第4話 追いつめられたもの
凛人視点です。
後書きに作者のラフ絵を含む人物紹介があります
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「どうして私、あのまま眠ってしまったんだろう」
あのとき、目を覚ましてさえいれば。兄を引き止めて、行かないで、連れていってと言えていれば。
天音が悔やむようにつぶやくのを聞きながら、俺は机の引き出しの奥底から見つけた薬シートを、手の中に握り込んだ。
目を覚ませたはずがない。風雅の言葉の意味がわかったところで、引き止めることも追うこともできないよう、眠らされていたのだから。
ゆうべ風雅が用意したという茶に、眠剤を盛られていたのだろう。飲みつけないハーブティーに混ぜたのなら、多少変わった味やにおいがしたとしてもわからなかったに違いない。
天音は本来、眠りが浅く寝覚めも良いほうだ。それがあれだけチャイムを連打してなかなか応答しなかったのも、眠っていたというよりは薬によって意識を消失していたせいだろう。
風雅は自身が逃げおおせるために、どうあっても天音をここに残していかなくてはいけなかったのだ。
にもかかわらず失踪の発覚を早める危険を冒してまで俺に電話をよこしたのは、誰よりも早く俺に天音を保護させるためか。先に分家のやつらに知られでもしたら、天音がどうなるかなんて想像に容易すぎて考えたくもない。
風雅は優美で繊細な外見に反して、抜け目のないしたたかな男だ。つねに冷静沈着で頭もキレる。衝動や突発的な思いつきでこんなことをしはしない。おそらくずいぶん前から綿密に計画していたのだろう。天音にも、この俺にすら悟らせずに。
俺に一言の相談もなくこんなことをしでかして、そのくせ都合よく利用だけはしようというのか。こちらの信頼は裏切っておいて、それでなぜ俺が思惑通りに動くと思えるのだろう。馬鹿にしている。
まんまとあいつの狙い通りに行動している自分にも腹が立つ。それでも、こうなってしまった以上は仕方がない。
「天音」
こっちに来いと言おうとして、やめる。見れば、泣いていた。声も出さずに、空を見つめて静かに涙を流している。
思わず舌打ちしそうになったのを、どうにかこらえた。たったひとりこの世界に取り残されたみたいな顔をして――実際そんな心境なのだろうが――寄る辺なく泣かずとも、俺がそばにいるのだから、すがりつくとかすればいいものを。
歩み寄って、なめらかな頬を伝う涙を指先ですくい、まなじりに溜まるしずくを拭ってやる。そうしてやってようやく、天音ははっとしたように寝衣の袖で目もとを擦った。もしかして泣いている自覚がなかったのだろうか。
「擦るな。腫れる」
近くにあったティッシュを数枚引き抜いて、軽く押し当ててやる。どこかぼんやりしているのは薬の影響か、ショックを受けたせいか、その両方か。
少しうつむいたその顔は、血の気が失せてまるで白磁のようだ。生来の端整さも相まって、人形めいて見える。頬にすべらせた指に柔らかさとぬくもりを感じなければ、本当に作りものだと思ってしまいそうだ。
「凛人」
薄紅色をした形の良いくちびるが、俺の名を紡ぐ。
「兄さんは、どうして」
どうしてこんなに突然に、いなくなってしまったの。
空気に溶けて消えていきそうな、か細い声で、天音が俺に問いかけてくる。
風雅はこの一年、本家で起きていた一切合切を、なにひとつ天音には伝えていなかったのだろう。そのあたりの事情説明まで押し付けられたのかと思うと、本当に腹が立つ。
「爺さんが死んだ直後から、風雅はおまえの引き渡しを再三迫られてたんだよ」
そう切り出せば案の定、天音は驚いたように目をしばたたかせる。
「私を? どうして、だって、どれだけ早くても、二十歳までは待つって」
「ああ、そうだな。そういう約束だった。けど、事情が変わった」
次期当主だった叔父が一昨年、当主の爺さんが去年死んで、神門の直系はもう風雅と天音のふたりだけになった。そのうえふたり揃って子どもどころか結婚も、婚約すら調っていない状態ときた。
一般的には十代・二十代の若者が結婚していないなんてよくあることだ。だが血統を重んじ、代々直系を当主に据えて存続してきたこの一族にとっては一大事だった。
「風雅自身の結婚も、急かされてた。ずっと」
両親と祖父を立て続けに亡くして、さすがに風雅も憔悴とまではいかずとも気落ちを隠せずにいた。
そんな風雅を、神門の親族は慰めも励ましも支えもしなかった。直系の兄妹ふたりがいまだに独身であることを責め、一刻も早く結婚をと迫り立てたのだ。
それは爺さんの葬儀の最中から始まって、法要などで風雅が本家の屋敷に立ち寄るたびに執拗にくり返されていた。
「どう、して。そんな、ひどいこと」
本当にひどい話だ。喪中だということも、風雅自身の精神状態も、一顧だにされることはなかった。
もっともこの神門という家は、当主や直系に人格や感情があるなんてことを認めずにきたから、今日まで続いてきたのだろうが。
ともあれ、爺さんの一周忌も終わって喪が明けた今、風雅は『答え』を示した。
神門の家はもちろん、なにもかもすべて、なによりも大切にしていた天音さえも捨てて逃げるという行動でもって。
天音に関しては、俺がどうにかすると考えたのだろうが。
神門の内部で、俺の立ち位置はけっして強くない。
父方の叔母が直系に嫁いだことで風雅たちとは従兄弟になり、乳兄弟でもあったことで優遇され、爺さんにも目をかけられてはいた。
俺がもともとは天音の姉、花音の許婚に定められていたのもそのためだ。
けれど叔母も爺さんもすでに亡く、風雅までもがいなくなった今、それらの後ろ盾をなくしてしまえば俺はただの遠縁でしかない。
四人いる天音の夫候補の中では最も神門の血統から遠い。ともすれば本家に出入りすることさえ叶わなくなるだろう。
唯一の救いは爺さんの遺言が、いまだ有効なことか。『天音の夫選出に関しては本人の希望があればそれを第一とする』という。もっとも、それすらも天音が俺を選ばなければ意味がない。
選ばれる自信が、俺にはあった。だがそれも三年前までのことだ。
三年前に本家の屋敷で起きたあの忌まわしい一件は、天音にとってひどい心の傷になり、おそらくそれはいまだ、癒えてはいないのだろうから。