ごうとなれるは 雷の竜-Ⅰ
姓は小山内、名はススム。読みの割には老けた顔。此れでも一応、一六歳。
外仕事ゆえ、肌は潤いを欠いている。短いはずの伸びてきた髪も、毛先が痛んで散らかる始末。なまじ「おさない」と姓にあるから、却って老けても見られる具合だ。加えて疲労の色が濃い。昨日の仕事は流石に応えた。
何せ、散々に叱られたのだ。伊香は心配だったと告げた上で、無事で良かったと言ってくれた。どうにも解せぬは佐藤だ。超過勤務の時間がああだ、後片付けの書類がこうだと、ススムを気遣う素振りも無かった。
兎にも角にも、疲れに疲れた。ゆえに午前は、眠りに眠った。授業の中身は覚えていない。
其れでも彼は、生きている。内で燻る生命力に、彼は身体を動かしていた。
◇ ◇ ◇
ひんやりとした、地下の空気のロッカー室。黒の詰襟を脱ぎ捨てて、紺の制服を身に纏う。潮路郵便局の非常勤職員、兼、郵防公社の協力社員。
「はふ」
着替えを済ませて階段を昇る。知らぬ間に欠伸が漏れる。眼は開いている、脚も動くが、如何にも頭が起きていない。
事務室の扉を漸う開ける。と。
「おー、ススムちゃーん。おはー」
快活とした、高いけれど嫌味の無い声。
其れが背中に打つかって、ふっと眠気が飛んで行く。生命力が、燃え上がる。
「あっ、惹子さん」
振り返れば、ポニーテールの小柄な同期。内務の非常勤職員。
三宅惹子 は、元気な猫みたいな女子高生だ。
髪の茶色は赤みが強くて、ぱっと明るい表情に映える。
「ススムちゃんさぁー、固い、固いよー」
薄水色した半袖ブラウス、臙脂のリボン、灰と黒とのチェック柄スカート。ススムとは違う、隣市の高校。
着崩した様は如何にも軽薄。ススムは彼女の着こなしが大好きだった。
「惹子で良いっての」
シャツのボタンは二つも外して、緩くリボンが垂れている。
開いた襟から鎖骨が覗く。其の下を走る装飾が、白い地肌に影だけ落とす。飽くまで胸囲は控え目だから、彼女は自身に頓着しない。
「あ、そうだった。――ニャンコ、さん」
何だか気恥ずかしくなって、言い淀んでしまう。
覗き込んでくるが、反射的に視線を落とす。スカートの丈は短くて、黒い靴下は膝まで隠す。
「んー。まだ固いけど、」
さらりとした内股の輪郭。合流地点は見えそうなのに、ただの一度も拝めていない。
だけれども、ススムには其れで充分だった。見えないものには浪漫が宿る。そりゃあ、かたくもなろうと言うもの。
「まあ、良しとしようか」
にゃははと笑って、紺のエプロンを被る。
――袖口の奥、艶めく窪みと下着の留紐。ススムは決して見逃さなかった。
「ススムちゃん、見たでしょ?」
声を潜めて、悪戯っぽく、ニャンコが言う。
「え? いや?」
図星を突かれて心臓が跳ねる。声が上擦る。
「見たと言うか……見てしまったと言うか」
嘘を吐けぬがススムの性だ。彼は、いつだって正直なのだ。
が、
「良いなあ、〈三本指〉見れて」
彼女こそ、当局きっての恐竜趣味者。
「え、あ」
己の疚しい心が痛い。
「……まあ、うん、」
内務作業の区分機と、電信出力機の間を通り過ぎる。
ごうんごうんと機械が唸る。
「見たと言うか……見てしまったと言うか」
「また、聞かせてね?」
まるで缶詰を見付けたような、きらりきらりとした大きな瞳。
ぶっちゃけ嫌な光景を見たし、生きているのが不思議なくらい。談笑するような話じゃない。けれど。
「俺で良ければ、勿論」
ニャンコと話すネタになるなら、昨日の死線も無駄ではあるまい。
他人の痛みをツマミにする、其れッくらいは許されよう。どうせいつかは喰われるならば、其の瞬間まで生きねばならぬ。食べられた人に過失は無いし、生きている人に責は無い。だからこそ、死ななかった人は生きねばならぬ。其れが生存競走なのだ。
ありがと、そんじゃまたね、とニャンコはひらひら手を振った。
出会いと別れ。ススムの所属は外務の担当、「集配営業部」。作業台の林を抜けて、部署の奥地へ辿り着く。
さて、出勤簿に捺印したら、間も無くススムの仕事が始まる。
◇ ◇ ◇
郵防公社は集配事務室の一角を間借りしている。休憩から戻った社員や、昼から始業の兼業人で、ざわざわ沸き立つ頃合いだ。
「あら、ススムくん」
ススムに向かって、伊香が微笑む。
其れには勿論、笑顔で返す。
「伊香さん、御疲れさまです」
だが、
「昨日は――其の、すんません、でした」
佐藤はどうでも良いが、伊香に心配と迷惑を掛けたのは事実だ。非礼は詫びるが筋だろう。佐藤はどうでも良いが。
「もう良いの。ススムくんが無事だったから、ね」
決して、こう言って欲しかった訳では無いのだ。決して。
「……有難う御座います」
「さ。今日の仕事だけど、ね」
「はい」
伊香が話題を切り替える。此れ以上、礼も詫びも言わせない。
こう言うところが、伊香の伊香たる所以なのだ。
「先ずは佐藤さんだけど、支社から御偉いさんが来てるの。先週末の件で、ね」
大概いつも、伊香の隣でコーヒーをしばいている。席を外しているのは珍しかった。
業務日誌を手に取って、周知事項を確認する。
「今日の最終物数は五六〇〇〇、書留は九〇三、まあ平常物数の範囲、ね」
「火曜日ですし、割と落ち着いてますね」
伊香が、頷いて続ける。
「でも相変わらず誤配の申告は多いから、軒下確認の徹底。其れと交通事故にも注意して、ね」
「はい」
「あとは、まあ、分かってると思うけど――」
ぱさり、と机に日誌を置く。
「恐竜にも、気を付けて、ね」
呆れたように、諦めたように、伊香が言う。
「勿論、です」
其れにススムは苦笑で返す。何を、どう、気を付ければ良いのだ。
「今日は〈研究所〉宛ての郵便があるから、尚更、ね」
了解です。――と口を開いて、ススムは言葉を喪った。空気が変わる。
異臭。悪臭。殺意が無いから、なお厄介だ。つもりは無くても、触れたものの呼吸を奪う。
「小山内か」
低い声を上擦らせるから、鼓膜が震える度に不快でしかない。
身長は低いけれど、横に広い体格の所為で小柄な印象は無い。上はススムと同様、紺のポロシャツ。下は緑と茶色が強い迷彩を穿く。どう見たって、衣服に対する虐待だ。
「今日は超過勤務するんじゃねえぞ」
どんな聴取をされたのか。疲れた振りだけは一丁前だ。
息を吐く度に、コーヒーと、煙草と、排泄物の混ざった臭いがする。其れに中年男性の汗と皮脂が加われば、国際法無視の生物化学兵器。
「佐藤さん、御疲れさまです」
「おう」
律儀に伊香が佐藤を労う。
佐藤 辰斗こそ、口臭の酷いススムの上司。身体に劣らず顔幅も広い。ぎょろりとした眼に潰れた鼻、荒れた肌、裂けたかのような口が、まるで両生類のようだ。頭髪は量こそ多いが、皮脂でべた付いているから見た目にも暴力的だった。そして、何と言っても、口臭が酷い。
胸もとのポケットから、眼鏡を引き出しながら言う。レンズは黄色が入っていて、掛けた様は安っぽいチンピラみたいだった。
「今日は〈研究所〉行くよな?」
「はい。郵便ありますから」
〈研究所〉宛ての郵便物は、佐藤が準備するはずだ。知っていることを訊くのは回りくどい。
「〈四ツ足〉出現の可能性がある。ありゃあ、もっと奥に居るはずなんだが」
「〈四ツ足〉、すか」
竜脚下目と称される、恐竜たちの識別名だ。頑丈な四肢と大きな胴体、長い首と尾、そして小さい頭を持つ連中。全長一〇メートル、体重二〇トン、此れが最小級だ。陸上に棲む、最も大きく、重たい生き物。
「〈研究所〉らへんの地震計が反応してる」
「地震計……?」
ススムが鸚鵡返しにする。
「ああ、震源が移動してる」
「データは生物以外の可能性を立証できない。其れも、重量級の、ね」
伊香が素早く補足する。
かつてインディアンは、竜脚下目の大腿骨を、「雷馬」のものだと信じた。雷とともに現れて、其の脚で野牛を蹴り殺す。伝承の中の化け物だ。
ゆえに雷竜とも俗称された。正確を求める風潮の中で、いつしか廃れた呼び名でもあるが。
「若し見付けたら、此奴を撃ち込んでこい」
ごとり、と机に鉄の塊を置いた。
「何すか、此れ」
「追跡弾だ。試製品だけどな」
ススムは手に取って眺めてみる。普段の11型けん銃の弾倉と同じに見える。
「基本的には11型けん銃の弾と変わりない」
椅子を回して、背後にあるロッカーの錠を外す。
「生体に衝突すると、其の体液を電力として起動する。一定間隔で電波を発して、大体の場所を受信機に表示する」
がちゃがちゃと金属音を立てて、ススムの愛銃を取り出した。
そうして机の上を指差す。けん銃等授受簿だ。機動車の鍵、書留保管庫の鍵、そう言ったものと同様に授受簿に捺印して受け取るのが決まり。
しかし押す為には近付かねばならぬ。口で密かに大きく吸って、意を決したらば一歩を踏み出す。目に沁みる。泣きそうだ。
「受信機、って言うのは?」
伊香が斬り込む。自分の仕事を察知したのだ。
「駐車場に届いてる。調整しろ」
「了解です」
言うが早いか席を立つ。
清潔感ある制服に、今日も胸もとが素敵に映える。
「小山内は配達な。早々と掛かれ」
「了解しました」
一刻も早く離れたかったから、佐藤の物言いも気にしなかった。
荷物を積み込んで、さあ出発だ。と、なったところで戻って来た。機動車の鍵を貰う為の、点呼を忘れていたからだった。
◇ ◇ ◇
今日も空には霞が掛かる。潮路市の〈空気清浄機〉は旧式なのだ。美味い空気は無料じゃない、「優良納税者」に許された御馳走だ。
此の辺りなら、朝日市や坊田市に住まねばならぬ。三市の電力を支える前者、三市の防衛を司る後者、そして人口が多いだけの我が市。インフラの差は明らかだった。
そんな不味い空気を、ススムは大いに吸い込んだ。肺の貧しさには自信がある。生きていられるなら、文句は無い。
一ッ通りの配達を終えて、ススムが向かうは北潮見町。市の北端たる此の町に、「出国」する為の〈関所〉がある。
〈境界線〉は高圧の電気柵だが、〈関所〉は二重の鉄門だ。防火扉のオバケみたいな分厚い門が、社員証で容易く開く。
機動車を押して一つ目を潜る。其処で再び社員証を翳せば、ススムの背後で一枚目が降りる。二枚の間は、相当な広さがある。噂には戦車が通れるサイズと聞いた。が、人類が此の〈境界線〉を押し戻したことは、唯の一度も無いのだった。
そして二枚目の扉が開き、ススムは竜の国へと入る。
◇ ◇ ◇
〈連絡道路〉は、劣化に強いコンクリート製だ。まるで山林を切り分けたように、白い道路が北へと走る。しかし「切り分けた」のは昔の話。今は「くっ付こう」とする森を、押し留めるのが精一杯だった。
そんな苦労を知ってか知らずか、ススムは機動車を走らせる。
ハンドル・アクセルの左側、方向指示器のすぐ下に、酸素供給機構のダイヤルがある。此れを「巡行・弱」へと回せば、〈ボトル〉から酸素が供給される。
低酸素地域でも速度を保つシステムだが、ゆえにガソリン車は専用免許が必要だ。だから多くは電動免許を取るし、生活は其れで充分だった。ただ緊急時の燃料補給が簡便なので、官公庁ではガソリン車を採用している。
垂れ込めるような木々のトンネル、などと言えば何ともメルヘン。だが現実では、そうも行かない。陽当たりの悪さは湿度に繋がる。地面から吸って大気に撒くから、森の下層は空気が重い。
光が無ければ光合成も不可能だ。だが植物も呼吸する。だから酸素の濃度は下がる。此の森は、地上に在るのに溺れそうだ。
登り坂に掛かり、速度が落ちる。シフト・ペダルを踏み込んで二速にする。エンジンが五月蠅い。
〈関所〉から〈研究所〉まで、片道で凡そ三〇キロメートル。半日分の配達に加え、此の往復を可能ならしめるのだから大したものだ。
此の往復で、恐竜に襲撃されたことは殆ど無い。何せ、恐竜たちは恐竜たちの生活圏が既に完成している。〈研究所〉よりも、更に「奥」。我らの知らない国がある。
其れでも彼らが「越境」して来るのは、矢張り人が纏まって住んでいるからだ。〈小鎌付き〉の襲撃は月に数回、〈三本指〉なら年に数回。特に後者は、偶に訪れては大害を為す、さながら台風みたいな存在だ。
坂道を登り切ったら木々が途切れる。ぱっと世界が明転する。
眼下に広がる、黄緑色の絨毯が眩しい。先までの道が暗かったから、余計に光が目に痛い。此の場所はススムの御気に入りだ。
なだらかに続く傾斜の草原。ぽつりぽつりと、二足の小型恐竜が草を食んでいる。群れは群れでも、居合わせただけの集団に近い。密度は低いが、数え切るのは諦めた方が良い。
識別名、〈頬有り〉。高く隆起した歯の名を持つ二足歩行竜。身体の見た目は〈小鎌付き〉に似る。大きさも近いが、肉は喰わない。角質の嘴で植物を毟り、咀嚼する。ゆえに零さない為の頬を有する。食事の効率は、繁殖力に直結する。膨大な個体数で、生態系の一翼を担う存在だ。
道の近くの何頭かが、エンジン音に気付いて首を擡げる。小柄な頭部に、眼窩は大きい。其れがススムを認めると、興味を失くして食事に戻る。
緩く大きな左のカーブ。曲がり切ったら、逆。見渡す限りの平和な風景。
何処までも続けば良い、とススムは思った。けれど、そんなことは無いことを知っている。
其れは、まるで、いつまでも平和が続かないようなものだ。
ごろごろ、と遠くで微かに空が啼く。ふと見遣れば、西の奥の空に黒い雲。山の天気は変わり易い。こりゃあ一雨ありそうだ。
覚悟とも諦念とも付かぬ想いで、再び森に呑み込まれた。
恐竜の 歯磨き係と 配達員
ごうとなれるは 雷の竜-Ⅰ
―完―