君を思い出すから僕は数えるのが嫌いになった
君はサラダに彩られた半分にカットされた赤いトマトの数を数えていて、僕はそれを可笑しく眺めている。ふらっと入ったどこにでもあるファミレスで、付き合い始めて一年が経つ僕たちは変わらない日常を送っていた。
「7切れ」
僕が先に口を開くと彼女は「もう数えたの?」と半信半疑に言いながら「私は・・・6切れ」と続けた。言われたわけでもなく、カットされたトマトの数を報告するのが僕の癖になりつつある。
サラダに盛られたトマトに限らず彼女は物を数えるのが好きだ。本人曰く癖らしいが、とにかく街の赤い色が塗られた看板や歩いている途中に見かけたマンホールや犬の数だとか、他所の家の庭で実った柑橘類の実の数など、数えられる範疇であればいつもいつも小さく頷き指を折って数えていた。
「僕の勝ちだね」
「翔くん、何度も言うけど私はサラダに盛られたトマトの数を競いたい訳じゃないんだよ」
「うん、わかってるけど、一応報告までに」
「報連は完璧で、あとは相が加われば翔くんは将来立派な社会人になるね」
「そりゃどうも」
カットされたトマトをフォークで刺し、口へ運ぶ。何気なく正面の彼女に視線を配ると、同じタイミングでトマトを口に運んでいた。まるで写し鏡みたいだと思わず顔を綻ばせ、彼女もまた同じように表情を作った。
僕と彼女の美雪は同じ大学に通う同級生。ただ、学科が違うため同級生といっても授業で一緒になることはないし、今後も学業面で関わることはないだろう。そんな僕たちがなぜ付き合うようになったか。それは何かしらの壮大なドラマがあったりだとか、運命的な出会いがあった訳ではなく、陳腐な漫画で使い古されたような至極ありふれたきっかけだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
新人歓迎会コンパ。略して新歓コンパ。新入生のために開催された学内の新歓コンパに友人と参加し、そこで美雪と出会った。そんな平凡な馴れ初め。
入学したての僕は一緒に上京をした友人と新歓コンパに参加していた。新歓コンパは夜空の下で行われ、日中の春が微笑んだような暖かな陽気とは表情を変え、夕方は随分と冷え込んでいた。
未成年の僕と友人の手には低い度数であるものの酎ハイの缶が握られていた。名前も知らない先輩に「まぁまぁ」と手渡されたものだ。サークルの勧誘だとか色々と話しかけられたりはしたけども、僕の反応をみた人たちはすぐ興味を失って別のところへと行ってしまう。
お世辞にも人付き合いが上手とは言えないので、新歓コンパなどという華やかな場に居ようが胡散臭い外国産の製品のようにガタはすぐに訪れる。不安よりも、今後のキャンパスライフへの希望に満ちた空気に馴染めなかった。自分は他よりも良いスタートを切るぞ、というギラギラとした野望が漂っていて、湿気のように肌に張り付いてなんだか落ち着かない。
僕とは違い友人は缶ビール片手に同級生らしき男女と盛り上がり、少し酔が回り始めたのも相まって場を離れ休憩を挟むことにした。
近くにある大きな桜の木の下あたりで頭を冷まそうと移動すると、ちょうど周囲からは見えない木の裏側に人が座り俯いている。デニムとロンTを着た少女だ。あまり目立たない見た目というか、喧騒とは一歩引いた垢抜けない雰囲気からして同じ新入生だと直感が働いた。
「何してんのさ」
酔いも手伝ってか大胆かつ不躾な言い方になる。普段では、ましてや異性となればまず自分から話しかける事もないんだけれど、しっかりと新歓コンパの空気にあてられているのかもしれない。
僕に話しかけられた少女は妙に落ち着き払っていた。地面にくっついた視線をゆっくり剥がすようにしながら顔を上げる。眼鏡をかけた少女の顔は前髪で覆われて隠れてはいるけど、隙間から垣間見えるパーツ一つ一つが整っているようにみえた。可愛いではなく綺麗の部類に入る顔立ちをしていると推測される。
ただし、肝心の本人にその自覚がないのか、美容へあまり手入れが行き届いていないようにみえた。黒髪で肩の下まで伸びた髪は癖があるのか内に畝っていて、目元も特にメイクを施された形跡がない。
逆に素材を引き立ているが、それはまるで開花の機会を逃した蕾のようだった。本来の鮮やかな色合の花弁を見せる事なく時間だけが流れている。そんな印象を受ける。
少女は僕の問いかけに答えるため小さな口を開いた。その声はなんて例えたらいいんだろうか。穴の空いた管楽器の音みたいに少し掠れていたけど、でも不快ではなくてむしろ聞き心地が良い。
「花びらの数を数えているんです」
「花びらって、足元のですか?」少女の丁寧な言葉につられ、こちらも自然と敬語になった。少女は「はい」と言いながら、また視線を足元へ戻す。また花びらの数を数えだしたようだ。
少女と自分の足元に視線を移す。木の枝から落ちた桜の花びらが無数に落ちている。この一枚一枚を数えているとするならば、かなりと根気と労力が必要になるに違いない。
どうして落ちた花びらの数を数えているのかという素朴な疑問を投げかけると、少しの間の後に「色々と」と濁された。
その僅かな間の意味するのが、単に理由を考えていただけなのか、数える邪魔をされて鬱陶しく思っているのかがわからずつい口を噤んでしまう。適当になにか言葉残してこの場から立ち去ろうとした矢先だった。
「一緒に数えますか?」
「花びらを?」
「そうです」
つい「何のために?」と聞き返してしまう。花びらを数えている少女の行動を全否定する言葉だと後になって気づくが、少女は気にする素振りのないまま「意外と楽しいですよ」と薄く笑った後に、まさに今思いついたと言わんばかりに目を見開いて「それじゃ勝負しましょう」と言った。その提案が素晴らしいものであると確信めいた表情に、ついたじろいでしまう。ペースは完全に少女に掴まれていた。
「勝負?」
「はい、勝負です」
「仮に勝負をするとして、勝敗はどうやって決めるんですか」
「そうですね・・・お互いの足元から半径50センチくらいに落ちている花びらの数が多い方が勝ち、とか?」
「僕に聞かれても困るんですけど」
距離を測定するメジャーが手元になく半径50センチくらいってのがそもそも曖昧だし、その後に「変色した花びらはノーカウントですからね」と追加ルールを持ち出してきた。どうやら僕が謎の勝負に参加する事が決定されているような言い方だった。
他に行き場もないし、ちょっとした暇つぶし程度の感覚で僕も花びらを数えることにした。実際花びらを数えてみると気の遠くなる作業でげんなりしたが、正面で真剣に花びらを数えている少女に吊られてしぶしぶ数を数え始めた。
地味な勝負の最中、ポツポツと会話もした(その際どこまで数えたかわからなくなるというのを二度繰り返したが)。どうやら彼女の名前は美雪と言うらしい。美しい雪と書いて美雪なのに、8月の生まれなんです、と自分の失態を恥じるかのように照れ笑いをした。「せっかくなので真波みたいな夏らしい名前にして欲しかったんですけど」
「逆に印象に残る紹介が出来ていいじゃないですか。僕は翔ですよ。羊と羽。ありきたりな名前ランキング上位の翔」
「翔とも呼びますし、素敵名前じゃないですか」
「どうせすぐに忘れるよ」
半分本気、半分冗談で言うと、彼女は「忘れないですよ」と笑ってみせ「ところで翔さんは何年生ですか?」と尋ねてきた。
「一年の新入生ですけど」
「あ、じゃあ私と同じなんですね。先輩かと思ってました」
「同じ年ですね」
年上の先輩に花びらの数を数えさせる君は凄いよ、と褒めたくなるのを堪える。彼女は皮肉ではなく額面通り言葉を受け取りそうだと思ったからだ。
会話をしているうちに、彼女も僕と同じように友人と一緒に新歓コンパに参加をしていたようだが、こっそり抜け出してきたようだった。「こういう場って、実はあまり慣れていなくって疲れちゃいます」。でしょうね、と喉まで出かかったが、それは僕にも言えることなので既で思いとどまることができた。
途中、ルールを明確するため落ちていた枝で互いの周囲に円を描いた。この円の中にある花びらの数で勝敗を決めようと僕が提案した。
花びらはかなりの枚数があり、一枚一枚を円から外しながら地道に数えていく。結構な時間を要したが互いに枚数を数え終えた。彼女が先に枚数を発表し、その後に僕が枚数を発表すると、彼女は「負けちゃいましたね」と悔しがる素振りもなく笑った。
達成感のない勝利とは別に、このやり取りが新鮮に感じられた。中学高校の時でさえ異性とここまで話をしたことはなかったが、彼女が他の子とは違う空気を纏っているのは何となく理解できた。
「ずっと下を向いていたら、酔が回って気持ち悪くなってきましたよ」
「未成年なのにお酒飲んでるんですか、不良ですね」と口では咎めるものの目は笑っていた。
気がつけば、新歓コンパも解散のための後片付けをしているようで、僕たちも「またいずれどこかで」と解散することになった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
そのいずれまたどこかというのが、新歓コンパからの一ヶ月後の午後だった。少し遅い昼食を買いに大学の近くのコンビニへ行こうとした時、信号待ちをしている彼女の背中が見えた。
なんて声をかけるべきか、そもそも声をかけていいものかも迷う。なんせ最後に会話をしたのが一ヶ月前だし、いまいち距離感が掴めない。なので、後方から一定の距離を取りつつやり過ごす方針に舵を切る。
とは言え前方に彼女がいるためどうしても視界には映る。観察するつもりはなかったが、彼女は車が横断歩道を通過する度に小さく頷き、だらりと下げた手の指を折っているのに気づいた。まさか、とは思ったが確認せずにはいられず声をかけてしまう。
「あの、車の数を数えているんですか」
急に話しかけられた彼女は一度肩を大きく跳ねさせた。長いまつげと琥珀の瞳が僕を捉えると、緊張した表情が氷が溶けるように徐々にやわらかいものになっていくのがわかる。なんだ、あなたですか、と心の中で言われている気がした。
「えと、お久しぶりです、その・・・えっと」眼鏡のレンズの奥にある少女の目が泳ぐ、理由がすぐに察した。
「翔ね、翔。羊に羽。ほら、やっぱり忘れてるじゃないですか」
「・・・すみません」
一ヶ月前の「忘れませんよ」と口をしたことを思い出したのか、バツが悪そうに肩を縮める。このまま煙草の箱くらいまで小さくなり、側溝の隙間に逃げ出しそうだ。
「別に忘れていたことはどうでもいいんだけど、夏生まれの美雪さん。車の数を数えてました?」
「え、あ、はい。どうしてわかったんですか」
「なんとなく。それにしても前は桜の花びらで今度は車ですか」
「赤信号で待たされているんだったら、いっぱい車が通ったほうがいいじゃないですか。そっちのほうが待たされ甲斐がありません?」
「待たされ甲斐って言葉がまず新鮮ですね」
ここで、「えっ」と彼女が取り乱した声を発した。「みんな車の数を数えないんですか!?」
「逆質問で悪いんだけど、どうして数えていると思って生きてきたの」
これがきっかけで僕は美雪に興味を抱き、せっかくだからと昼食に誘った。今までの僕からしたらなんて大胆な行動だったのかと驚くが、人が変わるタイミングなんて予兆など必要ないのかもしれない。
僕がランチメニューに決めると、「私も同じで」と彼女は店員に告げた。料理が運ばれてくる間、何かしらを数えるのが幼い頃からの癖だと彼女は語った。どうしてそんな事をするのかと訊くと、特に理由がなく無意識だから癖なんです、と言われ、確かにそんなものかと頷いてしまう。
ランチメニューのエビピラフが運ばれてきた。
「例えば、一緒に頼んだエビピラフの具のエビやグリーンピースなんですけど、一人で数えても比較する相手がいないから、友達と一緒にごはんを食べるときはできるだけ同じものを注文するようにしているんです」と
「具を比較するためにですか?」
「そうです」
「じゃあ、僕はエビやグリーンピースの数を数えた方が良いわけだ」
「い、今のはそういう意味じゃなく−−−」
「面白そうだからエビを数えるよ。花びらよりは随分簡単ですし」
彼女の言葉を制止して、米をスプーンでかき分けながらエビを数え始める。戸惑いながらも、彼女も同じようにエビの数を黙々と数え始める。傍から見ると、異物混入を探してクレームをつけようとしている二人に見えるかもしれないなと可笑しな気持ちになった。
結果から言うと、僕が13個で彼女が10個。彼女に盛られたピラフの方が3つもエビが少なかった。けど、彼女は恥ずかしげではあるものの満足そうに「ご協力ありがとうございます」と小さく頭を下げた。
「あれ、『私のピラフが3つもエビが少ないんですけど』ってクレームは入れないの?」
「入れませんよ。損得とかの目的で数えていたわけじゃないですから」
「じゃあどうして?」
そう訊くと、彼女は店内でぐるぐると回っている天井に吊るされたダクトファンを見上げながら「癖に理由はないですし、強いて言うなら知りたかったから?」と首をかしげた。
それから僕たちは連絡先を交換し、始めたバイトと授業の時間を調整し、休日に二人で会う関係になっていた。打ち解けるに従い互いに敬語も綺麗サッパリなくなっていて、何度か会う回数を重ねるたび自然と互いを意識した。
8月。彼女の生まれた月に二人で花火を観に行った。鮮やかな花びらが夜空に咲いている最中、横に座る彼女と視線が合う。示し合わせたわけじゃなく、そうするべきだという義務感が生まれたわけでもなく、当たり前のように僕たちは唇を重ねた。
僕と美雪と交際が始まった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「やっぱり私も頑張った方が良いのかなぁ」
付き合い始めて一年が経ったある日、街を歩いていると唐突に横を歩く美雪が口にした。綺麗に髪を整え、服にも気を使った同世代であろうの華やかな女子の集団と通りすがった後だったので、すぐに言わんとしていることは理解できたが「何を?」と惚けてみる。
「おしゃれだよ。突然マラソンランナーになるために頑張ろうかなって言うと思う?」
「僕は応援するよ」
「ありがと。で、本題なんだけど、私って眼鏡かけてるし他の子と違ってメイクも服装も地味だし一緒に歩いてる翔くんに申し訳ないなぁって」
「僕だってイケメンじゃないし」
正直に白状するならば美雪は服装もメイクも髪型も控えめだ。「眼鏡=地味」というのは偏見だけど、確かにそれが一層地味さに拍車をかけているのも事実かもしれない。
初めて出来た彼女で過去に女の友達すらいなかったので、こういう時に気の利くセリフが出てこないの自分に幻滅した。何か歯の浮くような言葉を涼しい顔で並べられたらいいのにな、と考えてしまう。
「いまどき変だよね、服に興味がないって」
「別に変ではないよ。意外といるもんだよ多分」
「そこは断言してくれないんだ。ま、そこが翔くんらしいんだけどさ」
「本当に僕は気にしてないし無理をする事もないんじゃないかな。むしろ美雪がそういう事を気にしてるってのに驚いたかも」
「知ってる?私だって女の子だよ翔くん」
強がってか美雪がグーを作り僕の肩を軽く叩く。この何気ないやり取りの中で、美雪が大きな決意を抱いている事に気付かされたのはそれから一週間後の事だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
その日は高校からの友人と講義が被り、その後に学内の食堂で昼食を食べることになった。なんだかんだで長い付き合いだが、僕とは違ってよく色んな女の子と遊び歩いているタイプの人間だった。
友人は僕が美雪と付き合っている事は知っているが、「彼女さんどんな顔だったっけ?」と失礼極まりない発言をしたのは実は結構根に持っている。そんな友人が今度彼女も一緒に紅葉でも見に行こうと急に提案を持ちかけてきたから、警戒するのは当然だ。
「何が狙いなんだよ」
「今連絡してる子が紅葉見たいって行ってて。でもまだ二人っきりで誘うには早い距離感ってあるだろ?でもWデートだったらOK貰えそうだから頼むよ」
「僕らをだしに使うな。顔も覚えていないヤツに誘われる美雪に失礼だろ」
「細かい仕方ないだろ、お前だってきちんと紹介してくんないし学内でも見かけないんだからよ。ってか本当に実在すんのだって疑わしいくらいだね」
「本当にお前ってよく失礼な事を平気で言えるよな」
「まぁまぁ、細かい事は別に気にしなくてもいいんじゃ・・・」
友人にうんざりしていると、正面を座る友人が途中で会話を止め僕の背後に視線を向けている事に気づいた。友人は好みの女の子がいると会話と止めてその子に視線を向ける傾向にあるが、今がまさにそれだ。
「翔くん」
背後から美雪の声が聞こえた。学内は普段あまり顔を合わせないし、学内では僕に話しかけるのをどこか遠慮している節があった。そんな美雪から名前を呼ばれたので驚き後ろを振り向く。
そして僕は更に驚いた。照れながら立っている美雪が一週間前とは比べ物にならない程見違えていたからだ。コンタクトに変えたのか眼鏡は外していて、服装もいつもと違う。女性の服の知識がないので詳しくはわからないけど、花柄のワンピースに腰にはベルトが巻かれ、そのおかげでくびれの細さがよくわかる。あとついでに胸部の膨らみもいつもより主張が強い気がする。
肩の下まで伸びただけといった内側に畝るいつもの癖毛はパーマがあてられていて、前髪もきちんと作られている。おまけに黒髪からブラウン系の色に染められていた。
メイクは相変わらず控えめだが、派手すぎず全体としてのバランスが取れていた。
「その、変じゃない?」
自信のない試験の結果を尋ねるような様子で美雪が僕に問う。まさに言葉を失いただコクコクと頷くし事しか出来ずにいた。呆然する僕に小声で友人が話しかけてくる。
「翔、誰だよこの美人は」
「・・・美雪だよ」
「いいから正直に話して見ろよこら」
「だから美雪なんだって。僕も正直動揺しているんだ」
そこで友人が不躾に「翔と付き合ってる美雪さん?」と美雪へ尋ねると、美雪は「そうだけど?」と目を丸くしながら首をかしげた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
その後の後処理が大変だった。
友人だけを相手にするならまだしも、他の大学の連中にも色々質問攻めにあわされ、暗闇の中からスポットライトを当てられたように一瞬で周囲からの嫉妬の対象となってしまった。
愚痴を美雪にこぼすと、大きなため息と一緒に「私もこんな事態になるとは思ってみなかったから、加害者じゃなくて同じ被害者だよ。知らない人に声をかけられたり周囲からの視線が気になって授業に集中できないし」と漏らした。
適当に入ったカフェで美雪へ愚痴を言ってはいるが、もちろん本気で迷惑だなんて思っている訳もなく、むしろこの状況に対して優越感を抱いていた。新婚コンパで一人桜の木の下で花びらの数を数えていた目立たない人物が、実は周囲から目を引かれる美人でしかも僕の彼女なんだから。
美雪を初めて見た時、もともと整った顔の作りをしているのでいつかこんな日が来るんじゃないかと予感はしていたが、それは正しいものとなった。変貌前の彼女は水墨画で描かれた花だとすれば、今は水彩画で描かれた鮮やかできらびやかな花といったところかもしれない。
いずれにせよ今後何か面倒事に巻き込まれないか不安にはなる。友人絡みなんだけど。それ以外にも懸念は色々とあるが、僕自身のハードルがぐっと上がったのは間違いないだろう。
「僕、美雪みたいに髪型を変えたり服装を変えてもイケメンになんかなれないんだけど」
「今のままの翔くんで十分だけど」
「そうは言ってもなぁ」
いずれにしても彼氏としては鼻が高いが、その分不安も付きまとってくる。変な男に声をかけられたりしないか、急にモテだしたりしたら美雪の性格が他のイケメンに乗り換えられたりしないか。
とにかく、今までの美雪ではなくなってしまうかもしれない。そんな想像がしんしんと頭の中に降り注いでは積もっていった。
けど、僕の心配を他所に美雪の性格が変わる様子はなかった。見た目が変わると急に明るくなったり活動的になる話も耳にしたことがあるけど、数ヶ月が過ぎた今でもその予兆すらみられない。
この日も訪れた水族館で水槽の中を泳ぐ鮮やかな熱帯魚の数を、相変わらず指を折り小さく頷きながら夢中で数えている。
「38匹かな?翔くんは何匹だった」
「41匹。3匹も違う」
「ちょこちょこ動くから数えにくいよね。魚と魚が交差したと思ったら反転してまだ数えていない魚と区別がつかなくなった、わーってなっちゃう」
楽しそうに美雪が喋る。水族館の楽しみ方としては間違った方向ではあるけど、いつも通りの美雪らしさに安心して軽口を叩いてみたくなる。
「数える事でこんなに楽しそうにするんだから地球に優しいエコだよね、美雪は。世界中に美雪を植えたらいろんな環境が改善しそうだ」
「私植物になってる!?それに翔くんは何もわかってないよ」
「何をわかってないの」
「数というのはね・・・」ここで美雪が無駄にタメを作ってから再び口を開く。「『何を数えるか』じゃなくて『誰と数えるか』だよ」
言った美雪がドヤ顔だったが、割と様になっているのが若干イラっとしたので「初めて聞く格言ですね。あの日一人で花びらを数えてたじゃないですか」と反論してみると、「それはそれ、これはこれ」とジェスチャーを交えて美雪も返す。
なんだそれと僕は笑い、そんな美雪を愛おしく思いつい頭を撫でた。美雪も慣れた猫のように目を細める。人目をはばからずこんな事をする僕たちは相当浮かれているんだろうなと思いつつ、事実幸せな気持ちで溢れている。ダムならいつ決壊してもおかしくないくらいに。
いつまでもこの幸せが続けばいい。世の中のどのカップルも一度は願う事を僕も願う。そしてきっと別れるカップルとは違い僕たちは特別で、ずっと一緒にいるんだと信じていた。結果からすると、数年後に僕たちは別れる事になるが、結局は特別でもなんでもなく、工場で生産されるようなありふれたカップルに過ぎなかったんだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
大学を卒業してから三年の歳月が流れ、社会人となり社会の歯車の一部になった。
今日も残業を終え電車に揺られながら帰宅をする。つり革に捕まる僕の正面には中年のサラリーマンが座りながら寝息を立てており、その寝顔には苦労や疲労が滲んでいた。その姿をみると、否が応でも日中の事を思い出してしまい、自然とため息が漏れる。
丁度目の前のサラリーマンと同じくらいの年齢の上司に、仕事の件でこっぴどく怒られた。発注に必要な備品の数を数え間違え、そのまま取引先に納品するという新人でもおこさない小さなミスだった。
その場で謝ればそこまで被害は広がらず、最悪でもボヤ騒ぎ程度で済まされた。けど、そのミスを上司は周囲に知れるのが恥ずかしく、報告をせずに黙っていた。取引先から何も音沙汰がなければ発覚はしない。発覚さえしなければミスではないのだ。
胸焼けしそうなほどの甘ったれた計画は、取引先からの一本の電話で難なく破綻した。会社の周辺を走ってきたんですか、と聞きたくなるくらい顔を赤くした上司から30分程説教を受けることになる。
なぜ何度も同じミスをするんだ。なぜすぐに報告しない。気持ちが弛んでる。要約するとこんな内容だが、最近入社をした新人の目の前で怒られるのは、心を直接刺されるみたいで一番辛かった。
我慢出来ず、最寄り駅から降りてすぐのコンビニで酒を買った。帰路を歩きながら黒々とした気分を、麦を発酵させた液体と一緒に体の中に流し込む。
付き合ったばかりの新しい彼女ともうまく行かずにすぐに別れた。ここ最近ずっと良いことがない。少しでも落ち込んだ気分を変えたくていつものルートから逸れた道で帰ることにしてみる。
すると小さな公園があり、何本かの桜の木が花を咲かせていた。白桃色の桜の花びらが外灯に照らされ、月明りみたいに白く発光しているように見える。
その神秘的とも言える景色を眺めていると、昔付き合っていた恋人を思い出してしまう。桜の木の下で落ちた花びらを数えている不思議な人。何にも流されず誰にも媚びず僕を好きと言ってくれた人。
別れた原因はもちろん僕で、彼女が学内で他の男の人と話しているところを目撃し、その日に喧嘩をした。子供みたいな稚拙な理由だと思うだろ?
あの頃の僕は余裕もなくどうかしていた。冷静じゃなかったんだ。
美容を意識して綺麗になった彼女が周囲から注目を浴びる一方、僕は地味な男子のまま。釣り合っていないだとか、なかには僕が金で彼女を買っている、という噂を流す輩までいた。彼女は気にしてないと言っていたけど、僕は周囲から天秤にかけられているようで息苦しかった。今にして分析するのであれば、劣等感に近いもしれない。
だから、学内で君が他の男子と話しているのを見かけた瞬間にどうしようもなく焦った。君が僕じゃなく他の格好いい男子を選ぶのなんて、季節がめぐるのと同じように自然の摂理で、すぐに手元からするりと離れていくんじゃないかって怖くなった。
それで君にあらぬ疑いをかけて責めた。僕の余裕のなさを隠し、鬱憤を晴らしたかっただけなのに君を悪者にした。否定して「翔くんが一番だよ」と安心できる言葉を君の口から聞きたかった。安心したかった。
でも何かが狂い始めていた僕はもう手遅れで、君の連絡先を消した後はかけなしの貯金をはたいて引っ越しをした。君との思い出が詰まった場所に留まるのが嫌だったし、何度も体を重ねたベッドで一人眠るのが耐えられなかった。
それから二人で会うことはなかったし、学内で君を見かけることはなかった。
ふと思い出す。そういえば君は僕にこう言ったっけ。僕は将来立派な社会人になるとかならないとか。
君は笑ってくれるだろうか。報連相もろくにできずに、備品を数え間違え誤発注した挙げ句上司叱られ、缶ビール片手に夜の桜を眺めながらひとり過去を懐かしんで、同時に後悔をしている今の僕の姿を見た君は。
数を数えるのは大嫌いだ。君と離れ離れになった日数なんて知りたくないし、もう仕事で物を数える作業は誰かに任せる事にしよう。
ビールを飲み干した空き缶を遠くからゴミ箱に投げ捨ててみるものの、軌道が外れ縁に当たりカンという音を立てて地面に転がる。仕方なく拾いに行こうと重い足を動かすと、ため息交じりで「相変わらずだなぁ、翔くんは」という声が背後から聞こえた気がした。
そんなわけがないと頭では理解しているが、どうしようもなく後ろを振り向きたい衝動が抑えられなくなる。砂の擦れる足音も聞こえたので、僕は思い切って振り返ってみた。
春の冷たい夜風が僕たちを撫でた。
連載中の作品は時間があれば(ない)執筆再開しようかなって考えてます




