英彦山と天下りと豊日別命のこと
英彦山麓には、その登り口を護るように高木神社が立つ。今では高木神を御祭神とするけれども、開化期の神仏分離以前は大行事社といった。この大行事権現というのは、皇孫瓊瓊杵尊が天下るに際し、高木神が猿田彦大神に変身したものと伝わる。
大行事権現は。猿田彦神にて御す也。又は衢灵神とも號す。
此の猿田彦と申すは。十禅師権現母方の祖父御前。高皇産靈命皇孫降臨の時。三百六十種の御寳物を譲り玉ひけるも。此の國には地祇部類邪悪の神達多く御す故に。路次の間、何にも心苦く思し召し。鬼王の如くなる威徳無双の神躰に化し。面を赤く鼻長く。左右の目は日月の如く耀。おそろしげなる形にて。鉾つきて。十禅師権現の天降り玉ふ路次に先立ちて。異相斯くの如き人と御す由告げ来たれば。怖れ畏み有る処に。
天鈿女命を出だし。我行きて其の子細を尋ねんとて。彼の在所に至りて。元は何なる人と問ひ玉ふに。
答て云ふ。我をば猿田彦と號す。實には高皇産靈命也。皇孫降臨路次を守護の為。此の鉾を以て邪鬼の者を拂ひ退け。諸道の印を結びて道路を鎭する故に。我が跡に付て神幸有らば。もろもろの怖れ有るべからずと畏み示し玉ふ。
鈿女命此の事を奏し玉ふに。諸神大きに悦びて。成無異無事降臨玉ふ。
大行事権現は。猿田彦の神にて御す故に。此の鎭道の神の御形状傳か。今の王舞有之。此の王の舞と師子との不通を神幸無事也。大行事は十禅師を擁護す。今の社稷も十禅師に向かひ玉ふ。
凡そ山王の惣後見は。一切の行事をば。此の大行事権現の成し玉ふ事也。山王勧請の所には。何くにも又此の神を奉斎すへき事也。されば鹽下の惣社にも。惠心先德自ら猿の行事の神躰を奉造り崇め制玉へり是を彌行事と號く。
『続群書類従』
山王とは比叡山延暦寺の守護神たる大山咋・大物主の両神をいう。修験道は天台宗系の本山派と真言宗系の当山派に大別され、英彦山は本山派なので辻褄は合う。
ここに言う十禅師権現とは國常立尊から数えて10代目という意味で、天津彥彥火瓊瓊杵尊を指す。衢灵(霊)神は読み方が解らないが、衢神なら古事記の猿田彦大神そのもの。
日子番能邇邇藝命、將に天降らんの時、天之八衢に居し、上は高天原光、下は葦原中國光の神、是に有り。
故、天照大御神・高木神の命を以ち、天宇受賣神に詔して「汝は、手弱女に有りと雖、イムカフ神と面勝つ神。故、汝專らに往き將に問へ『吾が御子ぞ天降り爲したまふ之道、誰ぞ此の如くに居すや。』」
故、問ひ賜ひしの時、答へ白して「僕は國神、名は猨田毘古神なり。出で居す所以は、天神が御子の天降り坐すを聞きはべる故、御前に仕へ奉らむと、參り向へ侍ふ。」
『古事記』
日本書紀本文にはなく、異伝の一書にいう。
故天照大神、乃ち天津彥彥火瓊瓊杵尊へ賜ふに、八坂瓊曲玉及び八咫鏡・草薙劒、三種寶物。又、中臣が上祖なる天兒屋命・忌部が上祖なる太玉命・猨女が上祖なる天鈿女命・鏡作が上祖なる石凝姥命・玉作が上祖なる玉屋命、凡そ五部の神を以て、配侍使はす。因みて皇孫に勅して曰く「葦原千五百秋の瑞穗國、是吾が子孫王とすべきの地なり。宜しく爾皇孫、就て治せ。行矣、寶祚の隆えまさむ、當に天壤と窮まり無けむ。」
已にして降りしし間、先驅けは還り白して「一神有り、天八達の衢に居す。其の鼻は長さ七咫、背長は七尺餘り、當に七尋と言へり。且つ口尻明く耀き、眼は八咫鏡の如くして、赩然赤酸醤に似るなり。」卽ち從へる神を遣はし往かさくを問ふ。
「咫」は「尺」と同じで、手を開いて尺を取る、その長さをいう。八は二と共に古代の聖数で、特に八は大なることをいう。この猿田彦大神の造形は明らかに天狗の原型であって、その面はしばしば主神を護るように置かれ、また神輿の先導を務める外、道祖神または庚申尊としても祀る。
時に八十萬に神の有れ、皆目勝得ず相問ふ。故、天鈿女へ特に勅して曰く「汝は是、人に目勝つは、宜しく往き之に問へ。」
天鈿女、乃ち其の胸乳を露はし、裳帶を臍下に抑へるや、咲㖸ひ向ひ立てり。是時、衢神問曰く「天鈿女、汝何故に之を爲すや。」
對へ曰く「天照大神の子が幸したまふ所の道路、此の如くに有り居すのは誰なるや、敢へて之に問ふ。」
衢神對へ曰く「天照大神の子、今當に降り行きたまふを聞き、故に迎へ奉らむと相待つ。吾が名は是、猨田彥大神。」
時に天鈿女の復り問曰く「汝將に我が先行くや、抑我が先に汝行くや。」對へ曰く「吾が先に啓き行かむ。」
天鈿女の復り問曰く「汝何處へ到るや。皇孫何處へ到るや。」對へ曰く「天神の子、則ち當に到らむは筑紫日向高千穗槵觸の峯。吾則ち應じ到らむは伊勢の狹長田五十鈴川上。」因みて曰く「我發ち顯すは汝なり。故、汝は我送るを以て之を致す可し。」天鈿女、還り詣りて狀を報しき。
ここで「筑紫日向高千穗槵觸の峯」と地名らしきものが出てくるものだから、宮崎県高千穂に「くしふる神社」が鎮座する外、天下りの聖地はウチだ、いやコッチだ、と百家争鳴喧しい。
しかし上記山王信仰が伝えるところ、それは英彦山であった。加えて
此の三女神、日神の勅を奉じ宇佐嶋に降る、後、此の山に移りき。爰に大己貴神、更に田心姫命・瑞津姫命を娶り妃と為し、此の山北嶺に鎮まり座す、因みて称すは北山地主なり。市杵嶋姫命は山の中層に鎮まり坐すなり。
ある時天忍穂耳尊が霊、一鷹と為り東より飛び来り、ある峯に止り為す。後、八角真霊石上に移る、此に於て大己貴命、北嶽を忍穂耳尊に献じ、自ら田心・瑞津二妃率ゐて山腹に降り居す。日子の号、茲に因みて樹てり。
『鎮西彦山縁起』
という。この三女神とは宗像の神、田心姫命・瑞津姫命・市杵嶋姫命を言う。
英彦山の主は正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊と申し上げるので、「日子の号、ここに因み立つ」というのはやや納得しかねる。が、その子が天津彥彥火瓊瓊杵尊(日子番能邇邇藝命)なので、「日子山」は「ニニギノミコトの山」という事になろう。
英彦山北岳には、望雲台と呼ぶ名所がある。名所と言ってよいものか、「台」と称しながら切り立った断崖絶壁、頂の幅50cmもないようなナイフエッジで、恐怖と絶景がセットになった天上の展望所である。小生は身体が動かなくなってから存在を知ったので、今後とも到達できないが… どうもこれが瓊瓊杵尊の目指した『天浮橋』ではあるまいか。
故、天津日子番能邇邇藝命に詔するや、天の石位離ち、天の八重たな雲押分け、いつのちわきちわきて、天浮橋に、うきしまりそりたたして、竺紫日向之高千穗のくしふるたきにぞ天降り坐す。
『古事記』
一書曰。…
既にして皇孫行み遊ばすの狀なるは、則ち槵日二上天浮橋より浮渚在、平處に立たして、膂宍の空國、頓丘より覓國行去、到るは吾田長屋笠狹之碕。
『日本書紀』
何を言っているのか解らないと思うが、筆者にも解らない。非常に重要な場面だったのは確かで、古事記原文は「宇岐士摩理、蘇理多多斯弖(自宇以下十一字亦以音)」と注し、日本書紀は本文にこの記事を載せ「立於浮渚在平處、此云羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志。」と注している。記紀共に基本は漢文なのに、この部分は日本語に漢字を当てたと断った上で、この判り難い一文を伝えるのは、それなりの事情があった筈。
もし望雲台=天浮橋ならば、これは軍事機密だったのではないか。地図など無い時代、鳥瞰を得て地理を知るには、山に登るしかない。それが豊国を一望できるとなれば、おいそれと人に知らせて良い筈がない。といって秘匿したままでは、皇孫唯一の勇姿を伝えることもできない。
この良く解らない描写も、望雲台に到って国見をした時の様子ではないか。馬に跨るようにナイフエッジに跨り、両足を締め付けるようにして上体を起こし捻り、顔を海に向け、やっとのことに国見したのであろう。
そこで古事記を少々書き換えて
天の磐座を離れ、天の八重棚雲を押し分けて、厳の道別き道別きて、天浮橋に、浮き締まり、反り立たして、とある竺紫日向の高千穗の奇しふる岳に天降り坐す。
とすると解り易いかと。中々の勇姿ではないか。しかもこれはどうやら、成人と鎮魂の儀式を兼ねた。記紀では父が「子が生まれたので、この子に行かせます」的押し付けをしているのが疑問だったけれど、『鎮西彦山縁起』では「天忍穂耳尊が霊、一鷹と為り」として、非業の死を遂げたことを暗示する。何故か。望雲台=天浮橋に登って滑落したからであろう。
…是に於て、天忍穗耳命、天浮橋に立たして之に詔し「豐葦原の千秋長五百秋の水穗國は、いたくさやげて有なり。」告げて、更に還り上るを天照大神に請ふ。
と一旦、天忍穗耳命は天浮橋に到達し、天下りの一端は果たしたことになっている。なのに、息子へお鉢が回ってきたのだから、父は目的を達成できなかったことになる。してみると、瓊瓊杵尊にとって英彦山は、父の生命を奪った難所であり、父が眠る墓であった。だから天浮橋における先の描写は、多分にリベンジマッチの趣がある。
そして、そこは英彦山北岳の一部であり、そこに鎮まるのが先の四面宮で触れた高住神社である。タカスは鷹栖であり高須であり鷹巣であり高祖である。
御祭神の豊日別命が様々な顔を持つ多面的の神性であるのは、前にも触れた通りであるが、それが天下りを指揮した高木神であるならば、なぜ忘れられたのか。皇室の祖廟は宇佐であり、英彦山ではないのだ。
ところが宇佐神宮元宮の1つは鷹居社であり、そもそも豊前一帯に高木神社やら鷹巣神社やらあったりして、高木神の影が濃いからややこしい。ともあれ、高住神社である。
古くは社殿などなく、磐座を拝んだものらしい。こんな場所にこんな拝殿を建てる方がどうかしているが、開化期までは「英彦山三千房」と言われるほど賑わった修験地だったという。
神紋は鷹羽に二引。「鷹」は当然、高木神の印。因みに景行紀に「高羽」と出てくるのは、今の田川。
十二年秋七月、熊襲之に反き朝貢がず。八月乙未朔己酉、筑紫に幸。九月甲子朔戊辰、周芳の娑麼に到る。時に天皇南を望み、之なる群卿に詔して曰く「南方に烟氣多く起つ、必ずや賊の將に在らむ。」
則ち之に留り、先づ多臣祖なる武諸木・國前臣祖なる菟名手・物部君祖なる夏花を遣り、其の狀を察さしむ。
爰に女人有り、曰く神夏磯媛。其の徒える衆甚だ多く、一國の魁帥なり。天皇の使者至れるを聆くや、則ち磯津山の賢木拔き、以て上枝に八握劒挂け、中枝に八咫鏡挂け、下枝に八尺瓊挂け、亦船舳に素幡樹て、參り向へて之に啓し曰く
「願はくは兵下ぐること無かれ。我の屬類、必ずや違ふこと有らじ、今將に德を歸すなり。唯、殘る賊有るは、一に曰く鼻垂、妄りに假の名を號し、山谷に響聚し、菟狹川上に屯結す。二に曰く耳垂、殘賊貧婪にして人民を屢略し、是れ御木(木、此云開)川上に居ます。三に曰く麻剥、聚に潛み徒黨し、高羽川上に居ます。四に曰く土折猪折、緑野川上に隱り住まひ、獨り恃むは山川の險、以て人民を多掠す。是四人也、其の所據並びに要害の地、故、各領が眷屬より一處の長とは爲す也。皆曰く『皇命に從はず。』願はくは急ぎ之を擊ちたまへ。失ふ勿れ。」
神夏磯媛は、田川市夏吉の若八幡神社に祀る地主神。その境内から見える位置に香春岳(香春三山)を仰ぐ。古くは一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳の頂に、式内社辛國息長大姫大目命神社・忍骨命神社・豊比咩命神社をそれぞれ戴いたが、和銅2年に香春宮として一ノ岳麓へ遷座した。
三ノ岳には採銅所の地名が遺り、古宮八幡が鎮座し、少し離れて清祀殿、採掘場の神間歩がある。宇佐神宮の放生会に奉納する神鏡を、清祀殿にて、神間歩で採れた銅から鋳造したという。
新造された鏡は宇佐の神官が捧げ持ち、豊日別宮を経由して宇佐へ向かい、放生会最終日に和間浜の浮殿へ奉納された。
宇佐はキリシタン大名大友宗麟に焼かれて証拠も何も残らず、しかし焼け出された宇佐の神官は到津に身を寄せ、以来、到津八幡宮が宇佐に重きを為すのだが、その到津八幡宮は御祭神の一柱に豊日別を祀る。
となると、豊日別が宇佐の神でもあったのかもしれない。中津市の闇無浜神社も、豊日別国魂神を祀る豊日別国魂神社であったから、宇佐と言わず田川と言わず、豊前豊後はこの神の土地であったか。
しかし今や本拠地となった高住神社にしても、英彦山全体が大友宗麟の焼き討ちに遭ったので、証拠と呼べる程のものが遺る訳ではなく、残念でならない。