出雲大社周辺 阿須伎神社
国道431号から入った途端に道は狭くなり、門前へ進むと行き止まり。自家用車で進入はお勧めできない。
出雲大社摂社の一。出雲郡の式内社、阿湏伎神社に比定される古社。平入の拝殿に対し、妻入の大社造に則る本殿が特徴的。
阿遲須伎高日子根神を祀る。五十猛命・天稚彦命・素盞嗚命・下照姫命・猿田彦命・伊邪那岐命・天夷鳥命・稻背脛命・事代主命・天穗日命を配祀。
由緒:当社は延喜式(927年)に十一社、更に古い天平5年(733年)の出雲國風土記には三十九社をかぞえるほどこの近在では、いちばん多くその名の見える由緒ある神社ですが、現在は当社を遺すのみで他の同名の社はすべて当社に合祀されたと伝えられています。
主祭神阿遲須伎高日子根命は大国主命の御長男神に坐して、御父神と共に「切れ味のよい鋤」をお取りになって国土創生におおいなる御神威を発揚なされました。その御事蹟により、御名とともに御神徳が高くたゝえられています。
社殿は、昭和六十二年の遷宮時に銅板葺に改められましたが、大社造の古格をそのまゝ今日に伝え、その宏大な規模とともに貴重な文化財でもあります。
左手に天照大御神、奥に荒神を祀る。
古事記に曰く。…此の大國主神、胸形奧津宮に坐せる神なる多紀理毘賣命を娶り生みたまへる子。阿遲【二字以音】鉏高日子根神。次に妹の高比賣命、亦の名は下光比賣命。此の阿遲鉏高日子根神は、今に謂ふ迦毛大御神のこと也。
「阿遲(二字以音)」と原註があり当て字らしく、「切れ味のよい耜」的な解釈は些か怪しい。それより出雲と宗像、つまり山陰と北部九州の交流で生まれた神で、鴨大神とするのが目を引く。古事記で他に『大御神』と称する神は、天照大御神・伊邪那岐大御神くらいしかない。上代の日本海航路が瀬戸内海以上に重視されたのは、今から見ると意外ではあるが。縄文時代から糸魚川産の硬玉ヒスイが珍重され、出雲で勾玉に加工された史実を知れば、驚くには当たらない。
日本書紀に曰く。是より先に天稚彥、葦原中國に在して、味耜高彥根神と友善たり。【味耜、此云婀膩須岐。】
故、味耜高彥根神、天に昇り喪を弔ふ。時に此の神が容貌、正に天稚彥が平生の儀に類たり。故、天稚彥が親屬妻子皆が謂ふ「吾が君は猶ほ在し。」則ち衣帶に攀り牽き、且つは喜び且つは慟く。
時に味耜高彥根神、忿然色を作し曰はく「朋友の道、相弔ふに理宜なり。故、汚穢をも憚らず、遠より哀に赴けり。何を誤りてぞ我を亡者と爲すや。」
則ち其の帶ける劒なる大葉刈【刈、此云我里】、亦の名は神戸劒以て喪屋斫り仆し給ふ。此れ卽ち落ちて山と爲る、今に在る美濃國藍見川の上、喪山ぞ是也。世人、以て生くるを死すと誤つを惡む、此は其の緣也。
ほぼ同じ話を古事記も載せるので、朝廷には重要事項だった筈、それが出雲國風土記には無い。風土記は『天の下造らしし大神が御子、阿遅須枳高日子命』について記すが、出雲郡には逸話がない。
合祀する10社も式内社。
同社神韓國伊大弖神社 五十猛命
同社天若日子神社 天稚彦命
同社湏佐袁神社 素盞嗚命
同社神魂意保刀自神社 大刀自神
同社神阿湏伎神社 祭神不詳
同社神伊佐那伎神社 伊邪那岐命
同社神阿麻能比奈等理神社 天夷鳥命
同社神伊佐我神社 伊佐我命
同社阿遲湏伎神社 阿遲須伎高日子根命
同社天若日子神社 天若日子命
他に例を見ない構成。「同社」と付けているから、延喜式(927)の時点で合祀していたことになる。式内社をこれだけ纏めてしまう程の力を持っていた訳だ。
出雲国風土記には39社を数え、その大半が出雲郡に集中する。
神祇官社:阿受伎社
阿受枳社 【布世社】同阿受枳社
阿受伎社 同社
同社 同社 同社 同社
同社 同社
神祇官不在社:阿受枳社
同阿受枳社 同社 同阿受支社 同阿受支社
同社 同社 同社 同社
同社 同社 同社 同社
同社 同社 同社 同社
同社 同社 同社 同社
同社 同社 同社 同社
同社 同社 同社 同社
数は企豆伎社/支豆支社より多い。父君よりも「大国主」的存在、というか本当に親子だったのか?
当社以外に38社あったのは、謡曲『大社』と何か関わりがあるとも。
地クリ「そもそも出雲の国大社は。三十八社を。勧請の地なり。
シテ「然るに五人の王子おはします。
地「第一は阿受岐の大明神と現れ給ふ。山王権現これなり。
シテ「第二にはみなとの大明神。
地「九州宗像の明神と現 れ給ふ。第三は伊奈佐の。速玉の神。常陸鹿島の。明神とかや。
クセ「第四には鳥屋の大明神。信濃の諏訪の明神と。即ち現じおはします。第五には出雲路の大明神。伊予の三島の明神と。現れ給ふ御誓。 げに曇なき長月や。月の晦日にとりわきて。
シテ「住吉一処は影向なる。
地「残の神々は。十月一日の寅の時に悉く影向なり。
日本海航路は、淀川から琵琶湖を渡り、陸路を経て敦賀から大陸を目指した。京が平安京に移って(794)より便利になった筈だが、894年には遣唐使が終わってしまう。しかし遣唐使はそもそも日本海航路を使っておらず、それ以外に利用されたようで、どうやら遣唐使終了後も交易は続けたらしい。
この神は、耕作より航海を見守る神だったのではないか。だとすると国交断絶はやはり、影響が大き過ぎたと言わねばなるまい。やがて海外交易の利権を失った出雲は以後、歴史の舞台に立つことはなくなってしまうのだ。




