出雲大社周辺 命主社
出雲大社のすぐ東に坐す命主社は、神皇産霊神を祀り、出雲郡の式内社「神魂伊能知奴志神社」に比定される古社。「かみむすびいのちぬしのやしろ」とルビを振るのは、出雲代々の呼び方だったのかどうか。
社殿は最近のもののようで、さして特徴はない。背後に控える「真名井遺跡」からは色々出てきたそうで、古の祭祀場だったか。
そのまた奥に何やら磐座らしきものが放置されており、そちらが元のような。
神皇産霊神の記事は少ない。日本書紀では、冒頭に一ヶ所、その名のみ。
古事記では、神產巢日之命は冒頭と、大穴牟遲神(大國主)が火傷を負って死亡した時にだけ出番がある。
是に八上比賣、八十神へ答へ言すに「吾は、汝等の言聞かず。將に大穴牟遲神へ嫁さむ。」
故、爾に八十神怒り、大穴牟遲神殺さむと欲し、共に議りて、伯伎國の手間山が本に至り云はく
「赤猪此山に在り。故、和禮共に追ひ下さば、汝待ち取れ。若し待ち取らずば、必ずや將に汝殺さむ。」
云ひて、火をもて燒ける大石、猪に似せて轉ばし落しき。爾に追ひ下し取る時、卽ち其の石燒けるに著きて死にませり。
爾に其の御祖命、哭き患ひて天に參り上り、神產巢日之命に請ひたまふ時。乃ち活かしめるべく岐佐貝比賣と蛤貝比賣を遣はしたまふ。
爾に岐佐貝比賣、岐佐宜集めて、蛤貝比賣、待ち承けて、母乳汁と塗りしかば、麗はしき壯夫と成りて出で遊ばす。
お縋りした御祖命に応えて、岐佐貝(赤貝とされる)比賣と蛤貝(蛤とされる)比賣を治癒士として派遣する神產巢日神は、2神の上司に見える。なお「岐佐」の字は原文と違うが、当サイトで使えず弾かれた。
貝殻を子削ぎ落として貝汁で練ったものを塗るのは、民間療法と伝えられるが、鯨油による火傷の湿潤療法が誤伝したかも。
マッコウクジラの脳油は、白濁した外観ゆえに sperm oil と呼ばれたが、良質な蝋を含み、特に精密機械の潤滑油として利用された他、ハンドクリームなど化粧品にもなり、万能薬とされた。今では火傷に効く軟膏は、石油化学製品のワセリンを基材とするけれど、やっぱり白い塗り薬。鯨油が採れない時の代用として、白い練り薬を用意したというのは、有りそうな話ではないか。
さて古事記の系図では、大穴牟遲神は天之冬衣神と刺國若比賣の子であるから、御祖命はそのいずれかであるが、神產巢日神の係累は不明。
対して出雲国風土記が記す神魂命は
加賀郷 郡家西北廿四里一百六十歩。佐太大神生れます所なり。御祖神魂命御子、支佐加比比賣命、闇き岩屋哉と詔して、金弓以て射給ふ時、光の加加と明る也。故、加加と云ふ。〔神亀三年改字加賀。〕
生馬郷 郡家西北一十六里二百九歩。神魂命御子、八尋矛長依日子命詔に、吾が御子の平明に憤らず、詔たまへり。故、生馬と云ふ。
法吉郷 郡家正西一十四里二百卅歩。神魂命御子、宇武賀比賣命、法吉鳥に化して飛び渡り、此處に静まり坐す。故、法吉と云ふ。
支佐加比比賣命、宇武賀比賣命の親とされている。神魂命は出雲に土着の神、国津神だったのではないか。風土記は古事記・日本書紀より後に編纂されたから、記紀を参考にしたのは当然であるが。出来て直ぐに公開された日本書紀と異なり、古事記の存在が知られるのは近世であったから、古事記を参照したとしか思えない記事が載る出雲国風土記は、皇室に近い人が書いたものではないか。
ただ、神魂命と神皇産霊神を無条件に同一視するのは、やや乱暴かもしれない。神魂命の神名は明らかに、大国魂命に対比したもので、大国魂をオオナムチとは読まない以上、神魂命はカムタマノミコトとか、シンプルに読むべきであろう。とはいえ「皇産霊」を付けて高皇産霊神と並び立つようにしたのも、それなりの政治的配慮があっての事だろうから、記紀の文脈で語るには神皇産霊神とするのが都合いいのだろう。出雲では神皇産霊神とは言わないし、高木神も見当たらないので、そこは注意しなければならないが。