出雲大社周辺 北島国造館の天神社
出雲大社横に北島国造館というのがあって、その邸内に天神社を祀る。この天神とは、少名毘古那神。
大己貴命と共に国造りした神で、酒造りの神として松尾神社に祀り、あわしま様として淡島神社に祀り、温泉の神として道後湯神社に祀るなど、なかなか多才な神様でもある。
薬祖神でもあり『醫祖天神』と崇められたから、特に天神様と称した。熊本市に鎮座する『味噌天神』も、おそらく医祖天神の転訛であったろう。
今では菅原道真公を天神様と呼ぶのは、元々(出雲出身とされる)菅公が天神様を拝したからであって、些か本末転倒ではある。
古事記に神產巢日之神(かみむすひのかみ)の登場が少ないことを書いた。ところが読み返すと、もう1箇所あった。「神產巢日神」と微妙に違う書き方だが、同じ神であろう。
大國主神、出雲の御大の御前に坐す時。波穗より天の羅摩船に乘りて、內剥に鵝(ガチョウ)の皮剥ぎ衣服と爲し、歸り來る神有り。爾に問へ雖、其の名答へず。且、從へる諸神に問へ雖、皆知らずと白す。爾に多邇具久白し言く(自多下四字以音)
「此は、久延毘古必ずや知らむ。」
卽ち久延毘古を召し問ひたまへる時、答へ白すに
「此は神產巢日神の御子、少名毘古那神。」(自毘下三字以音。)
故、爾に、神產巢日御祖命に白し上ぐれば、答へ告はく
「此は、實に我が子也。子の中に、我が手の俣より久岐斯子なり。(自久下三字以音。)故、汝、葦原色許男命と、兄弟と爲りて、堅め作れ其の國。」
と、少名毘古那神の親神を名乗る。御大之御前とは、美保神社が鎮座する松江市美保関であろう。
ほぼ同じ話が日本書紀の異伝にもあって、そちらは高皇産靈尊が親。
初め大己貴神の國平げたまふに、出雲國を行くや五十狹々(いそきぎ)の小汀に到りまして、且、飲食に當ります。是の時、海上忽に人聲有り。乃ち驚き之を求ぐに、都と見えしに無し。頃時、一箇の小男有り、白蘞皮以て舟と爲し、鷦鷯羽以て衣と爲し、潮水の隨以て浮び到る。大己貴神、卽ち取り掌中に置て之を翫や、則ち跳び其の頰を囓む。
乃ち其の物色怪しみ、使を遣り天神に白す。于時、高皇産靈尊の之を聞きたまひて曰く
「吾が産みし兒、凡そ一千五百座有り。其の中一兒、最も惡く、教養順はず。指間より漏れ墮ちれば、必ずや彼ならむ。宜しく愛しみて之に養へ。」
此卽ち少彥名命、是也。
古事記の神產巢日神が、日本書紀では高皇産靈尊に入れ替わったのは、政治的配慮があったか。これに、限らず、日本書紀では神產巢日神の事跡を記さない。
対して少彥名命は、古事記に
故、爾より、大穴牟遲と少名毘古那、二柱神相並び、此國作り堅めましき。
といい、日本書紀の異伝に
夫大己貴命と少彥名命、力を戮せ心を一に、天の下經め營みましき。
復、顯見蒼生に畜産及ばし爲さむと、則ち定むは其の病の療し方。又、鳥獸昆蟲の災異攘ひ爲さむと、則ち定むは其の禁厭の法。
是以て、百姓今に至るも、咸恩頼蒙る。
と、大己貴命とのセットで称えられるのに、出雲大社に祀らない。なお顯見蒼生とは、保食神(うけもちのかみ)を月夜見尊が殺した話に出てくる、衆生を指す言葉。天照大神が月夜見尊を怒って後に、保食神の亡骸が種子各種に化したのを天熊人が献上すると、天照大神が喜んで「是物は、則ち顯見蒼生の食す可きにして之を活かす也。」と曰い、(顯見蒼生、此云宇都志枳阿鳥比等久佐)と注している。
出雲国風土記では1箇所だけ
多禰郷 属郡家。天の下造らしし大神大穴持命、須久奈比古命と、天の下巡り行きたまふ時、稲種此處に堕しませり。故、種と云ふ。〔神亀三年、改字多禰。〕
という。今の雲南市掛合町多根に多根神社が鎮座するから、その周辺であろう。しかし、美保神社からは 78km 離れた山奥にあって、意味が解らない。この神も余所者ゆえに定着しなかったのだろうか?
記紀の伝承からして他所から渡ってきた神様であるから、「天神様」というのも判らなくはないが。同じく渡ってきた筈の大己貴命がご存知なかったのなら、その勢力圏から離れた土地の人であった事になる。そのため渡来人説もあるけれど、証拠はない。