不死身の獅子と少女の願いは交差する。
第三回書き出し祭り参加作品
【世界】の空は、青い。
太陽は燦々と眩しく世界を照らし、夜には宵闇に散りばめられた星たちと金色の月が輝く。
だが【狭間】では、違う。
日中の空は暁に染まり黒い太陽が狭間を照らす。
黒い太陽が彼方に沈めば空はセピア色へと変わり──狭間は赤い月の光に染められる。
夜の闇に覆われることもなければ、朝の光に包まれることもない。
しかし世界と等しく時は刻まれる。
まもなく赤い月が昇ろうとしていた。
静寂に包まれた夜の森を獅子が走っている。
木の間から差し込む赤い月光に照らされて輝くは金糸の毛並み。
ピンと立った三角耳と、王冠のような鬣に覆われた顔──大きな体躯の獅子だった。
しかしどこか不器用な走り方をしている。
よく見れば獅子は三本脚だった。
右前足から右胸辺りまでごっそりと欠けた獅子の身体から、ぼたぼたと血が落ちる。
その血は獅子が来た道を点々と汚していた。
赤い月明かりの中では紛れてしまいそうだが、注視すれば道標のように赤黒いシミがいくつもあるのが分かる。
普通なら死んでいそうな重傷だった。
やがて獅子は開けた場所に出ると、力尽きたようにばたりとその場に倒れた。
不思議なことに獅子の身体が徐々に変化し始める。
吸い込まれるように薄くなっていく金毛。
金色は肌色となり、獣そのものだった脚が伸びて人の形を作る。
やがて獅子の姿は消え、代わりにふさふさした長い金髪の男が大地に倒れていた。
────獅子の正体は、獣人だった。
ピンと立つ三角の耳が男と獅子が同一である何よりの証拠だ。
獣人は強靭な肉体を持つ。
常人なら致命傷となる大怪我でも耐えられるほどに頑丈だという。
だから獅子もとい男は右半身を無くしても生きていられたのだ。
しかし彼が生存できた理由は他にもある。
「ハァ……ハァ……ッ!」
彼は苦しそうに荒い息を繰り返しながらゴロリと仰向けになった。
凛々しい眉とは対象的な優しい垂れ目──月に似た赤い瞳がセピア色の夜空を見上げる。
その時、じゅくりと右半身が疼いた。
獣人の男──ローライは思った。
地獄のひとときがまた始まる、と。
「……ヴオオオオオオオオオ────!」
不死身の獅子、ローライ。
この狭間に生きる魔物たちに傷つけられ、身体を食われようと、たった一欠片さえあれば彼は生き返ることが出来る。
おかげでローライは百年もの刻をこの世界の狭間で孤独に生きていた。
死にたくとも死ねない、その苦しみを誰かと分かち合うことも出来ずに。
ローライが不死身の呪いを受けたのは二十歳の頃のことだった。
身体はその時から成長を止め、あの日と変わらず若々しいまま。
傷ひとつない胸元には唯一不死身の呪いを受けた証だけが刻まれている。
ローライが背負うこの呪い……元々は、彼の父の物だった。
あの日、無表情に父が漏らした『死にたい』という言葉。
そのたった一言にローライは父が抱える苦しみの全てを見たのだ。
だから残りは全て僕が背負うと、ローライは呪いを引き継ぐことを決意した。
全ては父を楽にしてやりたい、その一心で。
しかし今はそれを後悔しそうだった。
父親はローライに呪いを継がせてすぐ姿を消した。
恐らくもう魔物たちの腹の中にいるだろう。
最後に父が見せた表情はたくさんの時が過ぎた今でも夢に見る。
「……死にたい」
地獄のひとときを終え、肉体を復元し終えたローライがたった一言呟いた。
父が漏らしたものと同じ言葉を。
ただひとつ違うのは、その言葉を聞いてくれる者がローライの側に誰もいないことだ。
────不意に、セピア色の夜空に一筋の光が流れた。
一つ流れて消えたあとも、また一つ、もう一つと星が流れ続ける。
流星群だ。
空を滑る星たちを見ながら、ローライは思う。
この流れ星たちに向けて願いを唱えたら、今度こそ叶えてくれるだろうか。
いるかもしれない神に届けてくれるだろうか。
そっと目を閉じたローライの心に強い想いが浮ぶ。
呪いを継いでもらおうとは思わない、思わないから。
────ただこの苦しみに寄り添ってくれる人が欲しい。
独りでいる限り抜け出す事の出来ない永遠の地獄を、共に駆け抜けてくれる人を。
そうしてローライが目を開けた時、見上げた空に大きな穴が存在していた。
狭間を赤く染める月のその下に、ぽっかりと。
その時ざあっと風が吹いた。
風はローライの長い髪を持ち上げ、上昇する。
それはまるで空気に溶け込んだローライの願いを空にあいた大穴へ運ぼうとしているかのようだった。
だがその穴の向こうは一体どこに繋がっているのか。
ローライはそれを知らない。
いつの間にか流星群は姿を消していた。
それでもローライは穴あきの夜空をただ黙って見上げる。
────あの穴の先が孤独な獅子の希望を叶える誰かに繋がっていますようにと、そう願いながら。
☆
☆
☆
闇の先を知りたくて巨大な穴を覗き込んだ時、一陣の風が吹き上げた。
その風は少女の栗色の三つ編みをばたばたと揺らし、空に向かって通り抜ける。
しかし何故か頬を撫でた感触が人の手のように柔らかく思えて、少女は風を追うように空を見上げた。
青空と同じ色の瞳が照りつける陽射しの眩しさに目を細める。
そこには雨季を終え夏を迎えたばかりの景色しかなかった。
少女は視線を落とし、落下防止の背の高い柵に手を掛けて再度穴の方に目を向ける。
昔は両親が経営し今では叔父夫婦のものとなった牧場より何百倍も広大な穴。
この国に住む誰もが一度は考えたことがあるだろう。
大地にポッカリと空いたこの大穴は一体どこに繋がっているのか、と。
何でもここには獣人族の国があったらしい。
それがある日突然消滅した……この穴はその跡だと言われている。
だがそれは少女──カトリ=フィーユ・ウェイラントが産まれる遥か遥か遠い昔のことだ。
ヒトより僅かに数は少ないが獣人族は健在だ。
カトリたち人間と共に今もこの世界で暮らしている。
だから真実なんて分からない。
そして今のカトリには何が真実かどうかなどどうでも良いことだった。
闇に覆われた穴の中から視線を移し、カトリは中央を見やる。
大穴には向かい側とこちらを繋ぐ橋が掛かっていた。
普段、一般人は渡ることの出来ない。通常なら入り口は閉鎖され警備兵が見張りに立っている。
しかし今、橋を渡る者の姿があった。
体長一メートルほどの白地に黒の斑点が特徴的な体躯。
首に掛けた小さな鈴をちりりんと鳴らしながら、手綱を引かれた子山羊が橋の上を進んでいる。
カトリの山羊、カプリだった。
不幸にも今年の供物──獣人族の国を滅ぼした邪竜の怒りを治めるための生贄として、カプリはこれから穴に落とされる。
絶対に嫌だと、カプリを供物にするのは断固反対した。
だが例えカトリがハキハキと物を言う活発な性格をしていようと、所詮十七歳の若者。大人には敵わない。
カトリの表情が悔しさで歪む。
じわりと目頭が熱くなった。
己の無力さを思い出しぎりぎりと唇を噛んで、近づく別れの時をただ眺める。
「おいおい、お前の愛するカプリとお別れの時だぜ~? そんな怖い顔すんなって~笑って見送ってやれよ~」
そこへ軽妙に言葉を紡ぐ無神経な声が飛んできた。
少しだけ後ろに首を捻ってみれば、予想通りそこには小太りの男がいた。
ニヤニヤと笑みを浮かべる、叔父夫婦の一人息子ルーゼルだった。
一瞬だけ彼に鋭い眼を向けて、カトリは何も言わず視線を前に戻す。
背後で『無視すんなよ~』と何か聞こえたが、構わず無視する。
(……カプリ)
四隅にロープが取り付けられた籠の中にカプリがいる。
昇降装置が動かされ、もう間もなく穴へ降ろされようとしていた。
(……ごめんね)
いつも悪戯ばっかりで手がかかる癖に、こんな時だけ大人しくなって。無垢な表情で首を傾げちゃってさ……きっと何も分かってないよね。いや、分かってるのかな。
ごめんね、まだ子供なのに。
私もまだ子供なせいであなたが犠牲になってしまった。
「もうしょうがないことだろ~? アイツが供物になったことで、お前は念願だった約束が果たされることになるんだしさ~」
「……アンタなんかに言われなくても、分かってるわよ」
カトリにはどうしても叶えたいことがあった。
両親が亡くなってすぐ叔父と交わした約束────それを引き合いに出され、カトリは泣く泣くカプリを犠牲にすることを選んだのだった。
そう、最終的にカプリを差し出す事を決めたのは他でもないカトリ自身だ。
それを充分に自覚している。
何を犠牲にしてでも叶えたい夢だということも。
理不尽な目にどれだけ合おうと、その約束のためだけに頑張って来た。
手伝いの合間に勉強し、その時が来ても舐められることがないよう努力を続けた。
『その時』はもう明日に迫っているのだ。
だから選んでいられなかった。
(……私ひとりでも頑張ってみせるから。だから、お願い……)
────どうか穴の先がカプリを幸せにしてくれる人に繋がっていますように。
私は孤独になってもいい。無垢なあの子を私の代わりに愛してあげてください。
カトリの頬を涙が滑り落ちる。
子山羊を乗せた籠と少女の涙は、静かに闇の中へと沈んでいった。