わたし、あなたにたべられたい。
美しい人魚に恋をした少女の話……を書きたかった。
海上で火の手が上がっているせいだろうか。
炎に照らされた夜の海中はとても明るかった。
目の前を船の一部だった木片が沈んでいく。
沈む大小さまざまな木片たち。
その合間を縫うように、悠々と泳ぐ大きな魚の姿があった。
背中からピンと生えた立派な背ビレ。
実際目にしたのは初めてだったけど、図鑑では見たことがあったのでそれの正体はすぐに分かった。
むしろ特徴とも言える背ビレを見て分からない方がおかしい。
────鮫。
船の沈没を知り投げ出された人々の気配を嗅ぎ取ったのか、鮫が集まっていた。
なんて恐ろしい光景で……美しいのだろう。
私は何故か食われるかもしれない恐怖より、目の前の光景に心惹かれていた。
浮き上がる気力もなく、息もできずに朦朧としていたせいかもしれない。
炎の赤色に映し出されたシルエットが、私の目にはとても幻想的に見えた。
しなやかに下半身を左右に揺らし、一匹の鮫が私に近付いてくる。
沈む餌に気付いて食べに来たんだと、そう思った。
だけどその鮫は私の予想に反して何もしない。
私の様子を窺うかのように、ぐるぐると私の周りを泳ぐだけ。
やがて私に限界が訪れた。
息ができない苦しさに思わず残りの酸素を吐き出してしまったのだ。
ぼこぼこっと大きな水泡が目の前で生まれ、ぷかぷかと浮かび上がる。
だけど私は浮かび上がれない。水を吸った服が重た過ぎて動けないし、そもそも私カナヅチだった。
口を開けた拍子にがばがばと海水が流れ込んでくる。
しょっぱいを通り越して塩辛い。
ていうか不味い。
苦しい。
苦しい。
ああ、沈んでいく。
意識まで深い闇へ。
私はこのまま……船の欠片とともに沈むのだろうか。
今はまだ燃え盛る炎に照らされているおかげで明るくても、その明るささえ届かない深い海の底まで沈み無惨な水死体となる。
────それが私、シユラ・マルマーレの終わり方……。
怖い。
でももう苦しい。
諦めよう、これが私の運命だったのだ。
(………………………あ、れ……?)
そうして意識が闇へと沈もうとした時、それとは反対に私の身体は海中を浮上する感覚を得ていた。
────誰かの腕に抱かれている。
それに気づいたとき、私の視界の端に映ったのは赤色に照らされた蒼色の体躯。
どうにか視線を少し上に向けると、眉目秀麗な顔立ちとそれが持つ眩しい金髪の向こうで蒼いヒレが揺れているのが見えた。
なんて美しい鮫なのだろう。
────こんな鮫になら、私、食べられてもいい。
そんな馬鹿なことを思ったのと海面への浮上を果たしたのはほぼ同時だった。
そして意識が途切れたのもそのときで────
気づけば私は救助艇の上にいた。
ざわざわと潮風が頬を撫でる。
目の前に広がるは太陽に照らされて燦々ときらめく大海原。
「……っとと」
ざぱん、と強い波が船体にぶつかる。
その衝撃で乗っていた小船が揺れて私は慌てて手すりに捕まった。
茶髪の女の顔が澄んだ青色の海面に映る。
あの日とはまた違う、新しい夢にわくわくしている私の顔だ。
海にはもうあの事故の面影はない。
木片一つ浮かんでいなければ、もちろん燃え盛る船の姿も。
ざぶざぶと波に揺られ、私はあの事故の現場に来ていた。
────わざわざ、小型の帆船を買って。
あの日、私は憧れの王都へ旅立とうとしていた。
生まれ育った田舎町は嫌いじゃないし、のんびり平和に暮らすのに悪くない場所ではあるが、やはり憧れを捨てられず私は鞄一つを持って故郷を出ることにしたのだ。
────夢と希望、そして十歳から八年間コツコツと貯めてきたお金は船と共に海底へと沈んでしまったけど。
あれから二年……実に長かった。
幸いにも犠牲者を一人も出さなかったあの事故は『奇跡』として連日新聞紙や雑誌の一面を賑わせたのだけど、その分私含む生還者たちは、生還しました! 神様ありがとう! 日常に戻りマース! ……とはいかなかった。
私と同じように全財産が海に沈んでしまった、という人がいるのもそうだけど、それ以上に周囲の人たちが私達を放ってくれなかったのだ。
いつの間にか撮られていた顔写真によって誰が奇跡の生還者なのかはバレバレ。
どこに行っても不躾に興味本位な視線を投げられ、記者たちが何かすごい話を聞き出そうと毎日やってくる。
王都へ渡るつもりだった私はそのためのお金まで失くしたので渋々故郷へ戻ったわけだけど、前述した通りなのでそれはそれは煩わしい日々となり……
仕事は出来ても、支障が出るレベル。
私だけじゃない、家族までも不躾な視線に晒される。
なのでこの状況には私よりも家族の方が参ってしまい、あんなに反対していたのに『この金を持って好きに生きろ』と追い出されてしまいました。
故郷に戻って半年も経たない頃のことだった。
奇跡の後に待ち受けていたのは悲惨な現実って、なんてまぁ皮肉な話でしょう。
────でもね、いいんです。
あの日抱いていた夢も希望もお金も失くしてしまったけど、その代わり私は新しい夢と希望を手に入れたから。
今でも忘れられない。
しなやかな体躯、美しい金糸の髪……
故郷を追い出されたあと、国が出している海難事故の保障が受けられるということで私はそれに甘えることにした。
憧れだった王都で仕事を探し、とある勉強をしながら再びお金を貯める────相変わらず不躾な人たちが周りにいたけど持ち前の明るさで笑ってスルー。
そしてやっと今日……あの海にもう一度戻ることが出来た。
私を救ってくれた命の恩人に会うために。
「んー……たぶんこの辺りで間違いないと思うんだけどなぁ」
古書店で買った海図を手にむむむと唸る。
事故を報じる新聞紙や港で働く船乗りたちから聞いた話を統合し、海図には事故現場と思われる位置に☓印をつけておいたのだけど……
何せここは海のど真ん中。
目印になるものは何も無いし、本当にここなのかどうかの確信もない。
これでは海図の読み方、航海の仕方を勉強した意味も無い。
無い無い尽くし。
(……でも、絶対に会うと決めたんだ)
救助され目覚めた時から、もう一度会いたいと思っていた。
だからこの二年の苦難も耐えることが出来たし、家族に追い出されたショックもこれで心置きなく彼に会えるという前向きな思いに変えてやった。
しかし彼らに関してそれっぽい伝説はあるものの……実際目撃したという情報は私が経験した事故の生還者以外に無い。
でもあの日見た光景は夢じゃないと私は確信している。
だって確かに私は彼の腕に抱かれていた。
あの感触だって今も覚えているのだ。
「…………それっぽい影、それっぽい影は……うーん、無い」
双眼鏡を覗き込み、大海原を隅から隅まで見回す。
見渡す限り真っ青な海、海、海、時々イルカ、そしてウミネコ。
……やっぱり、ただの伝説でしかないのだろうか。
一瞬だけ落胆した私は過った考えを払うように慌てて首を振った。
(……ううん、絶対にいる! あれは幻なんかじゃなかった……!)
あの事故で犠牲者が一人も出なかったのは、その影で私達を助けてくれた人がいるからだ。
恩人たちを脅かしてはいけないと、生還者の誰もが語らなかった真実────それは人魚に助けられたこと。