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三文詩人の参拝記  作者: 萩原 學
出雲
8/13

出雲大社周辺 三歳社

出雲大社の本殿と神楽殿の間にある細い道を上っていくと、「三歳社」の看板が出ている。一本道をしばらく上ると、橋の袂に「八雲瀧」と立っていて、小生が参拝した時は滝まで行けた。今では塞がっているらしいが。

挿絵(By みてみん)

なおも進むと建物が切れた辺りで道は曲がり、橋が架かる。橋の袂に「福迎の社 ご案内」なる看板が立ち、川沿いに延びる遊歩道がある。

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

遊歩道を進んだ先に、ひっそりと小社が立つ。

挿絵(By みてみん)

三歳社は、出雲郡の式内社「同社神(おなじやしろのかみ)大穴持御子神社おほあなもちみこのじんじゃ」に比定される。看板にも「大穴持御子神社おおなもちみこのかみやしろ」とある。御祭神は


事代主ことしろぬし

高比賣たかひめ

御歳神みとしのかみ


3柱を祀る中でも「歳神」はお正月の神様で、これを入れて三歳神… と思いきや、看板には違うことが書いてある。


由緒

事代主神、高比賣神は大國主大神の御子神であり国土経営に際して大神を助け力を尽くされた神様です。

後世、大年神の御子神御年神を合祀し三歳社と称します。


事代主神は、国譲りに立ち会った出雲代表として知られる。古事記に曰く。


…此二神(天鳥船神 + 建御雷神)出雲國伊那佐(いなさ)【伊那佐三字以音】 の小濱に降りちまして。十掬劒(とつかのつるぎ)拔き、さかしま浪穗(なみのほ)に刺し立て、其の劒前(けんさき)に趺坐し。其の大國主神に問ひまおすは

「天照大御神・高木神の命を以て、之に問ひ使はさる。汝の宇志波祁流(うしはける)【此五字以音】葦原中國は、我が御子の知らす國、言依り賜ふ。故、汝が心の奈何なかは。」

ここいらまおすこと「僕は白し得ず、我が子なる八重言代主神の是に白す可し。然し、鳥遊取魚を爲さむとて御大之前(みほのさき)往き、未だ還り來さず。」

故、爾に天鳥船神を遣はし、八重事代主神をし來しつ問ひ賜へる時。

其の父なる大神(=大國主神)に語りて言すに「かしこし。此の國は、天神の御子に立てまつらむ。」

卽ち其の船をば蹈み傾けて、天逆手、青(ふす)垣に打ち成して隱る也【訓柴云布斯】。


『うしはく』は『知す』共々、後にいう『しらす』の意。『天逆手』は拍手の1種と思われるが、不詳。特に戦後、『隱る』を死亡の意味に取って「国を奪われて自殺に追い込まれた悲劇の王子」的解釈を見かける。しかし、蹈み傾けた『其の船』が天鳥船であれば、勝負には勝ったとも読めるのではないか。

出雲國に於て延喜式神名帳に記す神社すなわち式内社は、合わせて180座を数える。畿内ですら大和國以外は山城國122座、河内國113座、和泉國62座、攝津國75座と、これに及ばないのだから、どれほど出雲が京に重きを生したか想像もつこう。マルクス主義を丸出しに「中央の支配に対抗した地方」などと持ち上げるのは、見当違いも甚だしい。


日本書紀神代紀にも同様の記事がある。


二神(經津(ふつ)主神 + 武甕槌神)、是に、出雲國五十田狹(いたさ)小汀(おばま)降り到ちます。則ち十握劒とつかのつるぎ拔き、さかさま地に植ゑ。其の鋒端(ほこさき)(あぐら)して大己貴神に問ひのたまはくは

高皇産靈尊たかみむすびのみこと皇孫(すめみま)(くだ)され、此の地君臨(しろし)めむとおぼす。故、先に我二神、驅除平定に遣はさる。汝がこころ何如いかんまさに須べから避らむや」

時に大己貴神、對し曰く「まさに我が子へ問ふべし。然る後、將にむくいまつらむ。」

是の時、其の子事代主神、遊ばすに出雲國三穗(みほ)(三穗、此云美保)之碕に在り、釣魚以て樂しび爲す、或は曰く、遊鳥の樂しび爲す。故、熊野諸手船亦の名は天鴿船を以て使者稻背脛(いなせはぎ)を載せ、これに遣はして、高皇産靈尊の勅を事代主神に致し、また將にむくいことばを問はさむとす。

時に事代主神、使者へのべるに「今、天つ神が此の借問の勅有るに、我が父宜しく當に奉ら避らむや。吾も亦、たがふべからず。」と曰ふ。

因り海中に八重蒼柴(やへあをふじ)(柴、此云府璽)(かき)造り、船枻(ふなのべ)(船枻、此云浮那能倍)蹈みて之に避る。


古事記のシンプルな描写に対し、日本書紀本文のこれは伝聞的なところがある。来訪した2神も共通するのは建御雷神(古事記)/ 武甕槌神(日本書紀)のみ。この剣神については別に書く。

古事記は以後を記していないが、日本書紀では子孫を記す。


神代紀の一書:事代主神の化して八尋やひろ熊鰐くまわにと爲り、三嶋溝樴姬(みしまみぞくひのひめ)(或は云ふ玉櫛姬)に通ひて生める兒、姬蹈鞴(ひめたゝら)五十鈴姬命(いすゞひめのみこと)。是ぞ神日本(かむやまと)磐余彥いわれひこ火火出見天皇ほほでみのすめらぎの后とは爲る也。


綏靖紀:神渟名川耳天皇、神日本磐余彥天皇が第三子なり。母は曰く媛蹈韛五十鈴媛命、事代主神の大女なり。


つまり神武天皇の舅、綏靖天皇の祖父(母方)としている。出雲の神が皇室の始まりに関わった訳で、国譲りを迫られたからといって扱いが悪くなるどころか、この上ない厚遇を受けたのではないか。

島根郡東端の美保関に鎮座する美保神社に祀る。そちらは未見で、いずれ行かなければなるまい。と思っていたら脳梗塞で動けなくなり、2年程して漸く回復したが、今度は疫病で移動自粛。「未だ来るな」とでも言われているのだろうか。


ところが、出雲國風土記に事代主は見当たらない。美保に祀る神は御穂須々美命といい、建御名方神のこととされる。


美保郷 郡家正東廿七里一百六十四歩。天の下造らしし大神命、高志國に坐す神なる意支都久良為命の子なる俾都久良為命の子なる奴奈宜波比賣命を娶り、産ま令む神。御穂須々美命、是の神ぞ坐す。故、美保と云ふ。


今では事代主神を美保神社に祀るので、どこかで祭神交替があったらしい。

日本書紀ではもう1ヶ所、神功皇后が神託を受ける時に曰く


問「亦有耶。」

答曰「於天事代於虛事代玉籤入彥嚴之事代主神有之也。」


とする。於天事代あまつことしろに於虛事代そらつことしろに玉籤入彥たまくしいりひこ嚴之事代主神いつのことしろぬしのかみと名乗ったのは、この時だけのようだが。天照大神の次に顕れ、天空の代弁者を称するこの神が、出雲に居て国譲りを迫られ隠居した存在だったとは思えない。出雲に祀られてはいるんだけど、日子の号が入っているし。


加えて延喜式神名帳に拠ると、事代主神は宮中に祀る神の1柱でもある。


宮中坐神三十六座 大三十座 小六座

神祇官西院坐御巫等祭神 二十三座 並大 月次新嘗

御巫等祭神八座 並大 月次新嘗 中宮 東宮御巫亦同

神産日神

高御産日神

玉積日神

生産日神

足産日神

大宮賣神

御食津神

事代主神


大己貴命の子、出雲の神という設定はどこに行った?実は出雲の神ではなかった?大国主命共々、親子で謎の多い神様である。

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