短編
短編です
俺はタバコがやめられない。十七の時、親が吸っていったタバコをくすねて吸い始めたのがきっかけで、それ以来毎日欠かさずにタバコを吸っていた。禁煙何てしようと思ったことはないし、考えたことも無かった。だが、そんな俺にもタバコをやめる出来事があった。
俺に彼女ができたのだ。しかし、それがタバコをやめる直接的な理由というわけではないのだが。
相手は同じ大学に通っていた同い年の女の子だ。俺にはもったいない程良くできた彼女だった。そんな彼女は俺がタバコを吸う事を良くは思っていない。誰だってそうだろう。彼女はいつも口癖のように「タバコ吸うのやめてよ」とクシャっと顔をしかめて言っていたのだが、いつも俺は空返事で「うん」と返すだけだった。
だが、特にそれ以外はお互いに不満があるわけでなく、交際は順調に進み、社会人になってから三年後、俺から彼女にプロポーズをした。「断れたらどうしよう」と内心ドキドキだったが、彼女は涙を浮かべながら「はい、お願いします」と答えてくれた。その瞬間、二人は晴れて夫婦になった。まぁ、まだ婚姻届けを提出していないから正式に夫婦となったわけではないのだが。
そんな帰り道、緊張から解放された俺はタバコに火を点けた。もうその頃になると妻は何も言わなくなった。
その出来事から、約一年が経とうとしていた時、丁度タバコを切らした俺はコンビニに立ち寄りいつものタバコを買って店の外に出た。その時、俺のスマホが鳴った。妻からだった。
「もしもし」
俺がそう言うと妻はとても興奮した様子だった。
「あのね、私妊娠したみたい!」
繋真の言葉を聞いて俺は一瞬思考が止まった。そして、言葉の意味を理解すると一気に喜びが溢れてきた。「すぐ戻る」と言うと手に持っていたスマホとタバコを無造作にポケットに突っ込むと家に向けて走り出した。
家に着くと勢いよく扉を開けた。妻がびっくりした顔でこちらを見る。だが、それはすぐに笑顔に変わった。それにつられて俺も笑顔になる。俺は座っていた妻のお腹に耳を当てた。すると、妻は大笑いをした。
「ちょっと、何してるの。まだだよ」
そう言われた俺は恥ずかしそうに「そうか」と呟いた。
それからいつものように晩ご飯を食べ終え、テレビを見ていると妻が話しかけてきた。
「あれ? 今日はタバコ吸わないの?」
俺はいつも食事の後にタバコを吸う癖があったのだが、タバコを吸わないのを不思議に思った妻はそう尋ねてきた。
「うん。もうやめようと思って」
妻に聞かれた俺はテレビから目を離すことなく答えた。すると、妻は隣に座って「急にどうしたの?」と少し心配そうに尋ねてきた。
「だって、もう一人の体じゃないし、俺もいい機会だと思ったから」
俺がそう言うと妻は少しニヤついた顔をして「ふーん」と言った。そして続けて「でも、今日新しいタバコ買ったんじゃないの?」と尋ねてきた。
俺は驚いた顔をして妻の顔を見た。
「どうしてそれを?」
俺の驚きようを見て妻はクスクスと笑った。
「やっぱり、電話した時、いつものコンビニにいたのね。タバコを買う前か買った後のどっちかなと思ったんだけど、その反応を見ると買った後みたいだね」
まんまと嵌められた。俺は素直に妻に感心した。
「まぁ、買ってしまったものは仕方ない。でも、捨てるのも、もったいないから禁煙記念にとっておこうかなって思うんだ」
俺が真面目な顔でそう言うと妻はまた笑った。
「禁煙の記念に新品のタバコをとっておくなんて、これまた新しい発想だね。
さて、何日続くのか見ものだ」
妻は俺のことを見くびっている。俺はやる時はやる男だ。…多分。
「大丈夫。禁煙は初めてだけど、何故か上手くいく気がするんだよ」
「そっか、じゃあ、期待してますよ~ パパさん」
妻はそう言うと大きな欠伸をした。
「もうそろそろ寝ようか」
俺がそう言うと妻は頷いた。二人は寝室に向かいベッドに寝そべった。
「それじゃあ、おやすみ」
そう言って二人は眠りについた。
時は過ぎ、禁煙を始めてから二十数年が経った。一男一女を設け、家族四人で幸せに暮らしていた。育児は本当に大変で分からないことだらけで妻と二人であたふたしていたことが昨日のように思い出せる。でも、それ以上に子どもの成長が見れることが何より楽しかった。
肝心の禁煙はと言うと、あの日以来自分でも驚くぐらいきっぱりとやめられた。
何故、急に時間が進み、二十数年後の話を始めたのかと言うと、子ども達が一人暮らしを始め家に妻と俺の二人だけになった今日、妻が改まった態度で「話がある」と言ってきたのだ。俺はそのことで一抹の不安が頭を過った。「離婚」という不安だ。家族サービスはしてきたし、子どもの行事は欠かさず出席した。
けど、それだけじゃない不満がどこかにあって、それが積り積み重なったのだろう。そして、子ども達が巣立っていったのを確認したから、もう俺はお役御免といった結末なのかもしれない。まぁ、完全に妄想なのだが、もしそうだとしたら俺は甘んじて受け入れようと思う。
一つ深呼吸をして覚悟を決めた俺は既に座っていた妻の対面に腰掛けた。
「どうしたの? 急に話があるって」
精一杯平常心を装ったが、声は震えていた。そんな俺を見て妻が口を開いた。
「…ねぇ、もうタバコは吸わないの」
「へ?」
予想していなかった妻の言葉に思わず声が裏返った。そして、続けて「どういうこと?」と尋ねた。すると、妻はポツリと語り出した。
「実を言うと、最近買い物の帰りに、知らない人とすれ違ったんだけど、その人があなたが吸っていたタバコと同じタバコを吸っていたの。
そのにおいで昔こと、思い出しちゃって。凄く懐かしい気持ちになったわ。
だから、変なお願いだし、私のワガママなんだけど、一本だけでいいからタバコを吸ってほしいなって…」
妻はそう言うと俺の顔を「ダメかな?」という表情を浮かべながら見た。
俺は考える素振りを見せて、内心は違うことを考えていた。そして、少し間を取ってから「まぁ、いいけど」と答えた。
俺がそう言うと妻は「ありがとう」と言ってニコリと笑った。
俺は立ち上がり自室に戻って机の上に置いてある二十数年前に買ったまま開けていないタバコを手に取った。流石にこれはもう吸えないだろうと思いながら妻がいるリビングへ戻ると机の上にパッケージこそ変わっているが、俺が吸っているタバコと同じものが置かれていた。
「どうしてこれを?」
「だって、私のお願いを聞いたら絶対その古いタバコを持ち出してくると思って。
そんな古いの吸ったら、死んじゃうことぐらい吸わない私でも流石に分かるわ」
タバコ自体、体に良くないんだけどなぁと思いつつ、妻が買ってきてくれた新箱に手を伸ばした。そして、タバコを手に取ると逆さに持ち、手の甲にトントンと軽く打ち付ける。数回打ち付けたら、包装しているビニールを剥がしフタを開け、中紙を取った。
そこに現れたのは二十数年ぶりの新品のタバコ。少し漂ってくる独特のにおいに、確かに懐かしい気分になる。
そして、一本取り出し口に運んだ。十七の時を思い出すなぁと思いながらタバコに火を点けた。
ゆっくりと息を吸い込む。そして、妻に気を遣いながらふぅと息を吐いた。俺の視界は吐き出された白い煙で覆われた。その煙が徐々に晴れると、クシャっと顔をしかめた妻の顔があった。
その瞬間、不思議な感覚に襲われた。何もかも時間が巻き戻り、若かりし頃の妻と過ごした時間にいるような、そんな感覚。何故か分からないが、俺の頬には一筋の涙が流れていた。
ふと我に返ると、妻も同じようにして涙を流していた。きっと、妻も同じように時間旅行をしていたのかもしれない。
不思議な時間を過ごしていると妻が口を開いた。
「ねぇ、久しぶりのタバコはどう?」
「よく、こんな不味いもの吸えたなって思うよ」
俺はそう言ってタバコの火を消した。