出雲大社周辺 日御碕神社
出雲大社から北へ少々、北端の岬… の手前を西に降りた小さな港に隣接する日御碕神社は、式内社御碕神社に比定される。
上の本社(神の宮)に神素戔嗚尊を、下の本社(日沈の宮)に天照大御神を祀る。華麗な楼門共々、社殿は徳川家光公の寄進という。
出雲國風土記の出雲郷神社に
神祇官社:美佐伎社
神祇官不在社:御前社 同御埼社
百枝槐社
とあり、経島に鎮座した百枝槐社を日沈宮に遷したとか。今では2社セットで拝むのは、元は別々の社だったらしい。
神の宮→十九社→日沈の宮と回って御朱印頂戴し拝殿横から降りてみると、なるほど海へ向かう鳥居がある。
小さな港の沖合に小島があって立ち入り禁止、ウミネコ繁殖地になっている。その中に鳥居と祠があるようだが、祭礼はどうするのだろう。
途中に濠を廻らした宗像神社があり、田心姫神を祀る。神の宮にも宗像三女神を配祀するとどこかで見たが、此方は田心姫とのみ。
門司の和布刈神社と同じ和布刈神事が伝わると聞いたのは、この境内にはなく、この東、宇龍の権現島に鎮座する境外摂社熊野神社の事だった。そちらは知らず行かなかったので、再訪を考えていたら、その年の暮れに脳梗塞で倒れ、行っていない。リハビリは終わったので、疫病が止んだら行ってみたい。
ご縁起:
素盞嗚尊が出雲の国造り後、根の国に渡り、熊成の峰に登ると「吾の神魂はこの柏葉の止る所に住まん」と柏の葉を投げ、占し給う。すると柏の葉は風に舞い、やがて日御碕の現社地背後「隠ヶ丘」に止まる。これにより天葺根命ここに素盞嗚尊の神魂の鎮まりませるとして斎き祀った。
柏は日本書紀の本文、熊成峯・天之葺根神は異伝に見える。
故、素戔嗚尊、奇稻田姬立て化すは湯津爪櫛と爲して御髻に插す。乃ち脚摩乳・手摩乳をして八醞酒釀しめ、幷せて假庪【假庪、此云佐受枳】作り八間おのおの一口に槽置きて酒を盛り、以て之に待ちませり。
果して期の至り大蛇有り。頭尾おのおの八岐有り、眼は赤酸醤(あかゝゞち)【赤酸醤、此云阿箇箇鵝知】の如く、松柏背上に生へて八丘八谷の間に蔓延す。酒を得るに及ぶや、頭おのおの一槽飲み、醉て睡る。
時に素戔嗚尊、乃ち帶せる十握劒拔き、其の蛇寸斬したまふ。尾に至り劒の刃少缺く。故、割り裂き其の尾視るに、中に一劒有り、此ぞ謂ゆる草薙劒。【草薙劒、此云倶娑那伎能都留伎】
一書に曰く。素戔嗚尊が所行無狀にして、諸神は科以て千座置戸して遂に之を逐ふ。是時、素戔嗚尊、其の子五十猛神帥ゐ、新羅國に降り到ち、曾尸茂梨の處に居す。
乃ち言興して曰く「此の地、吾居すを欲さず。」
遂に埴土を以て舟作り、乘るや東へ渡り、出雲國簸川上に到りませるは鳥上の峯。
時に彼處、人を呑める大蛇有り。素戔嗚尊、乃ち天蠅斫之劒(あめのはゞきりのつるぎ)以て、彼の大蛇斬りたまふ。時に蛇の尾斬て刃缺く。卽ち擘て之を視るに、尾の中一神劒有り。
素戔嗚尊曰く「此以て吾が私に用ゐる可からじ。」
乃ち五世孫なる天之葺根神遺はし、天に上げ奉る。此ぞ今に謂ゆる草薙劒。…
一書に曰く。素戔嗚尊曰く「韓鄕の嶋、是金銀有り。若し吾が兒使はす所の御國、浮寶有らずば、是は佳からず。」
乃ち鬚髯拔き之に散らし、卽ち杉と成る。又、胸毛拔き散らし、是は檜と成る。尻毛これ柀と成り、眉毛これ櫲樟と成る。
已にして其の用を定むに當り、乃ち之を稱し曰く
「杉及び櫲樟、此の兩樹もて浮寶と爲す可し。
檜もて瑞宮の材と爲す可し。
柀もて顯見蒼生の奧津に棄戸將臥の具と爲す可し。
夫れ須噉八十木種、皆能く播き生やせ。」
時に素戔嗚尊の子、號けて曰く五十猛命。妹に大屋津姬命、次に枛津姬命、凡そ此の三神、亦能く木種分け布き、卽ち紀伊國に渡り奉る也。
然る後、素戔嗚尊、熊成峯に居して、遂に根國に入るばかり。【棄戸、此云須多杯。柀、此云磨紀】
これによると『熊成峯』は、素戔嗚尊が根國に入る前の居住地で、熊野山ともされる(確証なし)。
出雲國に天降った素戔嗚尊が、八岐大蛇を退治して嫁を迎える英雄譚は、同時に酒造・植林・鍛冶・造船・奉納の始まりでもあり、更に和歌の始まりでもある。
然る後、將婚の處覓て行くに、遂に出雲の淸地にぞ到りませり。【淸地、此云素鵝】
乃ち言曰く「吾が心、淸淸之。」此、今に此の地を呼ばふに曰く淸。彼處に宮建つる。或は云ふ、時に武素戔嗚尊の歌つて曰く。
夜句茂多兔(八雲立つ)
伊弩毛夜覇餓岐(出雲八重垣)
兔磨語昧爾(妻籠目に)
夜覇餓枳都倶盧(八重垣つくる)
贈廼夜覇餓岐廻(その八重垣を)
乃ち相與遘合して生みたまへる兒、大己貴神。
之に因み勅し曰く「吾が兒の宮首は、卽ち脚摩乳・手摩乳なり。」故、二神に號け賜ひて曰く、稻田宮主神。已にして素戔嗚尊、遂に根國にぞ就きたまふ。
柏葉は、大嘗祭で皿代わりに使われ、今なお柏餅に使われるなど、食物に関わるのだが、上古には占いに使われたようだ。景行紀に曰く
天皇の初めて將に賊を討ちたまふ次は柏峽大野。其の野石有り、長六尺・廣三尺・厚一尺五寸。
天皇之に祈り曰く「朕の土蜘蛛滅すを得るならば、將に茲なる石を蹶るや、柏葉の如くに舉がりてむ。」
因みて之を蹶るや、則ち柏の如くに大虛に上る。故、號けて其の石を曰く蹈石。
景行天皇も神に近い英雄として描かれている訳だが、対して素戔嗚尊は万能にも見える神で、大己貴命が襲名する以前の大国主であったのも頷ける。と見えるのだが、その名で出雲國風土記に登場することは少ない。
山口郷 郡家正南四里二百九十八歩。須佐能袁命御子、都留支日子命詔、敷坐山口處在。詔而、故山口負給。
方結郷 郡家正東廿里八十歩。須佐能袁命御子、國忍別命詔、吾敷坐地者國形宜者。故云方結。
須佐郷 郡家正西一十九里。
神須佐能袁命詔、此國者雖小國、國處在。故我御名者、非着木石。
詔而、即己命之御魂、鎮置給之。然即、大須佐田・小須佐田定給。故云須佐。即有正倉。
高間山 郡家正北一十里二百歩。高一百丈。周五里。北方有樫・椿等類。東・南・西三方並野也。古老傳云、神須佐能袁命御子、青幡佐草日古命、是山上麻蒔給。故云高麻山。即此山峯坐、其御魂也。
御室山 郡家東北一十九里一百八十歩。神須佐乃乎命、御室令造給、所宿。故云御室。
熊野大社に祀る熊野加武呂命は、この神の別名とされ、所造天下大神たる大穴持命と並び称される。しかし同一神とは書かれず、疑問が無くもない。




