第十七話
気がつくと、カルラは地上にいた。
目の前には、ボスのウルフフライと、十数匹の小さなウルフフライがいた。この状況を考えると、自分は子供たちの餌なのだと、カルラにはわかった。
巣は木の枝を集めた壁でできているだけで、簡単に抜け出せそうだ。背後は岩でとても登れないが、正面からなら簡単に突破できる。
ただし、敵がいなければの話だ。
カルラは肩に突き刺さっていたクレイヴの投げたナイフを抜き、両手で握り締めた。誰かが助けに来てくれるまで、自分の身を守らなければならないと思うと、泣きそうになった。
子供のウルフフライが近づいてきたので、カルラはナイフも持つ手を伸ばし、刺そうとした。だが、簡単に避けられてしまい、逆に腕を噛まれ、ナイフを落としてしまった。
絶叫する。
信じられなかった。自分がこんな状況にいることが……。
彼女は今まで平和に過ごしてきたし、必ず近くに力を貸してくれる人間がいた。それは他人だったり、家族だったりしたが、必ず助けがいた。しかし、今は誰もいないのだ。
手足をばたつかせ、必至に抵抗する。ボスのウルフフライが、彼女のやかましい抵抗に気づき、押さえつけようとしたのか、近づいてきた。
もう駄目だ――。
そう思った瞬間、木の枝の壁が弾けとんだ。視線の先にいたのは、ソルジャースクールでいつも自分を守ってくれた男の姿――アシド・ゲンベル。
「カルラさん、無事か!」
「た、助けて! 早く!」
アシドは全身傷だらけだった。左肩の肉は抉れ、髪の毛が半分赤く染まっている。右目が閉じて、唇からも大量の血を流していた。
左脚を引き摺り、腹部からも血が出ている。アシドは懸命にグラディウスを握り締め、子供のウルフフライを一気に三匹も切り捨てた。
怒り狂ったかのように、ボスのウルフフライが雄叫びを上げる。そして低空で飛翔し、アシドに体当たりを食らわせた。
「ぐぁっ……」
呻き、倒れこんだ彼に向けて、子供のウルフフライが飛び掛かった。その隙に、カルラは木の枝で作られた壁を必至によじ登り、反対側に降り立って、駆け出そうとした。
だが、すぐ前方に一匹のウルフフライが降り立つ。子供だが、彼女の恐怖を煽るには充分だ。壁の向こうでは、覇気の篭もったアシドの大声が響いていた。
「アシド! 助けて! こっちに一匹いるの!」
腰を抜かしたカルラが、必死に後方へと下がる。枝の壁に背をつけ、彼女はそれをよじ登ろうとした。眼前の危機よりも、中で戦っているアシドと一緒の空間にいたほうが安全だと考えたのだ。
だが、ウルフフライはカルラの脚に噛み付いた。絶叫し、アシドの助けを求めるが、彼は彼で自分の戦いで精一杯のようだ。
そのとき、カルラの涙で濡れた瞳は、突然ウルフフライの姿を見失った。何が起こったのかわからないが、消えたのだ。眼を擦り、どうなったのか確認するため、足元からゆっくり顔を上げる。
そこには……。
「あ……ああっ……!」
一瞬だけでも、助けが来たと期待していた彼女は、落胆以上に恐怖を感じた。
巨大な直立したドラゴンがいた。彼女はドラゴンを見たことはあったが、野生のものに会うのは初めてだった。
雄々しいまでの口先からは、子供ウルフフライの小さな羽がはみ出している。その眼はまだ餌を求め、カルラを見ていた。咀嚼するために一度小さく開いた口から、牙に突き刺さった肉片が窺える。
「ぎゃああああああああっ! ああああっ! こないで、こないでぇ!」
背を向け、必死に壁をよじ登り、ようやく巣の中に戻った。
アシドとボスのウルフフライは、お互いにフラフラだった。しかしすぐに決着がつくだろう。ウルフフライの脚は切り捨てられ、翼はもげかけている。アシドの右腕がなくなっていたが、左手だけでもグラディウスは振るえる。彼は勝利を確信していた。
そして、すぐにグラディウスで頭を貫いた。地に伏せた巨大なウルフフライを見て、アシドはカルラに笑顔で振り向く。だが、彼女は喜ぶというよりも、恐怖で顔が歪んでいた。
「もう……だいじょ……」
そういいかけたところで、アシドが力尽き、倒れた。
それを見て、カルラがまた泣き叫ぶ。自分を守ってくれる人間が消えたのだ。駆け寄り、身体を大きく揺さ振って、アシドを起こそうとするが、彼は一向に起きる気配を示さなかった。
「起きて! お願いだから、起きてよ!」
背後で、木の枝の壁が押し倒された。姿を現したドラゴンが、カルラとアシド、そして倒れているボスのウルフフライを凝視している。彼女はゆっくりと後退し、岩の壁に背をつけた。これ以上下がれない。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
カルラが大きな呼吸を繰り返す。ドラゴンはアシドに口を近づけ、大きな牙を彼の身体に食い込ませた。そして右半身を丸々噛み千切り、牙の間から血を流し、飲み込む。
もう言葉が出なかった。カルラは涙でぐしゃぐしゃになった顔で、アシドが食らわれていくのを見ていた。そして願う。あいつがアシドで満腹になり、自分に被害が及ばないように――。
だが、巨大なドラゴンは空腹だったらしい。その上、力のない新鮮な餌が目の前にあるのを、捕食者は放っておくはずがなかった。
「お願いっ! 助けて、誰かぁ! だっ……! グぃやっっ!」
一瞬だった。
綺麗な顔が苦痛にゆがみ、美しかった身体に牙が食い込む。それだけで、カルラは意識を失った。これは不幸中にして幸いだった。生きながら自分の身体が食われていくのを見るよりは……。
腹部を重点的に食らい、内臓を引きずり出し、骨を噛み砕き、脂肪を咀嚼する。そして首元に食らいつこうとした瞬間、背後に気配を感じ、振り向く。
「……食ってもいいけど、顔はやめて欲しいな。彼女、『眼』だけは素晴らしいんだ」
薄く笑みを浮かべ、トゥハンドソードとショートソードという、左右異なる長さの剣を持った少年が、そこに立っていた。
「残念だ。結局、二人とも助けられなかったか。これはノルさんに怒られるかもしれない。……でも、仇は討とう。一応、仲間だったし」
その表情からは、まるで残念という感情が窺えない。
クレイヴは左右の剣をそれぞれ外に振り、付着していた血を弾き飛ばした。
人間とドラゴンの立場が逆転した。今では、人間……クレイヴが、捕食者となっている。
クレイヴがドラゴンを見る。二本足で立ち、翼の生えていないモンスター。力強い鉤爪と、雄々しい顔。戦ったことはあるが、なかなか手強い相手だ。
「リントヴルム……にしては、少し小柄だな。あまりいい餌に恵まれなかったようだけど、彼女が最後の食事さ。さあ、無駄話はこれでおしまい。もっとも、会話ができるレベルじゃないと思うけど」
ドラゴンの中には、長寿によって人間の言葉を話せるものもいる。しかしこの目の前のリントヴルムはまだ若い。この森の食物連鎖の上部にいることは確かだが、食ってばかりで大した動きはしていないようで、明らかに捕食者としては二流だ。
クレイヴは一気に接近する。左右の腕を自らの身体に巻きつけるようにして、リントヴルムの懐にもぐりこんだ。想像通り、このリントヴルムは愚鈍だ。脂肪の塊で、動きがついていけていない。
彼が左右の腕を大きく開くと、リントヴルムの腹部に十字の傷ができた。リントヴルムは怯み、後方のカルラの死体を踏みつけそうになる。
「ちっ!」
クレイヴはショートソードを離し、トゥハンドソードを両手で握り締め、刃を立てずにリントヴルムに攻撃する。すると剣は切り込まず、そのまま巨体を巣の外に弾き飛ばした。
倒れた巨体に飛び掛かろうとしたクレイヴだが、そのまま大きく口を開いたリントヴルムが炎の弾を吐き出す。避ければカルラの死体が焼かれてしまうだろう。クレイヴはトゥハンドソードでそれを受け止めた。衝撃と熱波が彼を襲い、体制を崩す。
リントヴルムが起き上がり、もう一発炎の弾を吐き出そうとした。しかし、クレイヴのほうが早かった。足元のショートソードを蹴り上げ、振り被ったと同時に剣を掴み、投げる。炎が溜まった口に突っ込んだショートソードが、リントヴルムの中で爆発を引き起こす。痛みで口を閉じたせいで、リントヴルムの炎が行き場を失ったのだ。
牙がはじけ飛び、一部の肉片も口から放出された。それでもリントヴルムは立ち上がり、まだ生きていたが、もうクレイヴの勝ちは決まったも同然だ。
リントヴルムが接近してくるクレイヴを薙ぎ払う。しかし、当たったはずの身体は腕をすり抜け、そのまま消えてしまった。
視界の端で、もう一人のクレイヴがトゥハンドソードを振り被り、笑みを浮かべている。リントヴルムが攻撃したのは、クレイヴが能力で作ったもう一人の自分……ダミーだった。
巨大な剣が、リントヴルムの首に食い込み……切り落とす。
首と同時に着地したクレイヴは、巨体が倒れてくる方向にいたため、後方に大きく跳んでそれを回避した。土埃がもうもうと立ち上り、被った砂で髪の色が変わる。
クレイヴは剣を仕舞おうとしたが、鞘を置いてきたことに気づいたのでその場に突きたてた。自分の服と頭を払い、最後に手に向けて息を吹きかける。熱波の影響で、皮膚が焦げていた。
投げてしまった愛用のショートソードは、爆発の影響で四散している。これは代わりを買うしかない。
しかし、この犠牲は安いものだ。クレイヴはカルラに近づくと、涙で濡れた顔を見て、閉じた瞼を指で開かせた。
「ソルジャーになりたいんだったら、この『眼』を生かす努力をすべきだったね」
その横に腰を降ろしたクレイヴは、空を見上げて薄く笑みを浮かべた。
生きながらに持つ力を活用せず、ひたすらに他力本願であった少女。
仲間であるはずの彼女の首を、クレイヴは敵将を討ち取ったかのような心地で眺めた。