第2話 早朝の訪問者
どこか遠くで鳴り響いているように思えたそれが、連打されているチャイムなのだと認識できるまでに、少しばかり時間がかかった。
寝足りないのか、ぼんやりとする頭を押さえながら起き上がる。時計を見れば、時刻はまだ六時にもなっていない。
いったいどこの誰が、こんな早朝に訪ねてきたのだろう。
放っておいたら諦めるのではと思ったけれど、チャイムが鳴らされる間隔は短くなるばかりで、一向にやむ気配がない。どうやらこちらが応答するまで帰る気はないようだ。
仕方なく部屋を出て、リビングのインターフォン画面を確認する。そこに映っていたのは、従兄の凛人だった。
画面越しですら伝わってくるような苛々とした様子に、ためらいつつも通話ボタンを押す。
「……はい」
「遅い! いつまで寝てんだ、さっさと開けろ!」
響いてきた怒声に、思わず耳を押さえる。こんなに朝早くに押しかけてきた人が言う台詞だろうか。
エントランスドアを解錠してから通話を切り、玄関に向かおうとして、まだ寝衣のままだということに気づいた。自室に戻ってストールを羽織ったところで、今度は玄関のチャイムが連打される。
「あの。こんな時間に、騒がしくしないでもらえますか」
文句を言いながら玄関ドアを開けると、伸びてきた手に肩を掴まれた。
「風雅は!? あいつどこ行きやがった!」
「は?」
兄が、なに?
訳がわからずに立ち尽くす私を、邪魔だとばかりに押しのけて、凛人が家に上がり込んでくる。
「ちょっと」
止める間もなく、まっすぐ兄の部屋へと向かっていくその後ろ姿を、慌てて追いかける。言われてみれば、これだけ何度もチャイムを鳴らされて、兄が応対に出てこないというのもおかしい。
凛人が断りもなく開け放った部屋に、兄の姿はなかった。いつも兄の出勤時間は七時半ごろ。この時間はまだ家にいるはず。なのに。
何か予定があって、早くに家を出たのだろうか。
それにしては外出時には持ち出されるはずの、財布や携帯電話、鞄などは、すべて定位置に置かれたまま。そもそも、兄が私になにも言わずに外出したことなど、これまで一度もない。
室内を見回していた凛人が、クローゼットを開けて私を手招く。
「なにか、なくなってる物はあるか」
問われて、戸惑いつつもクローゼットの中を検める。
吊るされているものや棚に置かれているもの、引き出しや収納ケースの中、鞄や靴、装飾小物。私が把握している限りで、なくなっているものなど何ひとつない。
「なにも、なくなってないと思う」
私がそう答えると、凛人は顎に手を当てて、なにかを考えるような素振りをする。いったいなんなのかと聞こうとして、彼の髪や肩に、水滴がついているのに気づいた。
「凛人、濡れてる。雨?」
言いながら、タオルを取りに行く。雨が降っているなか、傘もささずにうちに来たのだろうか。
「いいや。雪だ。まだたいして降ってない」
ぱらつく程度の雪なら、傘をさしてもあまり意味がないかもしれない。
タオルを差し出すと、凛人は受け取らずに身を屈めてくる。私に拭けということだろうか。面倒だなと思いつつも、広げたタオルを濡れた頭や服にぽんぽんと押し当ててやる。
「天音、ゆうべ風雅は帰ってきたんだよな?」
「え、うん。帰ってきた、けど?」
昨日は祖父の一周忌だった。朝早くから本家へと出かけていった兄は、夜、私がひとり夕飯を終えるころにようやく帰ってきた。二十時を少し過ぎたころだっただろうか。
食事は本家ですませたというし、だいぶ疲れている様子だったので、部屋に入っていく兄を見送って、私も自室で静かにしていた。
「そのあとは? そのまま寝たのか」
そろそろ寝なくてはと思ったころに、兄がお茶を持ってきてくれた。たしか二十三時ごろ。
「茶?」
「うん。ハーブティー」
最近、手足が冷えてあまりよく眠れないと私がこぼしていたのを、兄は覚えていてくれたのだろう。血行と寝つきが良くなるというブレンドハーブティーを買ったから試さないかと、いれて持ってきてくれたのだ。
私の部屋で兄もいっしょに飲みながら、少し話をしていた。
「どんな話をした」
「どんなって……」
なにを話しただろう。
ああ、たしか、兄に謝られたのだ。私を本家に連れていけなかったこと。祖父の葬儀や一周忌に参列させられなかったことを。
そんなこと、気にしたこともなかった。
日本に連れてこられてから暮らしていた本家を、兄とともに出てこのマンションに移って以降、私が本家に立ち入ることはほとんどなかった。たとえ父たちや祖父の葬儀があっても。むしろ神門の親族が集まるときほど、近寄りたくはない。
父たちのときは突然だったけれど、祖父のときは予兆があったから、密かに呼ばれて会いに行った。そのときに最後の挨拶はすませていたから、それでじゅうぶんだった。死んでしまって、言葉も交わせない状態で対面しても、なんの意味もないのだから。
むしろあの口うるさい爺どもに、兄がなにか無茶を言われたりされたりしていないか、そちらのほうが気がかりだった。
「それで、聞いたの。兄さんは大丈夫ですか、って」
兄は微笑んで、私の頭を撫でながら「大丈夫だ」と言った。「俺は、大丈夫だよ。天音はなにも気にしなくていい」と。
私はなにも気にせず、ここにいてくれれば、それでいいのだと。
実際、私が兄にしてあげられることなんて、なにもない。私にはなんの力も権限もなく、なにもできはしないのだから。
「そんなことを話してたら、眠くなったの。すごく」
ハーブティーが効いたのだろう。ものすごく眠くなってしまって、兄に促されて、横になった。
「それでおまえは、眠ったのか」
「うん。……あ、でも」
兄がなにか、言っていた気がする。私は眠くて、もう目も開けていられなくて、だからあれは、夢、だったかもしれない。
「なんて。なんて言ってた。思い出せ」
「ええと……」
名前を、呼ばれていた気がする。それは起こすためではなく、ただ、ささやきかけてくるように。髪をゆっくりと梳かれながらそうされて、ひどく気持ちがよかった。けれど。
「しずく……」
「え?」
頬に、なにか触れた。あたたかな、しずく。
あれは、涙だったのだろうか。兄が泣いている、そう思った。どうしたの、と聞いた気がする。声になったかはわからない。
耳に、兄の吐息がかかった。なにか、言っていた。なにかを言われた。なにを? あのとき、兄はなんと言っていた?
「凛人」
高い位置、兄とほとんど変わらない長身の凛人の、その顔を見上げる。
「兄さんに、なにがあったの。どうして、凛人はここに来たの」
いつもなら家にいる時間に、なぜ兄はいないのだろう。なぜこんな時間に、凛人はここに押しかけてきたのだろう。
私を見下ろす、蜜色の琥珀みたいな瞳が、わずかに揺らぐ。けれど視線をそらさずに、コートのポケットから取り出した携帯電話を開いて、私に見せてくる。
一件の着信履歴。公衆電話からだ。今どき、珍しい。
「これは、誰から?」
「風雅から」
ベッドのサイドテーブルには、兄の携帯電話が置かれたままになっている。なぜ携帯を持たずに、わざわざ公衆電話から、凛人に電話をしたのだろう。
兄は、なんて。なにを凛人に言ったのだろう。
聞こうとして、けれどそれを言えずにいると、凛人が先に口を開いた。
「天音を頼む、すまない。それだけ言って切れた」