第3話 去るものと残されるもの
後書きに作者のラフ絵を含む人物紹介があります
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すぐ携帯にかけ直したけどつながらなかった。だから直接ここに来たんだ。
凛人がそう言うのを聞きながら、私は兄の携帯電話を手に取り、開いた。電源が切られている。これではつながらないはずだ。
「どういう、こと? 兄さんは、攫われるかなにか、したの?」
兄が外出時に持ち出すようなものは、なにひとつなくなっていない。携帯電話どころか、小銭入れすら置かれたまま。兄は身ひとつで連れ去られたのだろうか。
「察しが悪いな。それともわからないフリか」
凛人の苛立ったような声色に、身がすくむ。私の手から取り上げた携帯電話の電源を入れ直し、ロックを解除して操作しながら、こちらを横目で見てくる。
「逃げたんだよ」
「そんなはず」
そんなはずはない。兄が私を置いて逃げるなんて、そんなこと。
だって兄はいつも言っていた。私に、そばにいろって。姉や父たち、祖父のように、いなくならないでくれって。ここに、ずっといろって。
ゆうべだって、あんなに優しく私の名を呼んで、呼びながら――。
「……あ」
耳もとでささやかれた兄の言葉が、不意によみがえる。
でも、あれは夢だ。あんなこと、兄が言うはずがない。あのとき私はもう眠ってしまっていて、だからあれは夢で、現実のことじゃない。
「思い出したのか」
兄の携帯を耳に当てていた凛人が聞いてくる。それに私は首を横に振った。
「なにも、言われてない。だって、夢だもの」
「そうか。じゃあもう一度聞け」
なにをだろうと思っていると、凛人が兄の携帯画面をこちらに向け、なにかのアプリの再生ボタンをタップする。
『天音』
聞こえてきたのは、兄の声。押し殺したようなかすれた声は、ひどく聞き取りにくい。凛人が音量を上げて、私の耳へと近付けてくる。
『許してくれとは、言わない。許されるはずもない。だけど、ごめん、天音』
「なに、これ」
なぜ、夢の中で聞いたはずの言葉が、今また聞こえてくるのだろう。
『おまえは、どこへも行くな。ここにいてくれ。俺の代わりに。……アマーリエ』
「なんなの、これ」
「風雅がゆうべおまえに言った言葉だろう。夢なんかじゃなく、おまえが現実に聞いた言葉だ」
頭を振る。そうじゃない、そういうことじゃなくて。なぜ私の部屋で兄が言った言葉が、兄の携帯電話から再生されるのだろう。
「おまえの携帯が拾った音声は風雅の携帯に転送されてる。おまえ枕もとに携帯置いてるだろう。四十八時間以内の音声は全部ここに残ってる」
凛人がふたたび携帯を操作する。少しして聞こえてきたのは、ゆうべの私と兄の会話だった。
「盗聴……? なんで、凛人がこのこと知ってるの」
「俺がおまえと風雅の携帯にアプリを入れたから。風雅に頼まれてな」
兄には携帯の位置情報で、居場所を把握されているのは知っていた。けれど盗聴までされているとは思わなかった。
私は携帯電話の機能には疎くて、設定やらなにやら面倒なことは兄や凛人に任せていたから、いつでも仕込むことができたのだろう。
三年前の本家での騒動のあと、祖父が私の監視を兄に一任すると決めて、そのおかげで私はあの家から出ることができた。今の携帯電話はここに移ったときに持たされたものだから、もしかしたらそのころから今まで、ずっと盗聴されていたのかもしれない。
まぶたが熱を帯びる。ゆうべ、あの言葉のあと、兄のくちびるが触れていった所。
名を、呼ばれて。日本に来てから付けられた名ではなくて、祖国での名で、アマーリエと呼ばれて、まぶたに口付けられたから。初めて会ったときのようにそうされたから、私は兄の言葉を、夢だと思ったのだ。
「どうして」
初めて会ったあのとき、言ったのに。
知らない国に連れてこられて、知らない人たちに囲まれて。聞いたこともない言葉で口々になにかを言われて、わけがわからなくて泣きだした私を、抱きしめてなだめてくれたひと。
優しい声で同じ言葉をくり返しながら私の名を呼んで、私のまぶたに口付けしてくれたひと。
色素の薄い髪と瞳をした、ひどくきれいな顔のそのひとが、私とは父親を同じくする兄なのだと知ったのは、少ししてから。
そして兄があのときくり返していた言葉が「大丈夫だから、泣かないで」「俺が守るから」という日本語だったと理解したのは、さらにもう少ししてから。
ふと窓の外を見ると、雪はいつの間にか本降りになっていた。兄が嫌いだと言っていた雪。雪はみんなを連れ去っていくからと。
部屋を見回す。なにひとつ、なくなっていない部屋。兄の匂いが残る部屋。
去年の今ごろ、雪を見ながら私にいなくなるなと言ったのは兄だったのに。それなのに兄自身は、愛用の品もなにもかも、私さえも置き去りにして、ここを出て行ったのだ。