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三文詩人の参拝記  作者: 萩原 學
出雲
5/13

出雲大社に祀る神様のこと

挿絵(By みてみん)

出雲大社と言えば天下周知の名社であって、大国主命を祀るということに疑問の余地はない。と、参拝するまでは信じ込んでいたのだが、奥宮に当たる素鵞社(そがのやしろ)素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る。

挿絵(By みてみん)

正妻須勢理比売(すせりひめ)を祀る大神大后神社

挿絵(By みてみん)

宗像から来た妻多紀理比売(たぎりひめ)を祀る筑紫社挿絵(By みてみん)

に両脇を挟まれる本殿の旦那は、更に背後から舅の視線に睨まれるレイアウト、これでは気の休まる暇もない。

と疑問に思って調べたら、これが明治以前は杵築(きづき)大社を称し、中世には素戔嗚尊を祀るものとされたらしい。江戸時代に杵築大社の御祭神は旧に復したものの、上宮(かみのみや)日御碕(ひのみさき)神社では依然、素戔嗚尊とされている。大国主様、意外と出雲で人気が無かった?

挿絵(By みてみん)

大國主の名は、日本書紀では異伝2箇所のみ。1つは


素戔嗚尊(すさのおのみこと)、天より降りて出雲()の川上に到る。則ち見そなはすは稻田宮主簀狹の八箇耳の女子、(なづ)けて稻田媛。乃ち、くみどに起こして生みたまへる兒、號けて淸の湯山主三名狹漏彥八嶋篠。一に云く、淸の繋名坂輕彥八嶋手命、又云く、淸の湯山主三名狹漏彥八嶋野。此の神が五世孫、卽ち大國主神。


と、素戔嗚尊からの系譜を示す。今1つは


一書に曰く、大國主神、亦の名は大物主神、亦號くは國作くにつくる大己貴命おほなむちのみこと、亦曰く葦原醜男あしはらしこお、亦曰く八千戈神(やちほこのかみ)、亦曰く大國玉神(おほくにたまのかみ)、亦曰く顯國玉神(うつしくにたまのかみ)。其の子、凡そ一百八十一神有り。


と、異名と子孫の数多を誇る。異名の多いことは古事記でも


亦の名を大穴牟遲(むち)神と謂ひ、亦の名を葦原色許(しこ)男神と謂ひ、亦の名を八千矛神と謂ひ、亦の名を宇都志(うつし)國玉神と謂ふ、(あは)せて五の名有り。


というから、複数の神格を併せたものか。稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)と出会ってから根の国へ行くまでは大穴牟遲神(おほあなむちのかみ)と呼ばれ、須佐之男命(すさのおのみこと)からは出会すなり「此は、葦原色許男(あしはらしこお)と謂ふ。」とされ、須世理毘賣を連れて逃げ出す時になって初めて、大穴牟遲神に須佐之男命が呼びかける。「意禮(おれ)大國主神と爲り、(また)宇都志國玉神と爲りて、其の我の(むすめ)須世理毘賣、嫡妻と爲して、…」

してみると「大國主神」とは、須佐之男命から引き継いだ称号のようなものか。稻羽之素菟の話、兄弟の八十神に何度も殺されては生き返る話、須佐之男命から受けた婿いびりの話、何れも古事記にしか見えない。それが大穴牟遲神の大國主神に為った経緯なのに、日本書紀に載らなかったのは、政治情勢の変化があったのか。

やや不審を感じて出雲國風土記を読んでみると、全く違った世界が展開されたりする。


意宇(をう)(なつ)所以(ゆえん)は、國引坐(くにひきまします)八束水臣津野命やつかみおみつのみこと(みことのり)に、「八雲(やくも)立つ出雲國は、狭布(けふ)(わか)國に在る(かな)。初め國を小さく作らせり。故、將に縫ひ作らむ。」

詔に、「栲衾(たくふすま)志羅紀(しらき)三埼(みさき)に、國の(あま)り有りやと見れは、國の餘り有り。」

のりたまひて、童女胸鉏(をとめのむなすき)取らして、大魚(をうを)支太(きた)()(わか)ちて、波多須々支(はたすすき)穂に振り別ちて、三身(みつより)の綱打ち()けまして、霜黒葛(しもくろつつら)閒耶閒耶(まやまや)に、河船の毛曽呂毛曽呂(もそろもそろ)に、「國来(くにこ)。國来。」

引き来りまして縫ひたまへる國は、去豆(こつ)の折()へよりして、八穂米(やほしね)支豆支(きつき)御埼(みさき)。以て此に堅め立てましし加志は、石見國と出雲國の堺、名の有るは佐比賣山、是なり。亦、引き()く綱は、薗の長濱、是なり。

亦、「北門佐伎(きたとのさき)の國に、國の餘り有りやと見れは、國の餘り有り。」

詔たまひて、童女胸鉏取らして、大魚の支太衝き別ちて、波多須々支穂に振り別ちて、三身の綱打ち挂けまして、霜黒葛の閒耶閒耶に、河船の毛曽呂毛曽呂に、「國来。國来。」

引来りまして縫ひたまへる國は、多久の折絶へよりして、狭田(さた)の國、是なり。

亦、「北門(きたと)良波(よなみ)の國に、國の餘り有りやと見れは、國の餘り有り。」

詔たまひて、童女胸鉏取らして、大魚の支太衝き別ちて、波多須々支穂に振り別ちて、三身の綱打ち挂けまして、霜黒葛の閒耶閒耶に、河船の毛曽呂毛曽呂に、「國来。國来。」

引き持ちまして引き縫ひたまへる國は、宇波(うなみ)縫折絶へよりして、闇見(くらみ)の國、是なり。

亦、「高志(こし)都都(つつ)の三埼に、國の餘り有りやと見れは、國の餘り有り。」

詔たまひて、童女胸鉏取らして、大魚の支太衝き別ちて、波多須々支穂に振り別ちて、三身の綱打ち挂けまして、霜黒葛の閒耶閒耶に、河船の毛曽呂毛曽呂に、「國来。國来。」

引来りまして縫ひたまひし國は、三穂(みほ)の埼。引き接ける綱、夜見嶋(よみのしま)。固く堅め立てましし加志は、伯耆國(ははきのくに)に有る火神岳、是なり。

「今は、國は引き(をわ)んぬ。」詔して、意宇の杜に御杖衝き立てまして「意恵(をゑ)」とぞ|詔たまひき。故に意宇と云ふ。


国土を引っ張ってくるというダイナミックな行動の割に、壊さないようにそうっと引く様子が可愛いこの国引き神話は、他の文献にない。

『童女胸鉏』は、おそらく農耕土木に使った「胸鉏」の1種で、胸鉏比売むなすきひめの神名も遺るから、それ自体が神でもあった。たわわな胸の形をしていたから「胸鉏」というらしい。(でも『童女』の胸って…)

『加志』は、よく判らない。「かし」と読めば「河岸」ともなろうが、文章を読む限り、綱を巻き付けるリールのように使われている。

八束水臣津野命の名は、意美豆怒おみづぬ命とも、伊美豆怒おみづぬ命とも称され、古事記に伝わる淤美豆奴神おみづぬのかみに比定される。


故、(須佐之男命)其の櫛名田比賣を以て、くみどに起こして、生みたまへる所の神の名を、八嶋シヌミ神と謂ふ。又、大山津見神の(むすめ)、名は神大市比賣を娶り生みたまへる子、大年神。次に、ウカノ御魂神。二柱。

兄の八嶋士奴美神、大山津見神の(むすめ)、名は木花(このはな)チル比賣(ひめ)を娶り、生みたまへる子、布波能母遲久奴須奴神ふはのもちくぬすぬのかみ

此の神、淤迦美神(おかみのかみ)の女、名は日河比賣を娶り、生みたまへる子、深淵(みふち)の|水ヤレ花神。

此の神、天のツトヘチネ上神を娶り生みたまへる子、オミツヌ神。

此神、フヌツヌ神の女、名はフテ耳上神を娶り生みたまへる子、天之冬衣(あめのふゆきぬ)神。

此の神、刺國大上(さしくにおほかみ)神の女、名は刺國若比賣を娶り生みたまへる子、大國主神。


古事記は神名を「淤美豆奴神」と記し「此神名以音」と注している、つまり当て字と断るので、オミヅヌの意味は判らない。事跡もない。

出雲大社の別当となった鰐淵寺は本地垂迹説に則り、御本尊の薬師如来を本地として日本に垂迹した神=出雲大社に祀る牛頭天王=須佐之男命とした上で、オミヅヌ神=須佐之男命と考えたらしい。風土記に記す出雲大社の郷は


杵築郷 (略)八束水臣津野命の國引き給ふの後。天の下造らしし大神の宮を将に奉らむとて、(もろ)皇神(すめかみ)宮處(みやこ)に参り集ひ杵築(きつき)たまひき。故、寸付(きつき)と云ふ。〔神亀三年、字を杵築と改む。〕


といい、これを見る限り八束水臣津野命=国引きの神=所造天下大神としか思えず、そんな剛力の神は素戔嗚尊だという訳か。

ところが、出雲国風土記に於て両者を区別しない訳でもない。


出雲神戸 郡家南西二里廿歩。伊弉奈枳麻奈子坐いざなぎのまなこにます熊野加武呂命(くまのかむろのみこと)()五百津鉏々(いほつすきずき)猶所取々而(なほとりとらして)所造天下あめのしたつくりましし大穴持命(おほなもちのみこと)。二所の大神等を依り奉る。故、神戸と云ふ。他郡等の神戸、(まさ)(これ)の如し。


伊弉奈枳麻奈子坐熊野加武呂命とは出雲一宮たる熊野大社に祀る神で、素戔嗚尊に当たるという。『イザナギ神の愛し子』だから。

五百津鉏々猶所取々而所造天下大穴持命という長たらしい神名も他に見たことがなく、これで所造天下大神=大穴持命が確定、鉏は神器であったらしい。

二柱を合わせ祀るのだから、風土記成立までにはそれなりの関係が周知されたのであろうが、記紀に示す親子関係は風土記にない。

また、神殿のサイズについて


楯縫郡 楯縫となつ所以ゆえんは、神魂命かむたまのみことみことのり

五十いそたる天日栖宮あめのひすみのみやの縦横御量(みはかり)千尋ちひろ 栲縄たくなは持ちて、もも ゆひゆひ八十やそ結結下して。此の天御量あめのみはかり持ちて、天の下造らしし大神の宮を造りまつれ」

のりたまひて、御子、天の御鳥命みとりのみこと楯部たてべと為して、天下あまくだし給ひき。

その時、退まかり下り来まして、 大神の宮の御装束みよそほひの楯を造り始め給ひし所、これなり。

りて、今に至るまで、楯・ほこを造りて、皇神すめかみ等にたてまつる。かれ、楯縫といふ。


というから、


天御量1単位 = 1尋×1,000×(100+80)結


『尋』は両手を広げた長さ、つまり身長程度で5尺か6尺。1尋1.5mとすれば、天御量は270km。結び目の分を差し引いて1尋1mとしても、180kmとなる。(…長くね?)

その名からすると物差しの1種だが、伊勢神宮では心御柱しんのみはしらの名称とする。

古事記では阿遲志貴あぢしき高日子根神(たかひこねのかみ)の剣を大量おほばかりとし、日本書紀では味耜あじすき高彥根神(たかひこねのかみ)の剣を大葉刈おほばかりとするから、長い線形のものを「はかり」と称したことは判る。

また日本書紀は国譲りの段に、異伝として


時に高皇産靈尊、乃ち二神を還り遣り、大己貴神に勅して曰く

「今は汝のまおす所を聞くに、深く其のことはり有り、故、更におちおちにして之に勅す。

それ汝がしらせる顯露あらはの事、宜しく是れ吾が孫にしらせ。汝則ち以て神事(かむこと)しらすべし。

又、汝のまさに住むべき天日隅宮は、今(まさ)に造りそなふ。卽ち千尋栲繩を以て結ひ、百八十紐ももやそのひもに爲さむ。其の宮造りののりは、柱則ち高く大きく、板則ち廣く厚く。

又、將に田をたがやし供へむ。

又、汝が往來かよひ遊海の具と爲す、高橋・浮橋及び天鳥船、亦將に造り供へむ。

又、天安河に、亦打橋造らむ。

又、百八十縫の白楯、造り供へむ。

又、汝が祭祀當主は天穗日命、是なり。」


と伝える。先の風土記にある千尋栲繩を180結ぶのは、此処から来ているのだろう。どうやら「無茶苦茶デカい」意味の象徴的表現らしく、これをそのまま『はかり』にして神殿建設ができた筈はない。とはいえ実際、想像を絶する巨大建築であったことは、近年ようやく知られるようになった。


出雲大社の拝所前に、〇を重ねた図が描いてあるのは、発掘された柱跡の位置を原寸大で示したもの。挿絵(By みてみん)

これが切っ掛けとなり元の神殿が再検討され、高さ32丈(48m)という伝承も現実性を帯びてきた。隣の博物館に資料や模型がある。

挿絵(By みてみん)

参考として添えられた神魂かもす神社の模型も、割と腰高に見える。鎮座地に行ってみると実際、腰高に造る。


神魂命は、神皇産霊尊かみむすびのみことに比定されるが、どう頑張ってもカミムスビとは読めない。カミムスビというのも、日本書紀の異伝に


一書に曰く、天地の初めは、始めにともに有る之神れます、號けて國常立尊。次、國狹槌尊。

又は曰く、高天原に生れましし神の名、曰く天御中主尊。次、高皇産靈尊。次、神皇産靈尊。(皇産靈、此を云く美武須毗)


とあるから「皇産靈」をミムスヒと読むまでであって、神皇産靈尊が本当にカミムスビであるか、やや怪しい。まして神魂神社の御祭神まで、カミムスビと読むのは行き過ぎと考える。まあ神魂命については別の機会に譲るとして、嘗ての杵築大社が持っていた巨大な柱は、三内丸山遺跡以来の巨大掘立柱式建築を支えたに違いない。

しかし、それほどまでに信仰を集めた偉い神様の名があやふやなのは、どうした事だろう。結局のところ、大穴持命は余所者だったのではないか。


宇賀郷 郡家西北一十七里廿五歩。所造天下(あめのしたつくらしし)大神命(おほみかみのみこと)神魂命御子(かもすのみことのみこ)綾門日女命(あやとひめのみこと)誂坐(たわぶれまします)その時、女神(あやか)らず、之に逃げ隠る。時に、大神(うかが)ひ求め給ふ所、是則ち此のさとなり。故、宇賀と云ふ。

朝山郷 郡家東南五里五十六歩。神魂命御子、真玉著玉之邑日女命またまつくたまのゆうひめのみことこれにまします。その時、所造天下大神あめのしたつくらししおほみかみ大穴持命(おほあなもちのみこと)娶り給ひて、朝の毎に通ひ坐す。故、朝山と云ふ。

八野郷 郡家正北三里二百一十歩。須佐能袁命御子すさのおのみことのみこ八野若日女命(はのわかひめのみこと)之に坐す。その時、所造天下大神あめのしたつくらししおほみかみ大穴持命(おほあなもちのみこと)、将に娶り給ひ為さむとて、つくらしめ給ふ。故、八野と云ふ。

滑狭郷 郡家南西八里。須佐能袁命御子、和加須世理比賣命わかすせりひめのみこと之に坐す。この時、所造天下大神命、娶りて通ひ坐す時、かのやしろの前に磐石(いはいし)有り。其の上、甚だ滑らかなり。即ちみことのりに「(なめし)磐石(かな)」とぞのりたまふ。故、南佐と云ふ。〔神亀三年、改字滑狭。


地方有力者の娘と縁を結ぶに余念がないのは、艶福家とも言われるけれど、勢力基盤に不安があったからではないか。出雲生え抜きの神なら、そんな努力を要したとは思えない。

出雲にとって外来の神であったことは、古事記にさり気なく記す。


是に八十神(やそかみ)まみえ、また欺き率き山に入りて、大樹切り伏せ、茹矢(ひめや)其の木に打ち立て、其の中に入らめ、卽ち其の氷目矢打ち離して、たたき殺す也。

ここに亦、其の御祖命、ながら求むれば、まみゆを得、卽ち其の木折りて取り出すにく。其の子に告げまおすに

「汝は此の間に有りせば、遂に八十神がために滅ぼされん。」

乃ち木國(きのくに)大屋毘古神(おほやひこのかみ)の御所にたがひ遣りたまふ。

爾に八十神、き追ひいたりて、矢()()る時、木の俣より漏らし逃して云はく

「須佐能男命の(ましま)せる根堅州國に參り向ふ可し、必ずや其の大神(はか)りたまはむ。」


『木国』は後に、「地名は好字二字に改めよ」という御触れがあって『紀伊国』となった。と言われているが、無理がある。基肄(きい)城を置いた『基国』の誤伝に他ならない。基肄(今の佐賀県三養基郡基山町)には今なお、植林事業に丹精された五十猛神を祀る荒穂神社が鎮座するから、大屋毘古神とはこのことであろう。

挿絵(By みてみん)

後に神功皇后が立てた大三輪社が、大己貴神社として三輪町(今の福岡県朝倉郡筑前町)に鎮座するから、元来はその辺が本拠地だったと考えられる。

挿絵(By みてみん)

つまり大穴牟遲神は、筑紫から出雲へ渡った。筑紫社に祀る宗像の姫も、多分そのとき連れてきた。古事記にいう。


此の大國主神、胸形の奧津宮に坐す神なる多紀理毘賣命を娶り生みたまへる子。阿遲(あち)(二字以音)鉏高日子根神(すきたかひこねのかみ)。次に妹、高比賣命、亦の名は下光比賣命(したてるひめのみこと)。此の阿遲鉏高日子根神は、今に謂ふ迦毛大御神(かものおほみかみ)なり。


そもそも古事記における大国主最初のイベントが稻羽之素菟なのだが、


菟答へ言すに「僕は淤岐嶋おきのしまに在り、


と言い出すのだから、宗像の沖にある沖ノ島から来た訳で、元は北部九州発の物語だったのであろう。


また出雲国風土記にいう。


飯梨郷 郡家東南卅二里。大國魂命天降り坐す時、此處に当りて御膳(おもの)()ひ給ふ。故、飯成いひなしと云ふ。〔神亀三年、改字飯梨。〕


神名からして『神魂命』と対照的であるが、「天降坐」というから高天原から降臨した認識で、この神は天津神の位置づけとなる。そのためか、出雲国風土記に国譲りの話はない。

そう考えると、日本書紀にいう宗像三女神の説話も、この神が関わるのかもしれない。


是に日神、素戔嗚尊(もと)より惡意無きを知らし、乃ち以て日神生みたまひし三女神、筑紫洲に降りめ、因に之に教へて曰はく

「汝三神、宜しく道中降り居し、天孫(すめみま)助け奉りて天孫祭る所と爲せ。」


この「天孫」は普通、天降った天津日高(あまつひこ)日子番能(ひこほの)邇邇藝命(ににぎのみこと)を指すけれども、世代が違うのもあり、宗像三女神は邇邇藝命のお供をしてはいない。では何故、果たし得ない神勅が下りたか。「天孫」である邇邇藝命ではない誰かに奉仕したのか。

という謎も、大国主が天孫であれば問題ない。じゃあ、国津神は誰になるのかという話にはなるが…


神殿の構造上、御神体は拝所に正対せず、西を向いて鎮座するとか。それで西側から拝んで願掛けしようという変な慣習があるけれど。その通りなら大神は正妻に尻を向け、筑紫社のたきり姫を見ていることになり、あまり真に受けるものでは無かろう。

…そういう事ばかり考えるせいか、良縁なぞ無かったのではあるが。


ネタは尽きないが、とりとめもない話になってきたから、この辺で仕切り直しとする。

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