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熱帯魚の冬  作者: RAMネコ
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第1話「知らない人形」

俺の部屋は物置きになっていたが、そこにあるものは、実家から出て行ったときと変わりなかった。


風呂などの水回りや、ガスが電気に変わっていたり、いつのまにかリフォームをしていたらしく、便利な家になっていた。知らなかった。父はもしかしたら、もう何十年かを生きるつもりだったのかも知れない。あるいは……いや、父はそんな、もしかしたら程度のことに大金を使う人ではなかった。


俺の部屋は使えない。だがだからと、他の家族が使っている部屋は気が引けた。なんとなく、居間に布団を敷いた。……エアコンが最新のものに買い換えられていた。


ケーテルを、スリープモードから起こした。やることがなかった。ポケット無線LANのお陰で、光ケーブルの工事もなしに、そこそこの通信量を定額で、だいたいどこでも繋げられるのだ。便利な世の中になったものだ。


「……」


時間潰しに、ネットで検索した。検索ワードは、適当だ。


世界の裏側で紛争があった。アフリカで実質的な大戦が起きていると、ネットニュースの片隅にあった。それと、再生していたゴリラの激減と、少数部族に対する浄化、ダイヤモンドの価格破壊とか。


AIと連動したリモートワーキング体制が奨励されているけど、企業の八割は遠隔機械化労働よりも外人を入れるほうを重視していたり、仕事の争奪戦が中産階級にまで波及していたり。外国籍移民の待遇拡大を目指す党派が選挙を狙っているようだ。


世界で初めての完全自動化ドックで大型タンカーが竣工したニュースとか、田んぼ農家の多くは自動化と機械化が進んで、その流れは他の農家にも広がっているそうだ。機械と自然の結婚、最新の農業がやっと日本にも普及!だそうだ。


世界はーーずっと、変わり続けている。あるいは変わらずに抵抗を続けている。


じゃ、俺はどうなんだろう?


俺は、何も変わらないし、何も抵抗はしていなかった。世界がどこか、他人事だった。関係のない世界なのだから、関わることもなくて、環境なのだから、適応するしかない、それだけ。


親が死んでも、死に目にも立ち会わなかったことも、『おかしいと思われることで批判されても』、それは台風と同じだ。


耐えれば良い、それだけだから。


父が死んでも、悲しいという感情はなかった。ただ、その日がきたんだ、程度のことだ。猫が殺されたときほどの悲しさは、なかった。いつか必ずある、と考えた日がきた、それだけだからだ。


ーー孫に、会わせてやれなかったな。


心残りがあるとすれば、俺の将来に不安を持たせたままでいたかもしれないことだ。孫の顔にも会わせられなかった。甥っ子姪っ子と楽しげに遊んでいた父を思い出した。母も、まだ赤子だった孫を抱いて嬉しそうだった。俺の孫は、最後まで見せられなかったな。


もし俺が結婚していて、子供が何人かいたら、父はーーまあいいさ。今ここには、妻も、子もいない。それが全てだ。


……何時間かケーテルのタッチパネルをたぷたぷと叩いていると、少しづつ眠気が濃くなり始めた。タッチパネルの時計を見るに、〇二〇〇時だ。そろそろ寝ようか、と思い出した時だった。


ーーガタッ。


襖の先から物音がした。重いものが倒れた、大きな音だ。俺は冷静だった。狸でも入った程度の考えだ。ありえない話ではなかった。追い出さなければ、被害を重ねられてしまう。住み心地が良いから、侵入してくるのだ。獣に言葉は不要だ。


俺は、一番身近にあった武器である、箒を手にした。狸の頭をこれで殴るのだ。可哀想なんて感情は微塵も湧かなかった。


寝間着に箒装備での狸退治だ。噛みつかれたり、引っ掻かれる警戒をした。アニメのようなコロコロした可愛い連中なら、野生の獣ではない。連中はしたたかだ。


俺は物音のした襖に手をかけた。たしか、昔見たときまでは、物置にされていたはずだ。電気アンカーとか、掛け軸とか、確か布団や二眼レフが置かれていた。最後に見たときは、だが。俺は一拍、呼吸を整えて、襖を一気に開けた。


「……」


そこにいたのは、狸などではなかった。ましてや生き物でもない。拍子抜けして、手にしていた箒を離した。なんてことはないーー人形だ。


背丈は……1mと40cmはないな。随分と小柄なお嬢さんが、この家にはあまり似つかわしくない、外国産の木の香りが残る高級そうな椅子に腰掛けていた。髪は栗色、気怠げに半目に瞼が落ちた目の瞳は空色混じりの翡翠、胸は平ら、全体的にむちむちとしているが、膨よかと言うほどには太ましさは微妙なところ。


服は着ていない。当然だろう。関節が剥きだしではないシームレスボディのスキンは柔らかなシリコンだ。シリコンのスキンには、オイルが浮きあがり光っていた。ドールのメンテナンスに、オイルを拭くこととあることくらい知っていた。


長いこと放置されていたのか?と押入れの中を探した。オイルブリードを父が知らなかったとも思えない。パウダーと刷毛が……あった。俺は気合いを入れて、このお嬢さんを押入れの外へと出した。重い、重いとラブドールを買って最初に驚くのは聞いたことがあるが、人間ひとり分よりずっと軽い。


ドールを、俺の体で支えつつ、椅子だけ先に出して座らせようとした。流石に裸で転がせるのには抵抗がある。ドールの柔らかい肌に触れた。少しオイルが浮いた肌は冷たく、そして柔らかく沈む感覚があった。小さな胸なら男の胸板と変わらないだろうと思っていたが……その膨らみは小さくとも、やはり女の子なのだと感じさせられた。


「よっこらしょ」


俺はドールを椅子に座らせた。オイルまみれは嫌だろう。刷毛にベビーパウダーをつけ、全身のオイルを吸わせた。そう、神経質には拭かない。オイルブリードがおさまり、ドールの肌が落ち着いた輝きに戻った?服を着せてやりたいが、押入れの中には無かった。父も、女物の服を買いに行く勇気はなかったのか。なら、このドールはどうやって買ったのだろうか。


俺は小さな疑問を持ちつつも、ドールを観察した。眠気は、いつのまにかなくなっていた。空色混じりの翡翠のグラスアイが、光を含んだ視線で見つめているのだ。気になって仕方がない。


綺麗な肌とは違う。右脚の太腿の付け根には、製造番号なのかアルファベットとアラビア数字の羅列が太腿をぐるりと回って刻印あるいは刺青されていた。意味のある単語ではないだろう。


ラブドール、なのか?股間部には生殖器を模したオナホールと同質のものが内蔵されている。つまりはセックス向けのドールということだろう。……父の嫌な一面を知ってしまった気分になる。つまり父はこれでセックスをしていたのか?いや、およそそれらしいものはなかった。手入れの雑さを見ても、例え使ったとしても、新品のように洗ったあとというには綺麗すぎる。


俺は、この名前も知らないラブドールのお嬢さんの脚を合わし、両の手を膝の上に置かせた。開いていたヴァギナを隠させる。お嬢さんなのだ。ーーすぐにでも、衣装を買ってやるほうがいい。裸のままでは、文化的ではないからな。


おもわぬ同居人に、驚きがないことはない。だがそれよりも、俺にあったのは安心感だった。この広い一軒家に、一人ではなかった。それが、静かに沈んでいた孤独に蓋をした。しかし彼女の『名前』がわからない。


何か手がかりはないかと、父の書斎だった部屋をひっくり返したが、あったのは日記だけだ。簡素で安そうな小さな鍵がかけられていた。誰も読まないというのに……。俺は適当なクリップを捻じ曲げて、この鍵を開けた。父の内心が赤裸々だ。俺は、読むべきではなかった、『知っていた真実』がつらつらだ。


父が、ドールを買った記述はどこにもなかった。


「お前は何者なんだろうね」


俺は和室にいる、西洋の椅子に腰かけたドールに話しかけ、


「なにいってんだろ」


おかしいことに気がついた。ドールに、人形に話しかけるなんて。ましてこれはラブドールだ。性処理をするためだけの存在に、必要のない会話を求めたなんて、不要だ。ただ……綺麗なドールだ。迷子のドール。


俺はこのことを、『俺の日記帳』に書き残した。明日になっても、あるいは次に会っても忘れないために。夜はもう、深すぎる時間だ。


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