朱を喰らうは 異形の竜-Ⅲ
暴君竜の奇襲は、完璧だった。
彼らは屍肉食者であり、捕食者でもある。但し、其の巨体は追い駆けっこには適していない。
待ち伏せからの一撃。人間で言うところの糞座りにも近い姿勢を、小さくも力強い前肢が支える。強靭な後脚で立ち上がり、飛び掛かる。文字通り、骨をも砕く咬合力に、耐えられる生き物は存在しない。
ススムは、王様の存在に気付いていた。
何せ全長一〇メートル、重量五〇〇〇キログラムの肉塊だ。頭を隠して殺気を隠せず。だが。
何かが居るのは分かるのに、何処に居るかが分からない。此処に居るのは分かるのに、どれが其れかが分からない。
「わ! やっぱりきてくれたんだ!」
ススムの背後で無邪気な声。腕の中に居た少女は、脇を掻き分け荷台箱へ収まった。
憧れだった対面座位だが、此れが、どうにも具合が良くない。重いし、痛いし、少なくとも二輪車の運転に相応しい姿勢では無かった。そして。
――一昨日のことは誰にも話すな。
出勤早々、臭い口で強く言われたことを思い出す。
面倒事とは推測できた。しかし、此れほどとは思わなかった。
目の当たりにしながら、なお信じ難かった光景。〈歯磨き係〉と暴君竜の交流。若しくは、意思の疎通。
「ガルちゃん、どうしちゃったのかなあ」
由来は知れぬが〈三本指〉のことらしい。
肩に置かれた両手から困惑が伝わる。
彼女の言うままハンドルを切り、〈境界線〉から遠ざかる。踏み固められただけの竜の道。加えて積載物が重いから全身の筋肉で車体を操る。アクセルとハンドルを小刻みに調整する、調整し得る最高速。速度は出ないし出せやしない。大した距離は走っていない。其れでも身体が悲鳴を上げて、ススムは聞かない振りをした。
逃走する機動車。追撃する〈三本指〉。ざわめく森から、飛び出す巨竜。
青い竜と、赤い竜。傾く夕陽を背に受けて、大決戦の幕が開く。
◇ ◇ ◇
無論、〈三本指〉とて王者の気配に気付いていた。
其れでも矢張り、何処に居るかが分からなかった。緑に溶けない赤い身体は、しかし、緑に紛れることで高い迷彩効果を発揮する。其れは、まるで、モザイクのように。見るの視覚を掻き乱す。此処に居るのは分かるのに、どれが其れかが分からない。
深い草木の合間から、身体がずるりと浮き上がる。形を成すか成さぬの内に、大きな力が堰を切る。津波にも似た、強さの奔流。
〈三本指〉にとって幸運だったのは、其れが左側から迫ったことだ。負傷で霞む右眼ならば、恐らく其れを捉えられなかった。だから〈三本指〉は、本能に従って其の身を捩る。遠い祖先が失くしたはずの、被食者としての本能だ。
直撃を避けた〈三本指〉の左脇、暴君竜の突進が引っ掛かる。青い鱗が弾け飛び、〈三本指〉は玩具みたいに転がされる。
そんなものが飛び込んで来て、地を這うススムは敵わない。車体を倒せばバランスを崩し、急制動で転倒を避ける。一秒後、かつての進路を〈三本指〉の身体が塗り潰す。巻き上げられた礫が痛い。
ぞッとする間は無い。アクセルを開く。サイドミラーの中、暴君竜が踏み寄る。地面が揺れて、車体が言うことを聞かない。
「ちょっと!?」
声と同時に、右肩がばしんばしんと叩かれる。
「おい馬鹿、やめろ痛い危ない」
「どこいくつもりなの!?」
繊細を極めるハンドル操作が、物理的抗議に堪え兼ねてブレーキに至る。
「何処も何も、此処に居たら踏み潰されッぞ!」
そうと言う間にも〈三本指〉が立ち上がり、揺れは不協の重奏となる。
「そんなわけないでしょ!」
相変わらずの、謎の自信。
だが、そんな訳があるのだ。今の今、踏鞴を踏んだ〈三本指〉が、彼らの居る場所を圧し潰す。咄嗟に発進していなければ、陽の目を見るのは一億年後。
「俺らが化石になっちまう」
竜が石から蘇り、人が石へと封じらる。其れを受け入れ難きがゆえに、鉄の力に縋り付く。
「ボーくんは負けないから」
暴君竜のボーくん。名付け親こそ誰とは知れぬが、どうしてセンスは嫌いで無い。
いや、そんなことより。ボーくんの勝ち負けが問題では無いのだ。
「あのなあ――」
振り返って、言を継げなくなる。
大きな二つの瞳が、大きな二つの竜を映している。小さな二つの白い手が、赤いキャリーボックスの縁を強く握る。薄い唇を「へ」の字に結び、今にも何かが零れそうだ。
仕方無えなあ。口の中で呟いて、郵Ⅱ型保護帽の顎紐を外す。左足がサイドスタンドを起こし、がくんと車体が一つ揺れる。
「ふぇ?」
困惑の声と視線を無視して、ヘルメットを被せる。小さな頭に収まりは悪い。
「……危なくなったら逃げるからな」
「うん!」
いつも通りの、元気いっぱい。此れには、どうにも敵わない。
すると。瞳の中の取っ組み合いから、白い塊が飛び出した。喰らい付かんとて振り解かれた、〈三本指〉から抜けた牙。少女の頭に打ち当たり、二重の頭蓋にじいんと響く。
真ん丸な目を見開いて、半眼のススムと視線を合わす。ばつが悪そうに口を尖らせ、逃げるかのように視線を外す。柔らかい頬がもごもご動き、「ごめんなさい」が漏れて出る。
呆れたようにススムは笑って、ヘルメット越しに撫でてやった。〈三本指〉の唾液が手に付いた。
◇ ◇ ◇
ぼうくん、とは人が勝手に付けた名前だ。其れでも名前は姿を表す。全長では二メートルの差しか無いが、体重にして二・五倍。小回りにこそ分があれど、引っ掛けられればただでは済まない。
赤い竜が吼える。並の生き物ならば逃げ出すか、或るいは動けなくなるか。だが〈三本指〉は、並の生き物では無かった。此れでも一時は王だったのだ。若い者には負けられぬ。
青い竜が吼える。酷く耳障りな和音が響く。森の鳥たちが、ざぁッと飛び立つ。
ボーくんの踏み込みに、〈三本指〉は身を低くして突っ込んだ。しかし懐に勝機は無い。組み敷かれては煎餅になる。だから〈三本指〉は右側へ――暴君竜の左側面へ抜けた。
青い背中に引っ掛かる、小さい前肢の二本指。爪と鱗が擦れて拉ぐ。薄く一筋、傷を負う。ごきりと鈍く、指を折る。
〈三本指〉が側面を取った。暴君竜の眼は前を向き過ぎている。両眼視、或るいは咬合力と引き換えに生まれた死角。狙うは眼前、左脚。
踵を返した〈三本指〉が、下顎を落とす。総てを刈り取る、必殺の斧。暴君の脚を巨木に喩え、狙いも違わず振り下ろされる。
そして〈三本指〉は思い知るのだ。暴君の死角が、決して弱点では無いことを。硬い鱗と密な肉に、異形の牙は通らない。文字通り、何をやっても歯が立たない。
喰らい付かれた其のままに、赤茶けた脚が大きく踏み込む。剛力で以て引き剥がされて、〈三本指〉は姿勢を崩す。赤い鱗が幾つか飛んで、手斧の刃も零れ落ちる。
〈三本指〉が、縺れるように身体を起こす。視界が暗い。眩しい西陽を遮られ、此処に勝利を諦めた。
◇ ◇ ◇
打ち伏せた〈三本指〉の頸椎に、ボーくんが牙を剥く。悪鬼の如き肉食竜も、こうとなっては為す術も無い。盛者必衰。弱肉強食。自然の理。
知らず、ススムは目を逸らす。すると、がたんとバイクが大きく揺れる。すわ何事かと踏み留まれば、一人の少女が駆け出している。
「こらああああ!」
夕陽が、白いワンピースを橙に染める。肌も薄ら赤みを帯びて、流れる黒髪とともに煌めく。
「ボーくんってばあああ!」
場違いな絶叫が、見惚れそうになるススムを引き留めた。
「だめええええ!」
まただ。一昨日と同じ現象。
少女の意思で以て、暴君竜の動きが止まる。
〈歯磨き係〉は息を切らせて、其れでも、にっこり笑って見せた。
顔に貼りついた前髪を、華奢な左手が掻き分ける。対の右手は暴君竜の、吻をぺちぺち撫でている。
「よしよし、いいこね」
暴君竜は、ごろごろと喉を鳴らして返事した。
◇ ◇ ◇
「……で、こりゃ一体」
二体の巨竜に囲まれて、ススムは生きた心地がしない。
先刻までは忘れていた、腐った臭いが鼻腔に痛い。
「何をしてるんだ」
彼女の言うまま、キャリーボックスから彼女の牛乳缶(のようなもの)を降ろしてやった。
缶の上部は着脱式で、ちょうど水筒の蓋のようだ。其れを外して引っ繰り返せば、小さな盥みたいになる。側面にあるホースを引いて、口を盥に差し向ける。ボタンを幾つか何度か押して、管から透明な液が流れ出る。つんとするようで、甘いようで。血のようだからか、嗅ぎ覚えがあって。だけども、やっぱり、変な匂いだ。
盥が八分目になった辺りで排出が止まる。
「これが、わたしのおしごとだから!」
てきぱきと、まるで職人のような手捌きを止めずに少女が返す。
「まさか」
缶の側面、一メートル半ほどの棒。先には丈夫そうな毛の束が。
「ん?」
巨大な歯ブラシを抱えて、楽しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
ざばざばと、毛束を液に漬ける。
「はい、ガルちゃん! おくちあけてね」
負かされたときの俯せのまま、〈三本指〉は微動だにしない。
「もう! ちゃんとはみがきしないとむしばになっちゃうんだから!」
右手で歯ブラシ、左手は腰。少女が、ふんすと怒って見せる。
ガルちゃんが爬虫類で無ければ、きっと目が泳いでいた。表情の読めないはずの、動かぬ瞳。なのに何だか、ススムは其れを読み取れた気がした。
〈歯磨き係〉が歩を寄せると、ガルちゃんは諦めたように口を開ける。
「うん、いいこ」
満足げに吻を撫でると、小さい身体が下顎に乗っかる。
「あー、もう! またこんなのたべて!」
赤い襤褸切れが、歯の間に掛かっている。小さくて白い両手が、其れを何とか引っ張り出す。
「だめなんだよ、もう」
よいしょ、と呟いて地面に捨てる。どちゃっと湿った音がする。圧倒的な鉄の臭いに、融けた蛋白質と、排泄物が混じる。赤黒い粘性の塊から、何だか知りたくもない布切れが顔を覗かせている。
込み上げる嘔気を何とか呑み込む。口に酸味と苦味が広がり、喉の奥が薄く灼ける。
そんなススムを後目に、〈歯磨き係〉が身を戻す。
「もう、終わったのか?」
希望を込めた質問を、
「ううん、まだ、ぜんぜん」
あっさりと否定される。
汚れに汚れた歯ブラシを、盥を満たした液に浸す。ざば、ざば、と軽く濯ぐと毛束が元の白さを取り戻す。引き換え、盥が汚れに汚れる。
いったんブラシをススムに預け、缶の上部の内蓋を外す。其処へ抱えた盥で以て、赤黒い液体を流し込む。
ボタンを幾つか操作して、缶が低く唸りを上げる。六〇秒ほど、そうしていたか。場違いに、ちんと鳴っては唸りが止まる。
そしてホースを盥に入れる。其処から出て来たものは、無色透明の液だった。色も匂いも、先に出したものと同様だ。
「……此れ、一体どうなってんだ」
「これは〈はみがきセット〉だから!」
両手を腰に当て、ふふんと鼻息を噴いて見せる。
何の答えになってもいないが、此れはこう言うものだと思う他無い。
作業に戻る〈歯磨き係〉を見詰めつつ、ススムに一つの、極自然な疑問が沸き起こる。
彼女は一体、何者なのか。
こんな不思議な機械を背負って、暴君竜を手懐けて。其れも年端の行かない少女で、やってることが、歯磨き係。
何も一つとして理屈が合わない。だが何も一つとして偽りでは無い。
思考はぐるぐる。無限の回廊。いっそ袋小路に突き当たれば、諦めが着いたかも知れぬのだが。
◇ ◇ ◇
どのくらい、そうしていたか。
今や夕陽は際で光って、彼方の森を赤く燃やす。
「はい、おしまい!」
展開したときと同じように、手際良く、がちゃがちゃと〈歯磨きセット〉を収納して行く。
当の〈歯磨き係〉は、ブラシと違って汚れたままだ。肌と言わずワンピースと言わず、赤と黒の染みが斑の模様を作る。
「御疲れさん」
其れでも仕事をやり遂げた。満足げに笑う〈歯磨き係〉を労った。
「えへへ」
笑顔が、照れるように、いっそう崩れる。
右手が鼻の下を擦って、顔に汚れが移る。邪気の無い表情が、暗がりに明るい。
「じゃあ、わたしたちはかえるね」
何処に帰ると言うのか。
おい待てよ、と声にしようとしたときに。
「あ! これ、かえさなきゃ」
言ったものの、顎紐の外し方が分からないらしい。
駆け寄ってしゃがめば、顔の距離は三〇センチメートル。
何だか目を合わせられなくて視線を落とす。
「なんだか、おにいさんのにおいがしたよ」
「あ……ごめんな」
細い鎖骨の更に下、白い前面がちらちら覗く。
「汗臭かったな」
「ううん。そうじゃなくって――」
未だ膨らむ気の無い上部と、僅かに張り出す下腹の対比。薄い皮膚の下に、肋骨の影が見える。
「っと、外れた」
「ありがとう!」
言うと同時に、白いリボンがぴょこんと立った。
其れに何だか笑ってしまう。気付いた少女も釣られて笑う。
びい。びい。びい。
「ん?」
音は手の中。ヘルメットから。
「あっ、なんか、ずっとへんなおとがしてたよ」
ススムの顔から血の気が引く。しまった。
慌てた拍子で無線を繋ぐ。しまった。
〈おい! 小山内! 聞こえてんなら返事しやがれ!〉
余韻も何も、総て台無し。口の臭い上司の声。
「あ、えーっと……はい。此方、小山内、です。――どうぞ」
そんなススムを見て、〈歯磨き係〉がきょとんとする。
そうして、再び破顔して、
「じゃあ、またね。〈はいたつがかり〉の、おにいさん」
ススムの頬に、薄い唇を押し当てた。
目尻が切れんばかりに瞼を開く。見れば彼女は、小さく手を振った。
〈おいこら糞餓鬼、手前ハナシ聞いてんのか、おい!〉
そして耳元の声が総てを台無しにするのだ。
〈状況を知らせろってんだ! なあ、おい! ――どうぞ!〉
咳払いを、一ツして。
「――此方、小山内。〈三本指〉の撃退に成功、繰り返す――」
ずん、ずずん、と足音が響く。今や、其れすら心地良い。
森へ消え行く、二体と一人。
「〈三本指〉の撃退に成功、〈常恐〉は終了。此れより帰局する――」
いつしか昇った白銀の月は、今日も霞が掛かっている。
其れが照らし出す青い鱗は、さながら二ツ目の月のようで。
其れに照らされた赤い鱗は、妖しく蠢く紫の宇宙。
「交信終了」
そう言って、ススムは一方的に通信を切った。
誰のものとも知れぬ遠吠えが、竜の森に響き渡った。
恐竜の 歯磨き係と 配達員
朱を喰らうは 異形の竜
―了―




