ごうとなれるは 雷の竜-Ⅱ
大山鳴動、雷万本。
山のようとか、雷だとか、そんな喩えは意味が無い。
其れは山だった。大人が大人の肩に乗り、三人目の手が掛かる距離。其れに余さず肉が詰まれば、質量ばかりが主張する。暴君竜が五頭で足りない。
遥か頂は更に上、ぐうと掲げる長い頸。大人が五人で届かない。樹海を見下ろす丸い頭は、雲の海を衝く霊峰だ。
そして、其れは雷だった。萬に束ねた雷が、森を裂いては大地を穿つ。音の力が空気を砕く。
雷馬など何でも無い。
ごうとなりてはかみとなる、ごうとなれるはかみなりのりゅう。
◇ ◇ ◇
郵Ⅱ型防護帽の風防を、真ッ黒な雲がノックする。返事を待たずに、其れが始まる。
榴弾みたいな水塊が、草葉を散らかし地面で爆ぜる。森の手を取り雨が踊って、吹き荒ぶ風が林と唄う。
だから最初は、ススムも其れを、単に雷と思っていた。
まさか、竜の姿の雷だとは。
稲妻の白が世界を染めて、雷の影が浮き上がる。
其の威容に、其の異様に、ススムは一つ身体を震う。
雨に冷えた訳では無かった。言い訳を挟む余地すら無い。
サイドスタンドで機動車を停める。荷台箱を手早く開ける。雨合羽を出して手早く閉める。箱の中身が濡れないように、手早く手早く、だ。
手早く手早く、雨合羽を羽織る。黒地に黄色の反射材。アメリカの消防服を思わせて、少しだけ格好良い。
右腿の拳銃嚢から銃を抜く。其れに応じて無線が開く。
「対応指揮局、対応指揮局。此方小山内、〈四ツ足〉を確認――どうぞ」
カメラが起動し、映像を送る。
〈此方、対応指揮局。感度不良、感度不良。――どうぞ〉
雨の所為だか雷か、無線の感度が宜しくない。
雑音に塗れた伊香の声は、何と言い得ぬ色気があった。綺麗なものを汚したような、加虐にも似た背徳感。
いつだって、ススムの感度は良好なのだ。
「〈四ツ足〉を確認、繰り返す、〈四ツ足〉を確認。発砲許可を願う。――どうぞ」
可能な限り、一言ひとこと、はっきり告げる。雨足は強く、ススムと伊香の邪魔をする。
〈対象を確認。発砲許可。〈常恐〉開始〈常恐〉開始。健闘を。――交信終了!〉
ホルスターから弾倉を抜く。ラベルシールにポップ体、「追跡弾(試)」と貼られている。緊張感を削がれつつ、銃の台尻へと其れを捻じ込む。遊底を引いて初弾を装填すると、拍を取るように金属音。遠く離れた対応指揮局が、遠隔安全装置を解除した。
さあ。
「〈非常措置:対恐竜〉開始――!」
誰への報告でも無くて、自分の為に呟いた。
雨は弱まる気も無くて、山は唸りを続けていた。
◇ ◇ ◇
目標、二時より一〇時へ西進中。
つまり、奴は此のまま道路を跨ぐ。其れが最後の機会のはずだ。
〈三本指〉にも、至近距離で効果が無かった。四五口径弾は威力に優れるが、貫通力は大きくない。
〈四ツ足〉は、牙も角も棘も持たない。其の体躯こそが武器で、防具だ。分厚い皮膚に、籠められた肉。引き裂く爪も喰い千切る牙も、生命にまでは届かせない。肉を斬らせて生命を守る。並のものなら、寄るも叶わぬ。
酸素供給機構のダイヤルを、かちりと回す。「巡行・強」。過給機の煽りを受けて、エンジンが猛る。アクセルを、じわりと開く。
熱持つ地面で雨が煙って、銀の杏が霞を纏う。霊峰へ続く雲の海。
白い道に飛沫が跳ねて、淡い光を湛えている。雲の海を割る天の道。
赤い機動車の快刀が、乱麻の雲をば真ッ二断つ。
太刀筋、勢い、其のままに、懐目掛けて逆の袈裟。
速度計は容易く振り切ったから、刃も同じく振り切った。
◇ ◇ ◇
肉の鎧。革の帷子。
ススムが狙うは其の継ぎ目。比して柔らかい腹ならば、此の小刀とて突き立つはずだ。
しかし。巨体を支える四ツ足は、互い違いの重い門。前に進まんとする大きな意志に、開くと閉まるを繰り返す。
閉じる手前に飛び込んで、奥が開けば脱けて出る。
ススムの若い動体視力は、彼に其れを成し遂げさせた。
水滴が辿る、鱗の輪郭。植物由来の排泄物が、雨で籠って、巨大な蜥蜴の匂いを作る。
左の脇は固く締める。四五口径の反動は、肘を伝って腰骨で受ける。銃が吠えては薬莢が飛び、防音具には当たって跳ねる。
そして五発を撃ち込んで、タイヤは右へ、車体は左へ。
ぬかったと、気付いたときには、ぬかるんだ。
四ツの足が巻き上げて、図らず仕掛けた泥の罠。二輪車の接地面積は葉書一枚ほどだ。其処に泥濘を巻き込めば、路面は呆気無くススムを見捨てる。
思うより早く逆へ倒すが、片手で御し切る訳が無い。思うより早く機動車が脱けて、生身のススムが路面を撫でる。滑る身体を、左の下腕で制動する。合羽の裏地の肘当ては、見事に職務を全うした。
転倒して、なお手放さなかった。己の意識にススムは呆れる。相棒が、左から右へ座席を移す。
身体を捻って俯き伏せる。右手から銃口が直線を作る。利き目が捉える、右の脇腹。
そうして、彼は一つの仕事を終えた。
◇ ◇ ◇
泥達磨の体で帰るや否や、洗車場で水を浴びた。
ずぶ濡れの制服を脱ぎ棄てて一息。そんなススムを迎えたのは、
「だからさ、ススムちゃん」
惹子の厳しい尋問だった。
テーブルを挟んで向き合わせ。大きく鮮やかなリボンが可愛い。
他校の生徒と制服同士。何も感じぬ訳が無い。
「はい」
多くの社員は退社した時間。ススムは取り敢えずの片付けをして、伊香にカメラのデータを渡したところだ。分析を待つのに食堂兼休憩室の扉を開けて、ニャンコの待ち伏せに遭った。
ともあれ、あの後が酷かった。〈四ツ足〉が通り過ぎたと思えば、象の足より太い尻尾が襲って来たのだ。転んだ先が傾斜になっていて助かった。ずるりずるりと左右に摺って、ススムの頭上を薙ぎ払う。巻き込まれるなら五体は離れる。
だから、高波のような泥を引っ被ったくらい、何でも無いはずなのだ。
「ブロントサウルスなんて恐竜は居ないの」
目尻を吊っても嫌味が無いのは、彼女の良いところだ
人差し指を振るのに合わせてポニーテールが揺れて、見えない項が脳裏に浮かぶ。
そんな彼女と二人きり。本当に、泥を被ったくらいじゃ釣りが出る。
「此れも、ねえ」
ニャンコが半眼で視線を落とす。ススムに描かせたスケッチだ。
確かにススムは絵心が無いが。あの特徴は間違い無い。はず。
「頭の位置が高過ぎるし、付け根は低いし……尻尾は引き摺ってるし」
流石にマニアの目線は鋭い。次々と駄目出しが飛ぶ。
「此れじゃ未確認生物だよ」
「伊香さんに言われたんだけどな」
微かな抵抗を試みて、
「うん。こりゃ鈴音ちゃんも補習が必要だね」
欠片の慈悲も無く打ち砕かれる。
ぷんすか、と憤慨。彼女は伊香を愛称で呼ぶ。
「てかさ、居ないってのが分かんないんだけど。ブロントサウルスって有名だし」
「ふふん、よくぞ訊いてくれました」
にゃあ、と彼女の表情が緩む。マニアの気分を良くするには、何かを訊くのが手っ取り早い。
開いた襟元も一緒に緩めば、ススムの気分も上を向く。
「恐竜って、昔は化石しか見付かってなかったじゃん?」
ススムは頷く。
恐ろしの竜の蘇りしは、二○世紀も終わりのことだ。其れまで彼らは、石の中に眠っていた。其れくらいのことは知っている。
「一九世紀のアメリカで、化石発掘と新種発見の競争があったの」
「競争?」
「そうそう。だから断片的な化石でも、取り敢えず論文に書いて発表したの」
「そんなことしたら、間違いも出るんじゃない?」
ちらちらと覗く細い鎖骨に、如何に心を乱されようと。間違って出さぬ自信がある。
欲と女性にしんしたれ。内向的助平者としての矜持。
「おお、筋が良いじゃん。前に見付かったのと同じ種属と分かれば、其の名前は消されてったってわけ」
だが、誰もがススムのようにしんしでは無い。欲に負ける人間は多い。
競争は発展の大きな力だが、競争が目的になれば力は狂う。
「てことは、ブロントサウルスも」
「そ。あとになってから、先に見付かった恐竜と同じだってことが分かった。んだけど、」
肘を机に、振った右手を口元に寄せる。
小さい前歯が人差し指に立ち、隙間から小さく吐息が漏れる。ススムも釣られて感嘆したいが、決して会話を忘れはしない。
「けど?」
「ブロントサウルスは更に面倒で。頭骨が見付かってなかったから、適当なレプリカを載せて復元したの」
「そんな適当な」
流石に呆れる。
其れに乗るようにニャンコが続ける。幾らでも乗って欲しい。
「そんな適当なの。もう完全に合成竜でしょ。でも、ブロントサウルスってネーミングが良くてさ」
「確かに――雷みたいだった」
彼方に響く遠雷と、大地を砕く万雷が、脳裏に落ちては身を震う。
ニャンコは見ない振りをしてくれた。
「其れが〈四ツ足〉の代表として広まったの」
「……なるほど、なあ。そう言うことか」
「そう言うこと。アパトサウルスの顔は細長いのに、合成竜はずんぐりしてた――ってのは、あとで分かったことなんだけど」
架空の生物。空想の産物。
「だから、ブロントサウルスは居ないってことね」
「よく出来ました」
にっこり破顔、ニャンコが褒める。
するとススムの背後で扉が開く。
「ススムくん、御待たせ――って」
「やっほー」
ニャンコが右手を掲げて振る。ブラウスの裾が引き上げられて、白い腹部が隙間に覗く。
「ニャンちゃん、何で」
予想外の人物に驚く伊香。
彼女もまた、ニャンコのことを愛称で呼ぶ。
「事情聴取と、補習を少し」
「補習?」
鸚鵡返しにしながら歩みを寄せる。
左の脇には書類を抱えて、右手が其れを支えている。少しだけ、豊かな胸部が持ち上がる。
ススムにとっては、其れで充分。しかし、マニアにとってはそうでは無いのだ。
「そうだよ、鈴音ちゃん! ブロントサウルスなんて嘘、ススムちゃんに教えちゃ駄目でしょ?」
があと牙を剥く後輩に、
「え。なになに、何の話?」
戸惑う伊香。
けれど構わず、ニャンコの隣の椅子を引く。二人にとっては、いつものことなのだろう。
「ああ、いや。いま、ニャンコさんに、ブロントサウルスって恐竜は居ないって話を聞いてまして」
隙を見て、ススムが事情を説明しておく。
〈四ツ足〉と違って、隙を逃しても死なないのが良い。
なるほど、と頷いて伊香が座る。書類は机。
「もー。鈴音ちゃんも補習なんだからー」
頬を膨らませての抗議にも、大人の余裕で微笑んだ。
書類の中から、一枚の紙。サイズは標準、A列4番。
「じゃあ、ニャンちゃん。此れ、ススムくんが撮った画像を、鮮明化した写真」
其れを見て、
「……え」
ニャンコの表情が凍り付く。反対に、隣の伊香は微笑んだまま。
「どう?」
「なに、これ」
重さを体現した胴に、長い尻尾は引き摺られ、太い四肢は如何にも鈍い。
頸は垂直に天を衝き、ずんぐり頭が乗っている。
「ブロントサウルス、ね」
「なんで。こんな恐竜、居るわけないよ」
「……ススムくん、貴方が見たのは此れで違わないよね?」
「はい。間違い無く、此れです」
最早、二人の言葉は届いていない。
ニャンコは写真を近付けたり、遠ざけたり。傾けたり、引っ繰り返したりして格闘している。よもや此のまま石と化さぬか。
「て言うか。もう。毎回毎回、無茶しちゃ駄目なんだから。ね」
相変わらずの、大人の苦笑。
此れにはススムも謝るしかない。
「すんません。腹に撃ち込む以外、思い付かなくって」
「無事で良かった。本当に」
一つ息を吐き、苦を解く。
だから其処には、いつもの笑顔。
「御心配を御掛けしました」
「御蔭で、追跡弾も七発分が反応してる。試製にしては上出来、ね」
其れは良かった。頑張った甲斐もあると言うもの。
朗報に喜びを表そうとしたところで、
「ちょ、ちょっと待ってよ。何でこんなのが居るの?」
写真と絡まっていたニャンコが声を上げて、
「おう、雁首揃えやがって」
再び扉が開く。低い声が、上擦った音。
振り向かずとも誰かが分かる。二足歩行型化学兵器・佐藤 辰斗。
「佐藤さん、御疲れさまです」
「何だ、三宅まで居るじゃねえか」
やっぱり律儀な伊香に答えず、彼女の隣をじろりと睨む。ニャンコが竦む。
やっぱり此奴は許せない。そもそも、また持ち場を離れて何をやっていたのだ。泥に塗れたススムの銃を、掃除すると言う仕事があるのに。
「現場、どうでしたか」
ススムの怒りも気付かぬ素振り、静かに伊香が佐藤を促す。
佐藤が席に寄って来るから、ススムは椅子ごと距離を取る。向きを変えると見せた完璧な所作。此の数センチメートルが、ススムの生命を救うのだ。
「役場の施設課と仮設柵を敷いてきた。〈四ツ足〉の情報次第で更に強化せにゃならん」
佐藤は幸い、座らなかった。
右手でばりばり首筋を掻く。指先の脂を想像して、ススムは気分が悪くなる。
「其の〈四ツ足〉です」
「……ほう」
差し出された書類を、左手で受け取る。
掻く手を止めて、頁を手繰る。紙の端が滲む。
「ブロントサウルスか。懐かしい」
裂けそうな口の端を持ち上げる。
お前は愉快かも知れないが、見ているススムは不愉快極まる。
すると、意を決したようにニャンコが口を開く。
「あの。佐藤、さん」
「どうした」
書類から目も離さぬまま、佐藤が返す。
「此れは、本当にブロントサウルスなんですか?」
ススムからすれば、そんなこと。
でもニャンコにとっては大事なことだ。わざわざ佐藤と話すほどに。
「ああ。本当のブロントサウルスだ」
「……何でですか」
「人類が、其れを望んだからだ」
此処に至って、佐藤が両生類の顔を上げる。
「餓鬼のころ図鑑で見た、あのブロントサウルスを見たい。アパトサウルスじゃあない。重そうな身体で尻尾を引き摺り、高く持ち上げた丸い頸で水草を食む、あのブロントサウルスだ」
そうやって此奴は創られたんだ、と続ける。
人の勝手で創られて、人の勝手で殺されて、人の勝手で創られた。こんなふざけた話があるか。
「駆除、するんですか」
そして再び、
「必要ならな」
人の勝手で殺すのだ。
植物食竜の狩猟は違法だが、〈境界線〉を侵す場合は其れに限らない。
「伊香、〈四ツ足〉のデータを総て寄越せ」
「どうぞ」
残った書類を、伊香が渡す。
「俺は、もう一回役場へ行ってくる。三宅と小山内は早く帰れ」
紙束の端を机で揃え、持ち直したらば指を差す。短い指の、汚い右手。
空気が動いて、酸を腐らせた刺激臭。恐らくは汗に由来するもの。意識が遠くなりそうだ。
「伊香は小山内の銃を掃除しといてくれ」
「分かりました」
差した右手を伊香に向ける。
「どうせ、あの雨で泥ッだらけにしてやがるだろうからな」
目だけがぎょろりとススムを睨める。
視線を泳がせ逃げるの一手。さっさと返納して佐藤にやらせようと思っていたのに。
しかし、正直に言って響きは良い。ススムの銃を伊香がクリーニングする。大変グッドだ。
「其れが済んだら休んでおけ」
てきぱきと指示を出して踵を返した佐藤の背中は、
「すぐに、また、忙しくなるぞ」
ただの草臥れた中年男性だった。
恐竜の 歯磨き係と 配達員
ごうとなれるは 雷の竜-Ⅱ
―完―
註・
本稿での「ブロントサウルス」は、従来の「アパトサウルスの後行異名」との見地に基づくものです。
2015年4月に学術論文サイトにて発表された「アパトサウルスとブロントサウルスは別の属である」との研究成果を反映したものではありません。