28. 宙を舞う少年
終わらない日々の中を生きていた。
かつて、苦しみや痛みは僕の中で一番遠い存在だった。
家族も極めて普通で、3つ上の姉とはそれなりに上手くやれていた。友人にも恵まれていた。
幼い頃から嫌という程植えつけられた“いじめ”に関しての知識。
当時はそんなものを目撃したこともなかったし、どこか他人事のような気がしていた。
……そんな生活は、中学に上がった途端一変した。
理由もなく、それでいて一瞬にして、僕はクラスで浮いた存在になった。
人々は皆当たり前のような顔をしていて、僕が“そう”なることは、なぜかとても自然なことのように感じられた。
それから始まった毎日は最悪だった。
僕は元々、あまり目立つのが好きではなかった。
友人は一人いれば充分幸せだったし、誰かに対して恋愛感情を抱いたこともなかった。
特に欲もなく、ひっそりと過ごしてきた。
それで幸せだった。
それこそが幸せだった。
正直彼等の気に触るような行動をとった覚えもない。
“なんとなく嫌だから”という一文を理由に、彼等は言葉のナイフで僕を刺し、暴力の渦で僕を沈めた。
誰にも言えなかった。
両親は人並みに優しかったからこそ言えなかった。
両親の傷つく顔を見なくなかったし、あの暖かい空間に暗い空気を流したくなかった。
唯一の友人にも言えなかった。
彼とはただ単純に幸せな時間を満喫したかった。
学校外にいる時は、僕は普通の、普通に幸せな少年でいたかった。
僕は言えなかったんじゃない。
言わなかったんだ。
自分がまだ“普通”であるという証拠を、“普通”でいられる場所を失いたくなかった。
いつものように床に押し付けられながら、「あぁ、世の中本当にこんなことあるんだなぁ」なんて、のんきなことを考えた。
痛みはとっくにわからなくなっていた。
いや、どうでもよくなっていた。
何をしたって変わらない。
ただひたすらに1日が終わるまでじっと耐えるだけだ。
だんだんと、僕を踏みつける男の顔が影って行く。
そんな顔をしながら笑うくらいなら、手を引けよ。
そう思った瞬間、僕は気がついた。
……そうか。
僕は、僕がいるからダメなんだ。
僕はいつも、いつもいつもいつも、僕のせいで苦しかった。
僕がいるから痛かった。
僕は、いなくなれば良いんだ。
それに気づいた日から、僕は死ぬ準備を始めた。
それも簡単なことじゃなかった。
僕は確実に、それでいてひっそりと消えたかった。
全ての準備を終えるのに1ヶ月以上かかった。
僕は自殺方法にありがちな飛び降りを選んだ。
僕は死ぬために沢山の努力をした。
一番肝心な死に場所も、来月に解体される廃ビルを選んだ。
遺書には彼等のことは書かなかった。
家族に感謝と謝罪の言葉を贈る。
僕は、僕のせいで、僕のために死ぬんだ。
これは、僕の選んだ道だ。
少年は黒く錆びた柵を乗り越え、下を見る。
朝早い時間だからか、人の姿は全くない。
人通りの多い道に飛び降りたりしたら、下を歩くなんの罪もない人の命まで奪ってしまう。
かといって、あと1時間もすれば通勤時間になり、人がやってくる。
死体が見つからないということはないだろう。
少年の計画は抜かりなかった。
よって少年の行動を拒むものはなにもない。
ビル風に髪を踊らせ、最期に青い空を見上げた。
悲しいわけでもないのに、瞳から水の滴るような速さで涙が頬を伝い、コンクリートを濡らした。
そのまま少年は空中に一歩を踏み出す。
今までの平凡だった日々。大切だった家族。
心から信頼していた友人。
「……さよなら」
少年の呟いた小さな声は、周囲の風を切る音にあっけなく掻き消されて行った。




