出雲大社周辺 乙見社
出雲大社境外摂社の一。みせん広場駐車場より南、住宅団地の1区画にしか見えない。
このような小社が、式内社「大穴持御子玉江神社」なので驚く。
高比売命 ~大國主大神の御子神で、又の御名を下照比売命と称されます。國土経営に力を尽して大神をお助けになられた女神です。~
ここに説明されていない「玉江」は昔、菱根池という大きな池があり、その入江を玉江といった。菱根池は、更に昔の神門水海の名残で、干拓により消滅した。 当社は入江の南に坐したものを、寛文の頃に遷座したという。
出雲の平野と河川は何度も形を変えており、今の出雲大社境内に流れる川は、昔は入海の底だった訳である。
古事記に曰く。此の大國主神、胸形の奧津宮に坐す神、多紀理毘賣命を娶り生みたまへる子。阿遲【二字以音】鉏高日子根神、次に妹なる高比賣命、亦の名は下光比賣命。此の阿遲鉏高日子根神は、今に謂ふ迦毛大御神のこと也。
…
故、天若日子の妻なる下照比賣の哭く聲、風と響き天に到る。天に在す天若日子の父なる天津國玉神、及び其の妻子是に聞きて、降り來り哭き悲しび、乃ち其處に喪屋を作り、河雁を岐佐理持と爲し【自岐下三字以音】 、鷺を掃持(はゝきもち)と爲し、翠鳥を御食人と爲し、雀を碓女と爲し、雉を哭女と爲し、此如く行き定めして、日八日夜八夜を遊ばれし也。
此の時、阿遲志貴高日子根神【自阿下四字以音】の到りたまひて、天若日子弔ひたまふ。喪の時、天より降り到てる天若日子の父、亦其の妻、皆哭き云く
「我が子は死なず有けり。」
「我が君は死なず坐せり。」
云ひ、手足に取り懸りて哭き悲しぶ也。其の過てる所以は、此二柱神の容姿、甚だ能く相似たり、故、是以て過つ也。
是に阿遲志貴高日子根神、大きに怒りて曰く「我は愛し友故、弔ひ來しのみ。何ぞ吾を穢き死人に比ぶや。」云ふや、御佩せし十掬劒拔き、其喪屋切り伏せ、足蹶以て離ち遣る。此は美濃國藍見河の河上に在す喪山のこと也。其の持し切らる所の大刀が名、大量と謂ふ。亦の名を神度劒【度字以音】と謂ふ。
故、阿治志貴高日子根神の忿りて飛び去れし時。其の伊呂妹高比賣命、其の御名を顯さむと思し、故、歌ひ曰く、
阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多麻能美須麻流 美須麻流邇 阿那陀麻波夜 美多邇 布多和多良須 阿治志貴多迦 比古泥能迦微曾也
天なるや 乙棚機の 項がせる 珠のみすまる 御統に あな珠はや 御谷 ふた渡らす アチシキタカヒコネの神ぞや
日本書紀にも同様の話を載せる。
高皇産靈尊、天稚彥に天鹿兒弓及び天羽羽矢賜はり、以て之に遣はしたまふ。此神も亦忠誠ならず、來し到るや卽ち、顯國玉の女子なる下照姬、亦の名は高姬、亦の名は稚國玉を娶りたまふ。
…
天稚彥の妻なる下照姬が悲哀に哭泣く聲、天に達す。是時、天國玉、其の哭聲聞くや則ち、夫れ天稚彥が已に死すを知りたまふ。乃ち疾風遣り、尸舉げ天に致し、便ち喪屋造りて之に殯す。卽ち川鴈もて持傾頭者及持帚者と爲す。
一云、鶏もて持傾頭者と爲し、川鴈もて持帚者と爲し、又雀もて舂女と爲す。
一云、乃ち川鴈もて持傾頭者と爲し、亦持帚者と爲し、鴗もて尸者と爲し、雀もて春者と爲し、鷦鷯もて哭者と爲し、鵄もて造綿者と爲し、烏もて宍人者と爲す、凡そ衆鳥もて事を任しき。
して八日八夜、啼哭き悲しび歌へき。
『玉』は『魂』の意。また異伝に曰く。
時に味耜高彥根神、華艶に光れる儀は二丘二谷の間に映ゆ。故、喪に會へるは之に歌ひ曰く。
或は云ふ、味耜高彥根神の妹なる下照媛、衆人をして知ら令めむを欲す、丘谷映ゆは是れ味耜高彥根神と。故、之に歌ひ曰く、
阿妹奈屢夜 乙登多奈婆多廼 汚奈餓勢屢 多磨廼彌素磨屢廼 阿奈陀磨波夜 彌多爾 輔柁和柁邏須 阿泥素企多伽避顧禰
あめなるや おとたなばたす おながせる たますみすまるす あなだまはや みたに ふたわたらす あねすきたかひこね
と、このように称揚される高姫/下照姫はしかし、出雲国風土記には見当たらない。記紀より後にできた風土記は、記紀の引用も少なくないが、出雲國のものは重複を避けるように編纂されていて、それにしても記事がないのは寂しい。
多紀理毘賣命は宗像の奥津宮の神と記されており、その娘となると、国土経営より北部九州とのコネクションだったのではないか。 味耜高彦根命・下照姫命は、大己貴命と共に、福岡県福津市八並の的原神社に祀る。そこは許斐山の麓で、合併前は宗像郡福間町に属した。「彦山縁起」に拠ると、彦山を天忍穂耳に譲った大己貴命が、許斐山に遷座したという。




