ってわずかなかけらを探し求めるから尊いのだ。大事なものが本当に大事か立ち止まって考えたことはあるか? 不純物を捨てて魂のステージを上げるのだ」
珍しく宗教者らしいことを言い。
「立ち止まって考えた結果、拙僧にとって煩悩を克服するとはこういうことだった。あの女が無惨な死を迎えたと聞いたときに大笑いしてやる。播磨守どののおかげで菩薩の境地に一歩近づいた。感謝する。晴れやかで清々しい気分だ」
最後は一方的に述べて一礼し、そのまますたすた歩き去っていってしまった。靖晶は呆然として追いかけることができなかった。
なるほど、確かにためになる法話だった。一つ一つの言葉の意味を考え込んでいる間に怒って殴りかかるどころではなくなった。交感神経の作用で血圧が上がって血管が切れそうになっていたが副交感神経でまた下がっていた。
「……夢に見て苦しみのたうち回ったことがあるのかよ。今の、自爆ツンデレかよ。人を呪わば穴二つってあんたが勝手に呪われたんだろ。ツンデレの上に逆恨みがすごい。まだ捨てるべき煩悩、あるんじゃないのか? 臨済義玄を一番曲解してるのはあんたじゃないの?」
失うもののないツンデレはそれは凄まじいものだった。もはやツンデレと呼べるのかも疑わしかった。
つまり阿闍梨にして権律師さまは十六であやまちを犯してから、ずっとずっと信仰とは何か、大事なものとは何かを自分に問い続け、全てを疑うという厳しい修行を己に課していた。その甲斐あって預流に想いを寄せられていると聞いて「ざまあみろクソアマ地獄に落ちろ」とドS高笑いできるようになってしまったのだった――
それは果たして悟りだっただろうか。特殊性癖に目覚めただけじゃないんですか。宗教にはよくあることです。それで結局、反省はしていない。靖晶に誰も救われない地獄が見えただけだった。果たしてこんなにこじらせた人たちの間に自分如きが挟まっていいのか自信を失うほどだった。
「そうか……本気なんだな……本気で道を究めるからぼくと預流さまがどうなろうとどうでもいいんだな……むしろ嫉妬心とか起きた方が煩悩駆逐チャンス到来期間限定悟りガチャなんだな……覚悟完了なさってるんだな……」
それはそれでヘコむ結論で、発生した怒りの矛先を見失った。彼にとって陰陽道は全然、宗教ではなかった。
「殴ってないから、話し合ってわかり合って帰ってもらったから」
靖晶が無の表情で陰陽寮に戻ったとき。
憲孝が肩を叩いた。
「……おい、惣領。この大法会の予定表、ものすごくおかしなことが書いてあるぞ」
「え」
明空の持ってきた巻物だ。よくよく見れば、最後に思いがけない名前が――
〝左大臣藤原順久卿息女 藤命婦清寧尼〟
「律師さま、本当に心配なんじゃないか?」
さて時間は少し巻き戻って、靖晶が明空からありがたいZENの話を聞いている間、陰陽寮の中では。
「そうか惣領は尼御前さまとモメていたのか。ではこの良彰が謝ってやる。おれたち中途半端な小役人は手紙の代筆も仕事のうちだ。惣領に字を教えたのはおれだぞ。筆跡や文体は似ている」
良彰が悪い顔で新品の料紙を引っ張り出していた。
「何かすごく嫌な予感しますよー余計なことしない方がいいんじゃないですかープライベートを尊重するんでしょー」
「かえって馬に蹴られるぞ、良彰」
「平安人は下っ端が勝手に手紙とか書くのが普通なんだよ! 寝込んだのは市でモメたせいだったんだな。よし素直にそれを書こう、あいつがあれ以来びーびー泣き暮らしている風情を演出しよう。実際やせたんだし」
有恒や憲孝が止めるのも聞かず、謝罪文を捏造して。
それで陰陽寮を抜け出して自分で歩いて山背式部卿宮邸に持っていって。
「安倍の陰陽師、播磨守靖晶から尼御前さまにお手紙です! お取り次ぎを!」
と門番の武士に意気揚々と話しかけ。
「……はりまの……駄目です、帰ってください」
「何で!?」
「尼御前さまは冷却期間を置きたいとのことです」
むげに追い返されたりしていた。仕事しろ。
波瀾万丈の一日はこれで終わらず。靖晶が陰陽寮を辞して待賢門前で牛車に乗ったのは暗くなる頃。
「日が落ちるのが早くなったな」
「ぼくとお前でサボってたから帰りが遅くなったんだろう。今日もオーバーワークだ」
歩いて帰ってもいいのだが、播磨守を拝命して以来、良彰がせっつくので何かと牛車に乗る。いちいち牛をつなぐのに時間がかかるしそんな楽なものでもないが、何でもかんでもハッタリをかませというのがこの従兄弟の主義だった。で、この従兄弟本人は自分一人では牛車に乗らない。妙に真面目なところがあった。
牛車というのは面倒なもので必要なのは牛を動かす牛飼童だけではない。前を行って道を空けさせる前駆と別途護衛。もっと高位なら随身がつくが自前の護衛だ。何せ陰陽師は妙な時間に治安の悪いあばら屋に行くこともあれば、唐渡りの替えの利かない貴重な天文観測具を持って歩くこともあるので夜盗に遭うわけにはいかない。
それがこの日、思いがけず役に立ってしまった。疲れて壁にもたれ、うつらうつらしていたら突然、がくんと牛車が止まった。
「お、陰陽師さま!」
前駆の声が焦っている。
「道に綱が張られています! 何者かの待ち伏せです――」
石がこつんと牛車の屋形に当たった。
「安倍の陰陽師、痛い目を見てもらおうか」
大内裏のすぐ近くだというのに。道の端、小役人の家なのか小屋の陰からわらわらと人が現れた。男二人で御簾を上げて乗っているのでお互い、丸見えだ。良彰がちっと舌打ちした。
「――夜道で陰陽師を襲うとは罰当たりめ」
残念ながら京の治安は最悪だ。受領が路上強盗に出会ったくらいで驚いてはいられない。
しかし松明も持たず黒っぽい装束に身を包んで棒杖を持つ者たちは、盗賊ではなく狙ってやって来た刺客なのだろう。冗談みたいだが道が暗いので黒を着られると姿が見えない。それでもこちらの松明の灯りで六人まで数えられた。
「皆、惣領をお守りしろ! かかれ!」
良彰が怒鳴りつけ、それでこちらの護衛が前に出て、棒杖で打ち合い始めた。――明空は喧嘩が強いと言っていたがこういうのに勝てるのだろうか。自分は危なそうなら牛車を飛び降りて走って逃げなきゃなあ、邸と大内裏とどっちが近いだろう、などと靖晶はぼんやり見ていた。昼に明空の相手をして疲れたのか血圧が上がらない。
「向こうの方が人数が多いな」
良彰は人さし指を舐めた。やる気らしい。こちらはのんびり座ってはおらず中腰になる。
「仕方ない、陰陽頭が養い子、安倍良彰が一つ我が家の秘伝を見せよう! 傍流ながら晴明公の末裔、陰陽道の神秘の一端、見るがいい!」
わざとらしく大声で言い放ち、両手で印を組む。
「臨兵闘者皆陣列在前!」
何人かびくっとこちらを見た。
「急急如律令!」
左手で空中を指さし、右手が宙を掻く――
悲鳴が上がった。少し離れたところで黒装束が一人、顔を押さえて地面に倒れ、のたうち回る。
「目が!」
棒杖には怯まなかった者たちが、それで固唾を呑んだらしい。正気を失ったように喚いて転げ回る者を見て敵も味方も動きが止まった。良彰はびしっと犠牲者を指さした。
「晴明公秘伝の式神だ! 鬿雀と言い爪で人の目玉をえぐり出して喰らう。まだまだ血が足りないようだな。もう一人くらい喰らわせるか」
――これは協力した方がいいのかな。
「やめろ、良彰! 術で人を傷つければ地獄に落ちるぞ!」
靖晶は精一杯それっぽく叫んだ。
「惣領を守るためであればやむなし。頭さまにお伝えください、良彰は修羅道に落ちても惣領を守ったと」
従兄弟は実に楽しそうに狩衣の懐から呪符を出してかまえてみせる。
「お前たち、いくらで陰陽師を殺せと命じられた。式神に生きながら喰らわれると知っていたか。我らが晴明公より受け継ぎし式神は十二、残り十一いるぞ。試してみるか? それとも式神でなく、この狐の子・良彰の牙が見たいか?」
同じものを食べて生きているはずなのにどうしてこういう文句を思いつくのだろう――よくやるよ、と靖晶は呆れていたが、黒装束の方は打ち合ってもない仲間が倒れたのは相当にショックだったようだ。顔を見合わせ、目配せすると、まだ悲鳴を上げて動けない仲間を皆で抱えて蜘蛛の子を散らすように走り去った。
「夜道で陰陽師を襲うとは罰当たりめ」
良彰はほっとした様子も見せず、再び畳に腰を下ろした。
「お、陰陽師さま」
驚いたのは敵だけではない。こちらで雇っている護衛もだ。
「式神とは本当ですか。一体今のは、何が起きたのです。手も触れずに、あいつはどうなったのですか」
おずおずと声をかけてきた。
「おお、本当だとも。我が式神の鳥が敵の目をえぐったのが見えなかったか。霊能がなければわからんか。少し瘴気を出してしまった。車の向きを変えろ、戻って別の道を行くぞ。瘴気で牛が暴れたり倒れたりしてはかなわん。車を回せ」
良彰の凶悪な陰陽師ロールプレイは続いていた。話しかけてきた護衛は、彼が手にした呪符が揺れるたびにびくついた。
「惣領の術はこんなものではない、もっとすごいぞ。主上の御身を守護するために秘蔵し、おいそれと使ってはならんのだがな」
それで牛車から牛を外して車の向きを変えることになった。Uターンは人力でやらなければならないので大変だ。牛飼童だけで何とかできるはずもなく、前駆、護衛、全員で轅を持って牛車を回す――
その間、靖晶は座ったままあくびをしていた。トリックを知っていたから。
――何のことはない。竈の灰と山椒を混ぜた粉を、中身を抜いた卵の殻に入れた目潰し。中身の方はおいしくいただいた。この従兄弟は平安装束がズルズルして余裕があるのをいいことに袖にも懐にもいろいろな仕掛けを用意している。
風向きを見て敵の顔の真ん中にぶつけると涙と鼻水が止まらなくなってのたうち回る。あれを喰らったら何日か、よく顔を洗わなければならないだろう。大袈裟な身振りと、辺りが暗いのでものを投げたように見えなかっただけだ。やられた当人も何が起きたかわからなかったろう。味方や牛にぶつかったら大変なので離れたところにいる者を狙った。敵は黒い衣を着ているので味方と間違えることがなかった。当然、投げて的に当てるには鍛錬が必要だ。
もう少し後の時代なら唐辛子やら胡椒やらいろいろ使えるものが増えるがこの頃はまだ灰と山椒くらい。陰陽道って言うか、忍術。
「味方をあんまりビビらせるなよ、かわいそうだろ」
靖晶は小声でつぶやいたが。
「いつまでも味方とは限るまい。下人に半端な情けをかけるな」
良彰は短く正論を吐き捨てた。
――別に、良彰はいい歳こいて厨二病妄想に浸って赤の他人に痛々しい陰陽師設定を語って聞かせているわけではない。
お家に対する忠誠心とかない時代なので、護衛の皆さんは他に条件のいい職場が見つかったらさっさと転職してしまう。護衛と言うが、要は腕っぷしが強いと吹聴しているその辺のヤカラだ。「何だこいつら、つまんないな」と思ったら平然と仕事をサボる。大臣くらい偉いならともかくこんな中途半端な役人は、手持ちのカリスマスキルで手下を統率しなければ命令なんて聞いてもらえない。平安京はナメられたら死ぬ世界だ。
当然、守秘義務なんかないので聞かれたらべらべらとどこででも職場の内情を喋るだろう――「陰陽師って言うけど大したことないぜ」とよそで吹聴されたら、都中の人間にナメられて最悪死ぬ。
ハッタリでも何でも「陰陽師はすごい、手を触れずに不思議な術で人を倒した、逆らったら何をされるかわからない」と思ってもらわなければ。ヤカラでも使えないわけではない、使いようだ。
護衛には命を預けるのだ。「逃げたら自分も呪い殺されるかも」くらい思ってもらわなければ。
「陰陽師が太刀を抜いて刺客と切り結んだら皆、がっかりするだろうが。夢を持たせてやれ。陰陽師が使うなら七星剣なんかよりこれだ」
と良彰は狩衣の懐に呪符をしまい直している。
山椒の匂いのする夢か。従兄弟の懐には他にも夢がたくさん詰まっている。下人向け、貴族向け、いろいろなものが。
大変なお務めをしているような、大したものではないような。
牛をつなぎ直して、一本横の道を通ることになった。都は碁盤の目なので迂回が簡単だ。
「しかしわざわざ闇討ちされるようになったとは偉くなったものだな? 心当たりは?」
「あんまり言いたくないけど、多分検非違使佐。小野右衛門佐さま、だっけ? キレる十三歳なんだろ」
靖晶が答えた途端。
刺客には怯まなかった良彰が畳を叩いて嘆き始めた。
「……どうして摂関家の恨みを買うようなことをした! 政治なんてできないくせに! 華麗に撃退してしまった! 命に別状ない程度に手足の一本くらい折られておけばよかった!」
――そのオーバーリアクションでまた護衛が怯えてちらちら見ている。良彰は嘘つきのくせに正直者だ。思ったことを言ってしまう。
「そんなにまでして巫女を庇う必要があったのか!」
「良彰は言うと思った。……有由さんだよ」
「何?」
あまり言いたくなかったが、刺客に襲われたのでは。
「有由さんの筆跡だった。生きてたんだ」
「庇う必要なんかないじゃないか、五百回でも斬首されて膾になって市の前に晒されればいいんだ!」
「良彰は言うと思った。有恒の前でも言える?」
「言えるとも。あいつ十歳かそこらだったんだから出来の悪い兄貴のことなんか憶えてないだろ。流石に賀茂の全員を斬首したのでは陰陽寮が回らない、あいつはお目こぼしいただこう」
良彰は即答した。気持ちがいいくらい。
「九九も最後まで言えない馬鹿が血筋だけで官職を得て居座っていたら陰陽寮だけでなく皆の迷惑だろうが。社会貢献だ。朝廷のために尽くした結果だ。あいつは出家遁世するのが一番よかった。――逆恨みして朝敵にまで成り下がるとは、出家と言わず殺しておくべきだったな。それこそ闇討ちでもして。おれならやっても私怨で済む」
靖晶はまだ胃の腑に有恒からもらった亥の子餅が残っている気がするのに。
「ぼくが九九できなかったら出家させてたわけ?」
「人知れず鴨川に沈めて太郎定清を惣領にしていた」
「うわ、ありそう」
取り立てて驚きもしなかった。
この従兄弟は「世の中の役に立たないなら死んでしまえ」と堂々と言う。悪びれもしない。
きっと目の前に泣いている少女がいても容赦しない。
だが彼をそのように育てたのは、靖晶の父なのだろう。
伯母は彼を産んですぐ、夫を喪って再婚したそうだが――新しい子を身籠もって前夫の子を持て余した。父が引き取ることになったが、それは「お家の陰陽師の一人となって皆とともに務めを果たせ」という意味だった。その後、姉と結婚させたので靖晶がいなかったら従兄弟が惣領扱いになっていたはずだ。
従兄弟が九九のできない子だったら父は育てていなかったし姉と結婚させたのも才を評価したからなのだろう。陰陽道の才がなければ彼は今頃、どうなっていたかわからない。才がなくても何とかなるような下官の仕事をしていたのか、どこかの貴族の家で下人でもしていたのか。
あるいは棒杖を持って牛車の護衛をする方だったか。
安倍良彰が賀茂有由の才能のないのを憎んだのは当然の成り行きと言える。
誰よりも「世の中の役に立たないなら死んでしまえ」と言われて育ったのはこの従兄弟だからだ。
言われて家のために卵の殻を割らないように中身を飲んで山椒をすり潰す男になった。
定清は姉が生んだ長男、女系になるが姉も従兄弟も晴明公の子孫、血が濃い。もう十八歳。――計算能力は、人並み。
陰陽寮を追われるほどひどくはないが、靖晶を暗殺して惣領の座に据えるほど優秀でもない。痘瘡が流行ったり火事を出したりして陰陽師が減ったときのための予備だ。正直者の良彰は悩まない。世の中の役に立つ方を優先する。
中くらいの役人は惨い。漢文が読めるか、計算ができるか、向いているかどうかがすぐわかる。もっと下の方や上の方はそういうものではないのに。
〝そうするものと教わっているから何も考えずに従うのでは立派とは言えん。大事なものが本当に大事か立ち止まって考えたことはあるか?〟
明空が問いかけても、良彰は「知るか」とはねつけるだろう。