第10話 浮上する関係者
凛人視点です。
「門叶を呼んだ。三十分……いや、あと二十分かそこらで来る」
「とかない、さん?」
玄関に出迎えに来た天音にそう言うと、俺のコートを拭いていた手が止まる。
まるで初めて聞いた名だといわんばかりの反応だ。天音は門叶とは面識がなかっただろうか。いや、彼はいつも爺さんのそばに付き従っていたはずだ。爺さんには可愛がられていた天音が見たことがないはずはないのだが。
「爺さんの側近の」
「ああ、マコじいね」
天音が思い当たったように言う。いや、マコじいって。確かに名前は誠言だが、あの人をそんな砕けた呼び方できる人間が爺さん以外にいるとは思わなかった。変なところで怖いもの知らずなんだなと驚く。
こんなにすぐ時間を取ってもらえるとは思わなかったので事後報告になってしまったが、俺が出ているあいだに天音も着替えていたし、問題ないだろう。
「凛人、ちょっと屈んで」
頭に手が届かない。そう言われて、身を屈める。髪が乱れないよう気を使ってくれているのか、やけに柔らかにタオルが押し当てられる。
「髪、束ねちゃったのね」
「うん?」
「香水も、つけてる?」
「ああ」
今朝は急いで出てきたからそんな暇がなかっただけで、普段は髪をくくってたし香水もつけてた。そんなことも忘れられてしまうくらい、離れていただろうか。
なにやら落ち着かなげに視線をさまよわせていた天音が、俺の顔を見上げる。
「あのね、私ね」
ようやく口を開いたそのとき、キッチンのほうからタイマーと思われる電子音が響いた。俺にタオルを押し付けた天音が慌てた様子でそちらへと去っていく。
濡れたタオルを洗面所の洗濯カゴに放り込み、ここに泊まるときに使っていた客間に荷物を置いていると、天音に呼ばれた。
「ごはん、食べるかなと思って、作ったんだけど。マコじいが来るなら、あとにする?」
ダイニングテーブルの上には二人分の食事が用意されていた。戻ってくる大まかな時間は伝えていたから、それに合わせて作っていてくれたのだろう。そういえば俺も天音も、起きてからなにも食べていなかった。
「いや、先に食べよう」
せっかくの天音の手料理だ。腹も減っているし、あたたかいうちに食べてしまいたい。
そう言うと、ほっとしたようにパンとスープを運んでくる。さっきのタイマーはパンの焼き上がりを知らせるものだったようだ。
向かい合わせに席について、食事を始める。
ふと、天音とふたりきりで食事をする機会なんてそうそうなかったな、そんなことを思う。いつもは大抵、風雅も一緒だった。これからは風雅のいない風景に慣れていかなければならないのかと思うと、気持ちがふさいでくる。
天音の料理をじっくり味わいたいところだが、門叶の来訪が迫っていることを思えばのんびりしている時間はなかった。あっという間に食べ終えた俺を見て、まだ半分どころか四分の一も食べていない天音が驚いたように目を丸くしている。
「門叶の応対は俺がするから、おまえは慌てずにゆっくり食べてろ」
俺の言葉に、天音がこくこくとうなずいて食事を続ける。
パンでもソーセージでもなんでも、ほとんどのものを天音はフォークとナイフで一口大に切り分けて食べる習慣がついている。中学のころに階段からの転落事故で負傷したあと、麻痺の残った左腕のリハビリがてら始めたことだ。
事故から五年近く経つ今でも握力はそれほど戻らず動作はゆっくりで、よく咀嚼することもあって天音の食事は時間がかかる。それでも食べるペースの違いをじれったく感じたことはない。小動物がせっせと食事しているのを眺めている気分になるからだろうか。
よく見れば、ごく薄くだが化粧をしていることに気づいた。中学生のころはせいぜい色付きリップくらいだったように思うが、化粧をするような年齢になっていたのだと思い至る。
さっきは寝起きで素顔だったはずだが、化粧をする必要なんてないくらい、白くてきれいな肌で……。
「あの。なにか、ついてる?」
天音に言われて、いつの間にか手を伸ばして頬に触れていたことに気づいた。いや別に、と濁して手を下ろす。
「あの、さっき」
「うん?」
「出かける前、玄関で、あの」
玄関で? なにかあっただろうか。ああ、もしかして口付けたことを言ってるのか。額にするつもりでいたものを、天音に目を閉じられたのでくちびるにしてしまったのを思い出す。
「手は出さないって、言ったのに」
「おまえがどうしてもって言うなら、と言った。おまえは嫌だとは言わなかったからな」
寝室も一緒でいいんだろ? と聞けば、顔を赤くしてなにか言いたそうにしている。
昔から、天音は話し言葉が達者ではない。日本に来てまだ間もないころ、不慣れな日本語の発音や言葉選びを、同級生の心ない悪意で揶揄われ嘲笑されたせいだろう。言いたいことがあるときほど、言葉につまって話せなくなる。今のように。
そもそも結婚するまで手を出さないと言ったのは、天音の通う高校では在校生徒の婚姻と出産を校則で禁じているからだ。発覚すれば即退学処分になる。出産に関しては、予定日が卒業後であれば見逃されるらしいが。
たとえ今すぐ手を出して、天音が妊娠する事態になったとしても、約二ヶ月後の卒業にはなんの影響もない。婚前交渉自体は禁じられているわけでもない。
……なんてことを言ったら、泣かれそうだ。
こっちはもういいかげん十年近くもお預けを食らっているのだが。あんまりいじめて嫌われるのも、やっぱり俺とは結婚したくないだの言われるのも困る。
「天音」
立ち上がって歩み寄る。あからさまに肩を震わせて怯える天音に、ちょっとやりすぎたかと思いつつ、その手を取る。
「今後、俺にされることで嫌だとかやめてほしいと思うことがあったら、俺を二回叩いて合図しろ。頭でも顔でも体でも、どこでもいいから」
天音の手に自分の手を添えて、胸のあたりを手のひらで二回叩かせる。手を離してやってみるよう促せば、「こう?」と言いながらぽんぽんと軽く叩いてくる。
「そうだ。とっさに声を出せなくても、これならできるだろう?」
合図をされたら、必ずやめるから。
俺の提案に、ほっとしたような顔を見せる。単純だな。俺が天音の両手を押さえ込んでいた場合とか、想定しないんだろうか。
チャイムが鳴った。時間的に門叶だろうと思いつつもインターフォンの画面を確認すれば、間違いなく彼だった。
「マコじい?」
天音の問いかけにうなずきを返しながら、エントランスドアを解錠して玄関に向かう。
急な連絡だったにもかかわらず、アッシュグレーの髪をオールバックに整え、ダークスーツに身を包んだ門叶は、出迎えた俺に銀縁めがね越しの一瞥をくれた。相変わらず、表情筋が麻痺してるのではないかと思うほどの無表情だ。
「マコじい、お久しぶり」
だが食事を中断した天音が姿を現したとたん、驚くべきことが起きた。門叶がその相好を崩したのだ。彼の顔に明らかな笑みが浮かんでいる。
「天音さん。お久しぶりです。お綺麗になられましたね。風雅さんのことはひとまず置いて、このたびはおめでとうございます、でよろしいのか」
天音にはにこやかにそう言って、すっと表情の消えた顔を俺に向けてくる。なんだかひどい差別を感じるが、天音に対する態度には安堵する。
とりあえず茶でもと勧めるも、まずは風雅についての話を聞きたいと切り出された。天音には食事を続けるように言い、風雅の部屋へとふたりで移動する。
風雅から俺のもとに電話があってからの流れを、門叶に順を追って話す。口をはさむことなく聞いていた門叶が、話し終えたときにようやく一言「なるほど」と声を発した。
「こう言ってはなんですが。天音さんを置いていってくれて幸いでした」
ふたり揃って失踪していたなら、今ごろ大騒動になっていただろう。
「伽藍さんは本当に、風雅さんから事前になにも知らされてはいなかったのですね?」
「ああ」
事前に知らされていたなら、引き止めた。どうあっても逃げたいというなら、天音も連れていかせた。
そうこぼせば、門叶が鼻で笑った。
「あなたならそう考える。それがわかっていたからこそ、風雅さんはあなたに一言の相談もしなかったというわけです」
俺では頼りにならない。そう断じられたのだろうか。
風雅と俺の携帯電話を見比べていた門叶が「おや」と声をあげた。風雅の携帯は通信記録がすべて消去されている。手がかりになるようなものはなにもなかったはずだが。
「おふたりのアドレスは内容がまったく同じなのですね。ですが風雅さんのほうは、一件足りない」
「なに?」
俺と風雅はバックアップも兼ねて、アドレスを共有していた。つい先日確認したときも登録内容は同じだった。
門叶の横に立ち、スクロールされるアドレスを目で追う。
「あ、ここですね」
門叶の手が止まる。俺のものにはあって、風雅のものからは削除されたアドレス。
「白藤沙綾。お知り合いで?」
「白藤?」
もちろん、知っている。
イギリス滞在中に子爵家でおこなわれたホームパーティーに招かれていた留学生のひとりだ。ああいった場には不慣れだったのか、所在なさげに壁の花になっていたのを、風雅が気にかけてやっていた。
連絡先を交換したものの、帰国後はしばらく交流は途絶えていたが、数年前に偶然にも東京で再会した。
「ふたりは交際を?」
「いや……せいぜい友人どまり、だったと思う」
風雅に特定の相手がいたことはない。俺が把握している限りでは、そのはずだ。
「子爵家で知り合ったのでしたね。……風雅さんの失踪に、フローレス子爵が関与している可能性は?」
「伯父貴が?」




